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2012年2月

2012年2月29日 (水)

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(2)~「私にとってのピエロ・デ・ラ・フランチェスカ」

Arimotosotugyo1 有元利夫の卒業制作で10点の連作だそうです。これを見ると、展覧会ポスターのような有元の完成されたパターンとは違う要素があるというのか、手法が洗練される前の夾雑物が多数みられるというのでしょうか、ちょっと違い印象を受けます。

■幻想画に通じる雄弁さ

先ず第一に、ポスターの絵とは違って画面に様々な要素が放り込まれて騒々しい感じがします。この赤い階段のある作品など、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカのような中世を彷彿とさせるというよりも、デ・キリコのような幻想の世界に近いものを感じます。また、なわとびの作品の場合には、人物がバランスを欠いているようなイメージに筆が追い付いていない感じがします。このような点から、実はイメージを追いかけるようなところが実は、この画家にあるのではないか、という感じがしました。後年の金太郎飴のようなワンパターンの作品からは直接には感じられない、豊饒で溢れんばかりのイメージ、というよりキリコで言われるような幻視という方が近いでしょうか。ただ、そのイメージにピタリとはまる画面が見つからず、落ち着きがない感じがします。静謐とか、素朴とかいうイメージで後年の有元の作品は見られることが多いようですが、展覧会カタログ等を見てみると、有元という画家自身は自作について饒舌とは言わないまでも、寡黙には程遠いほど雄弁に語っています。それだけ、画家自身は方法に自覚的であるということだと思います。方法に自覚的で、それだけの語る言葉を持っているということは、画家が方法を獲得するまで苦労しているからではないか、と思います。というのも、最初から描けてしまえば、方法など自覚する必要しないし、従って語る言葉など持ち合わせていないはずです。

Arimotosotugyo2 ■何となくちぐはぐな画面は画家のイメージの先走りでないか

そして、この卒業制作と、後の展覧会ポスターとなったような作品との大きな違いは、後年の作品比べて画面の中の人物や個々のパーツがそれらしさ持って描かれていないことです。例えば、赤い階段の作品では赤い階段自体が十分に描かれ切っていないように感じられるし、画面にハマった感じがなくて、何となく画面での存在が浮いているような感じがします。また、人物も白色と塗られているからかもしれませんが、人物として画面中に存在しているのか、画面の中での存在感が中途半端な気がします。これは、画面イメージが先行し、それに描写が追い付いていない証拠のように、私には見えます。また、縄跳びの作品では、人物の頭と胴体のバランスが釣り合った感じがしないし、頭の位置が不自然に見えます。バックの村の光景や樹の描き方を見ても、実際のスケッチを描いたというよりは、樹に見えるものを配置したという感じです。取り敢えず、見る方は樹なのだろうというようなもので、実際の樹というものではないです。だから、有元利夫の絵というのは、写実から出発しているのではなくて、画家の画面のイメージというようなものがあって、それを再現するような描かれ方をしているのではないか、と思うのです。ですから、形態は具象ですが、本質は抽象あるいは幻想画であるように思います。

Arimotosotugyo3 ■本当にピエロ・デ・ラ・フランチェスカに通じているの

この卒業制作は10点あるのだそうですが、題名の「私にとってのピエロ・デ・ラ・フランチェスカ」とあるのに対して、実際のピエロ・デ・ラ・フランチェスカの作品に似ているところを、私は見つけられませんでした。たとえば、乗馬姿の作品とピエロ・デ・ラ・フランチェスカの有名な肖像画『ウルビーノ公夫妻の肖像』を比べてみると、同じ横顔の人物がですが、私には、単に横顔が共通しているだけで、方向性は正反対に見えるのです。ピエロ・デ・ラ・フランチェスカの場合は、それまでの中世のイコンのような様式的な画風から、リアルな人物を描く方向に行こうとして、細部を描き込んだり、人物のふくよかな質感を追求したりとか、リアルさを志向しようとしているのに対して、有元の方は却って様式的な人物の形を志向しているように見えます。細部は省略し、実体的な立体ではなくて、平面的で、姿勢もパターン的なポーズで動きを止められているようです。有元本人は、“その宗教的静謐と平面性、装飾性、絵画的空間など”と書いていますが、私には、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカにとっては、それらは抜け出そうとしている制約に感じられていたのではないかと、思えます。たまたま、当時の絵画に求められていたものと、そこからピエロ・デ・ラ・フランチェスカが新しい方向に行こうとして、たまたま、現われた作品の形態が有元のイメージに使えると、審美的に利用したというのに近いのではないか、と思えるのです。

また、“平面性、装飾性”あるいはダイナミックな躍動感がないということなら、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカだけではなくて、例えば日本画だってそうです。実際にも岩絵の具を使用しているらしいということなので、されならば、尚更、なぜと思います。それがなぜ、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカなのか

2012年2月28日 (火)

あるIR担当者の雑感(61)~議決権行使助言会社は違法じゃないのか?

今回は、ちょっとマニアックな話です。株主総会の担当者の勉強と情報交換の集まりとして東京株式懇話会というのがあります。何回か、ここでも話題としていますが、略して株懇と呼ばれています。部会の名のもとに、毎月メンバーが集まって、勉強会を行っています。今月の勉強会が、先日あり、3月決算の会社は期末が近付いてきているため、自然と話題の中心は定時株主総会に関するものが中心となってきます。そのなかで、最近ISSだとかグラス・ルーツといった会社のことが話題に上ります。これは機関投資家の議決権行使について助言を行うという会社です。株主総会の議題、取締役の選任とか、役員賞与の承認等の株主総会の議題に対して、株主である機関投資家に対して賛否を判断し、投票について助言を行うということで手数料を受け取るというものです。機関投資家はたくさんの企業に投資をしているので、招集通知を全部見切れない。以前なら、機関投資家は、議決権行使をしていなかったのですが、年金基金から投資の委託を受けている場合などは、一旦取得した株式を簡単には売れなくなっているため、その会社の経営に口出しして来るようになりました。すぐに持っている株を売れないとなると、投資した会社に成長してもらわないと困るので、あれこれ経営に口出ししてくるというわけです。そのため、株主総会で議決源を行使して、例えば、取締役選任の際に有能な人かどうかを厳しく見るようになってきている、というわけです。しかし、年金基金やその委託を受けているファンドは、多くの会社に分散投資をしているため、6月に集中する株主総会で、投資した会社の議決権行使を全部細かく検討できません。そこで、代わりに議決権行使助言会社を利用して、助言を受けるわけです。たいていの場合、機関投資家は、その助言通りに賛否の投票をすることになります。

だから、実質的に議決権行使会社が議決権行使の賛否を決めていることになります。その対策として、各企業は、株主総会で会社の提案した議題に対して賛成の議決権行使をしてもらうために、議決権行使会社に議案の説明に赴き、なんとか賛成の助言をしてもらうように説得することになります。とくに、株主の中で、外国人株主や機関投資家の占める割合の大きな企業は、議決権行使助言会社の助言が株主総会の議決に与える影響が大きくなっています。中には、6月の株主総会に先駆けて3月にお伺いに出向き、6月にまた議案の説明に行く企業もあるそうです。

このような手間をかけなければならない状況となっているため、株主総会の担当者では機関投資家の投資を受けるのを、本音の部分では歓迎していないケースも少なくありません。(このことは以前、話題にしたことがあります)

それはそれとして、今回、視点を変えて考えてみたいと思います。結論から言えば、このような議決権行使助言会社は、会社法の精神から言って違法なのではないか、と考えられるということです。

そもそも、会社に投資し、会社の持ち分を所有しているという社員(株主)という資格を持ってはじめて、株主総会の議案を判断し賛否の投票をすることができるのです。それが、何の資格もない人の判断が実質的な投票となるということは、趣旨から言っておかしい。仮に株主が、議決権行使に際して自分一人で判断せずに、誰かに相談するとしても、個人的な範囲での相談です。相談を受けた人は、相談を受けることに対して、報酬を期待するというものではないでしょう。また、株主から相談を受けたから、助言するのであって、最初から、株主でもないのに助言の判断をするわけではありません。個人の場合には、相談を受けた人は、その株主のために助言をすることになるわけです。これに対して、助言会社は利益を得るために助言をするわけで、目的は利益目的です。だから、議決権行使の判断をする目的が違うのです。些細なことのようですが、例えば、この助言会社がある会社について助言している機関投資家の持ち株を合計すると、過半数を越えてしまう場合、助言会社の助言に機関投資家が従うことによって、その会社を支配することもできるわけです。しかも、その会社に一銭も投資することなく、です。私の常識から考えて、これはおかしい。倒錯したものに映ります。

だいたい、年金基金にしても機関投資家にしても、実際の投資判断は、そこに在籍しているファンドマネージャーが実行していて、投資した先のフォローもしているはずです。だから、議決権行使については、そのファンドマネージャーが行えばいいことです。忙しいと言われるかもしれませんが、1社の投票にどれだけ時間がかかるのか、と言われれば、その会社の経営のことをファンドマネージャーは把握しているはずなので、それほどの時間がかかるとは思えません。投資しているのですから、その程度の手間はかけて当然と、投資される側は常識として思います。手数料稼ぎの外野に、無責任な判断をされる企業の身になって考えてほしいと思います。

少なくとも、このような会社が恣意的な判断をしていないか、監視は絶対必要だと思います。公的監視機関を設ければ、そんな監視をする手間とお金はないということでしょうか。それならば、このような会社が助言をするまえに発行会社に助言の内容を報告しなければならないという義務を課すとすればいいでしょう。そうすれば、不正な助言を事前に差し止めることができるようになります。

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(1)

Arimototenji 2010年の8月の終わり、残暑のつづく暑い日だった。たまたま、午後都心のセミナーが早く終わり、時間が出来たので庭園美術館に出かけることにした。有元利夫については、バロック音楽のCDジャケットで使われていたので、どのような絵なのかのイメージはある程度できており、数年前の東京駅のステーションギャラリーでの展覧会を見逃したしまったこともあって、興味はずっと持ち続けていた。時刻の上では夕刻というのに日中と変わらぬ炎天下、地下鉄の駅から美術館までの道は長く感じられ、数分歩いたと言うだけなのに汗ばむという形容をこえて、美術館に入った時はとにかく空調の利いた冷たい空気に触れてほっとしたのだった。

表通りの喧噪と暑さとは正反対の、ひんやりした空気の漂う静謐な空間に、その作品はとても似合っているような感じがした。平日の夕方で、しかも、このような酷暑とも言えるのに、館内はそれなりに入館者が多かったようだが、それぞれがひっそりとした雰囲気を大切にしているようで、有元の作品とそれを大切にしているファンが館内の空気を作っているような感じだった。

有元の作品は、展覧会のポスターにあるような丸顔の小さな顔の人物が、その頭部と比べ不相応なほど大きな肩と腕を要したずんぐりむっくりの大きな胴体の半身(たまに全身)がポーズとも言えないポーズで、背景は往々にして省略されているか象徴的な単純化されたものが置かれているところで、たいてい1人立っているという絵です。しかも、ほとんどの場合、顔の表情は喜怒哀楽を感じさせることない、良く言えば穏やかな表情の人物です。その色彩はくすんだ独特といえるもので、図案化されたような画面と、その色彩とで有元の作品は、見ればすぐそれとわかるものです。

展覧会のポスターもそのひとつでしょう。一見しての感想としては、単純とか素朴で、感情や理念を強く自己主張するというのではなく、慎ましやかに観るものを慰めるというのでしょうか。画家本人がバロック音楽が好きで、自らも楽器をとるとかピエロ・デ・ラ・フランチェスカのような中世からルネサンス初期の画家への志向を自ら語っているように、ヨーロッパの中世の修道院のような信仰と勤行に勤しむような姿でしょうか。展覧会カタログや展覧会の印象が感想が各処で書かれているのを読むと、だいたいそんなような捉われ方をしているようです。

ただ、私の場合、何が書かれているか、というよりはどのように書かれているかのほうに、より興味があって、そういう書かれ方をするから、こういうもの(題材を含めて)を描いているのかといったストーリーを楽しむということをしているので、そういう印象をもたらす仕掛けのようなことを詮索するのが好きなので、これから、展示されていた作品をネタにして、独断と偏見によるストーリーを紡いでみようと思います。

2012年2月26日 (日)

東浩紀「一般意志2.0」(14)

第十三章

アメリカの哲学者リチャード・ローティは、大陸哲学と分析哲学という二つの全く異なる潮流を、実用的にはそれぞれ役立つ側面があるからと、極端に相対主義的な議論を展開した。その著書『偶然性・アイロニー・連帯』では、現代社会では「アイロニー」が倫理の基盤になるべきだという。彼によれば、アイロニストとは「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」と定義している。つまり、何かが真実であることや普遍的であることを信じていながら、しかし同時に、その信念がたまたま自分が信じているものでしかなく、従って他人がそれを共有しない可能性もあるという、そのような「たまたま」の感覚を持つ人のことだ。つまり、あることの普遍性を信じていながら、同時にその信念そのものが特殊であることも認める、そのような自己矛盾を抱えた人のことだ。

この自己矛盾そのものは相対主義の論理的帰結である。相対主義を基盤とするのであればその実践は必ず自己矛盾を伴う。そして、ローティはその自己矛盾を公的領域と私的領域の分割に重ねて論じている。「公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨て去り、自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等であるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足する」のかせアイロニーの実践であると説く。この提案はじつは、公と私の関係を逆転することを意味している。

今までは、人は私的な領域では自分のことだけを考えて行動し、公的な領域では普遍的な行動指針に従い倫理的に生きるべきとしてきた。しかし、ローティは普遍性を目指す動きは全て私的なもの見なされるべきだという。ローティは政治の場での何らかの普遍性を目指す信念、つまりは主義が衝突するがそのような争いには結論が出ないという。すべての真理は相対的で偶然的だからだ。だから公的な場からは、逆に理念的な議論は原則排除されねばならない。あらゆるイデオロギーは私的にのみ信じられなければならない。それゆう、公的領域は、徹底した相対主義のもと、あらゆるタイプの正しさや美しさを受け入れる価値中立的で脱理念的なものであるべきだと論じた。

本書の主題である一般意志2.0の構想は、このようなローティの思想に照らすと全く異なった深みを帯びてくる。

さらに、ローティは異質な人間集団を結びつける公的な原理、「連帯」の原理は理性とは別のもの、つまり「想像力」によって基礎づけられなければならないと考えていた。人間は、決して見知らぬ他人への偏見をなくすことはできない。また、あらゆる人間に共通する本質を発見し、それを根拠に基礎づけることはできない。けれども、人間の持つ想像力は、目の前の他者の苦しみへの共感を生み出し、様々な場面で「彼ら」を「我々」に変える役割を果たす。人々は信念や生活様式を共有できなくても、具体的な苦悩を通じ、互いに感情移入し合うことで生きていくことができる。人間は理性によって連帯できないが、想像力によっては連帯できる。

このようにローティの思想においては、従来は私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基礎となり、逆に今までは公的であった精神的な自己完成や自己陶冶こそが私的領域に閉じ込められるという興味深い逆転が起きている。ローティは感情こそが、理性の限界を揺るがし連帯を生み出すと考えていたのである。

一般意志2.0の構想は、このようなローティの思想と深く繋がっている。熟議民主主義のモデルは、大衆に開かれているように見えて実は閉ざされている。一般意志2.0の構想はその限界を超えるものだ。現代社会の市民は、公的な責任ある主体としては少数の熟議に参加することしかできない。しかし、視聴者として私的に無責任に、身体的で感情的な反応をもとに呟くのであれば、ネットワークの力を借りて実に多くの熟議に参加することができる。したがって、それら私的な呟きを集積し、熟議の場に差し戻すことで、公的な熟議の閉鎖性を壊すことができるのではないか。これは明らかにローティの思想と通じ合っている。ローティの思想と一般意志2.0の思想に共通するのは、人間の動物性こそを、社会の、公共性の、そして連帯の基礎に据える世界観である。

一般意志2.0の構想はルソーの思想の上につくられていた。そして、ルソーは理性を信じず、むしろ身体や感情の盲目的な力をこそ評価した思想家だった。人間が社会を作り他者と共に生きているのは、ホッブズやロックのように人々が理性の力で自然状態を脱し社会を形成したとは考えず、単純に「憐れみ」の感情が人間を突き動かしたと考えた。これは、ローティが「想像力」と呼ぶものがルソーの「憐れみ」に近いものであることは明らかだと思われる。

近代の社会思想では一般に、成員の情緒的な一体感は共同体を閉じるので、論理的な思考こそがその限界を超えて普遍的な社会を作り出すと、そのような理路が説かれることが多かった。しかし、今やそれは必ずしも真実ではない。人間は論理で世界全体を捉えるほどには賢くない。論理こそが共同体を閉じる時がある。だから我々は、その外部を捉える別の原理を必要としている。その探求の果てに我々が辿り着いたのは、熟議が閉じる島宇宙の外部に憐みの海が拡がり、ネットワーク動物性を介してランダムな共感があちこちで発火している、そのようなモデルである。

2012年2月25日 (土)

東浩紀「一般意志2.0」(13)

第十二章

もし社会を個人の比喩で捉えることが許されるならば、本書が構想する未来社会は、本能に従い天真爛漫に生きる幼児=動物でみなければ、成熟した成人=人間でもなく、欲望の噴出に戸惑い懊悩する思春期の青年のイメージが最も近いのだ。青年は動物と人間の間で揺れている。未来の社会も動物と人間の間で揺れている。そのように捉えると、現代社会が「子供化」しているという声が正鵠を得ていると思える。ただしそれは、人間はそもそも子供でしかありえない、完全な大人になり理性的な存在になることなどありえない、その現実を直視する時代が来たという意味においてである。

ここで筆者が考えたいのは、そのような未来社会で人はどのように生きるかという問題である。ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、人間の生を動物的な生と人間的な生の二つの位相に区別している。動物の生は互いに類似し交換可能だが、人間的生としては固有で交換が利かない。そして、アーレントはこの二つの側面を、私的利用域と公的領域の区別に重ねて考えた。つまり、市場とはあくまでも人間を動物として身体的で利己的な関心の身に駆動される消費者で固有性はない。対照的に、公共空間では公的な議論で誰の発言かにより意見の受け取られ方は異なる。そこでは交換不可能な存在である。人は指摘には動物として生き、公的には人間として生きる。というわけだ。

人間には動物としての面と人間としての面がある。我々は、動物としては功利主義的に、即ち快を最大にするように振る舞い、また功利主義的な消費の主体として(交換可能な主体として)集団的かつ統計的な処理の対象となる。そこから市場が生まれる。他方で我々は、人間として他社の固有性を尊重して振る舞い、また唯一無二の存在として扱われることになる。そこから公共空間が生まれる。私的には動物として、公的に人間として。それがヨーロッパの社会思想の枠組みだ。

しかし、一般意志2.0の構想は、この枠組みそのものを壊してしまう可能性を秘めている。市民の政治意識から、まさにその発話者の固有性を奪い、断片化しデータ化し計量可能なものへと変えることによって立ち現われるものだったからである。そもそも、一般意志2.0、すなわち可視化された集合無意識は、人々の私的で動物的な行動の履歴としてこそ成立する。しかもそれに加えて、政治家や専門家の熟議はその無意識によって制約されるべきだと主張している。動物たちの呟きの集積が、選良たちの人間的で公共的な討議を方向付ける。その構図は動物的で功利的な秩序により公共的な秩序を枠づけるという全くの逆転を意味している。民主主義2.0の社会においては、私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形作り、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない。それが本書の最後の命題である。

東浩紀「一般意志2.0」(12)

第十一章

あらゆる熟議を人民の無意識に晒すべし。一言で言えば、それが本書が掲げる未来の政治への綱領である。しかし、それはポピュリズムではないだろうか。最悪の劇場型政治というものではないだろうか。という批判が考えられる。そのように批判に対しては、

第一に、以上の提案は、普通の意味での「ポピュリズム」、つまり大衆の欲望の単なる肯定と異なっている。なぜラバ、彦で目的とされているのは、無意識への従属ではなく、むしろ意識との対決だからである。政治の良識はしばしば大衆の不合理な要求と対峙しなければならない。だからこそ、あらかじめそれに晒される必要がある。無意識の欲望を無視し、選良の論理だけで事態をやりすごそうとしても、結局は抑圧されたリビドーが溢れだし病が深くなるだけだ。第二に、もし仮に以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その時の流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策に組み込んだ方が良い。ソーシャルサービスの普及や動画番組の双方向化を考えれば、今後、人々がますます「おしゃべり」になり、政治もまたますます大衆の即時的で暴力的で無責任な反応に曝されるようになって行くことは間違いない。選良たちによる密室の熟議などというものは、もはや存在しないのである。一方、国民のほとんどは時間的にも能力的にも熟議に参加することができない。彼らに可能なのは、国政選挙の投票時に、二つか三つの「マニュフェスト」からなんとなく気に入ったものを選ぶという、実に粗っぽい「政治参加」だけなのである。我々の社会は、すでにそのような状況下にある。無意識民主主義の提案は、そのあまりに高くなった政治参加のコストを劇的に下げることを目的としている、より正確には、いままでの高級な政治参加とは別に、激安の機能制限版普及型政治参加パッケージを別に用意してあげようというものだ。

国政レベルの政策立案や利害調整は、膨大な知識と繊細な配慮を要求し、アマチュアがやすやすと参加できるようなものではない、しかし、それでも大衆も「感想」を漏らすくらいはできる。それらの感想もまた、収集し分析すれば貴重な政策資源になる。筆者はそこに新しい政治参加の可能性を見出す。それを熟議にフィードバックすれば、大衆の政治参加の実感も復活するだろうし、政策審議の質を上げる上でも効果的だ。現代では、専門家とアマチュア、選良と大衆の区別はもはや人間集団の区別出なくなり、職能の区別、さらには個人内のキャラの区別と化している。つまり、選良とか専門家とか言っても特定の領域に限ってのもので、それ以外は大衆と変わりない。従って現代社会において政策を決定しようとすると、政策課題ごとにタコ壺化した専門家に頼らざるを得ない。また特定の問題に対しては、本当に見識ある専門家を探すこと自体が容易ではない。そのような環境では、市井に眠る潜在的な専門知を発掘する別の役割も担えるはずだ。

以上の提案は、政府内のすべての会議をニコニコ生放送で公開しろと呼びかけているようなものなのだ。ニコニコ生放送においては、画面を膨大な数のコメントが流れていく。出演者は、それをいちいち読むことは難しいが、コメントの群れをひとつの波のように捉え、いわば空気を読むように流れをコントロールするようになる。逆の方から言えば、会話の行く先の範囲を視聴者の欲望によって枠付されているようなものだ。視聴者の声が一種の抑制力として機能している。このシステムが政治に導入されることによって、選良が大衆に従うわけではない。選良が大衆の暴走を抑えるのでもない。逆に大衆の呟きによって選良の暴走を抑制する。理性が欲望に従うのではなく、欲望を可視化することでむしろ理性の暴走を抑制するのがこの提案の目的である。

2012年2月24日 (金)

東浩紀「一般意志2.0」(11)

第十章

未来の統治は、大衆の無意識を排除するのではなくかといってその無意識に盲目的に従うのでもなく、情報技術を用いて無意識を可視化した上で、その制御を志すものとなるべきである。

ここで法律や予算について考えてみよう。この国では、法案や予算案を書くのは、多くの場合は専門家すなわち官僚で、審議し決議するのが政治家である。無論、専門家は国民世論を意識するし、政治家は選挙で国民の審判を受ける。ここに国民の直接の関与はない。この状況は、今の社会では正しいことになっている。しかし、本書の立場では、正しいと考えない。なぜなら、そこには熟議はあるかもしれないが、データベースがない。一般意志がないのだ。では熟議とデータベースが補い合うという本書のヴィジョンを実現するために、具体的な提案を筆者は試す。

我々は一般に、政治的な意思決定に参加するに当たっては、争点を理解し、資料を読み込み、責任ある言葉を発しなければならないと思い込んでいる。そうなると、よほどの専門家や運動家でない限り、政治に参加できなくなるだろう。しかし、他方で、我々は皆同じ社会の中で生きており、したがって、その内容を詳しくは理解でないが、自分の生活に確実に影響を与えている政策は無数にある。そして当然のことながら、我々の多くはそれらの政策にも一定の「感想」を抱いている。この「感想」は公共的な場からは排除されていた。しかし、グーグルの出現や集合知の理論は、断片的な呟きや幼稚な感想でも、何万、何十万と集まれば、そこから重要な洞察を引き出すことができることを教えてくれている。だとすれば、我々は、そこからすべての政策審議について、それを密室からネットに開放し、会議そのものはあくまでも専門家と政治家のものであることを前提としながらも、中継映像を見る聴衆たちの感想を大規模に収集し、可視化して議論の制約条件とする、というような制度の導入を提案する。すべての象徴の審議会や委員会を、あるいは法案条文作成の模様を例外なく中継する徹底した可視化国家。政治家と官僚と学者が集う会議室には必ずカメラとスクリーンが用意され、議論はすべてネットで公開され、他方で室内には、当千数万の聴衆の反応を統計的に死を利子、タグクラウドやネットワーク図で映像化してダイナミックにフィードバックするモニタが用意されたインタラクティブな政府。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補い合う社会という本書の理想は、一つにはそのような制度設計を目指している。

2012年2月23日 (木)

東浩紀「一般意志2.0」(10)

第九章

熟議とデータベースが抗争する場はどのように設計されるべきだろうか。そこで重要になるのが、可視化された無意識=一般意志を「モノ」として捉えるという視点である。

我々の政府の動きは様々な制約のもとに置かれている。そのうち大衆の欲望のまた制約条件として受け容れている。皆が反対することは、それがどれほど「よいこと」であっても実行することができない。この制約は、一般には、制約条件と言うよりは意志と意志の衝突の問題と見なされている。つまり、選良と大衆という対立の構図に置き換えられてしまっている。政府の選良が優れた政策を提出しても、大衆の支持が得られないといった話だ。選良主義者は、民主主義における大衆の欲望はポピュリズムに繋がる。そもそも大衆は何が自分たちの欲望か分っておらず、従って優れた指導者こそ不可欠なのだと主張する。しかし、このような、選良の優れた意志が大衆の愚かな意志と衝突する、というこの見立てそのものが妥当でないとしたらどうか。

現代社会はあまりに複雑で、すべてを見渡せる視線はもはや存在しない。選良と呼ばれる人々は、現実に特定の業界の専門家でしかない。彼らはその業界を離れれば、平凡な消費者、無見識な大衆の一員にすぎない。つまりは、現代においては、選良と大衆という人間集団の対立があるというよりは、一人の人間が、あるときは選良として、またあるときは大衆として社会と関わっている。「大衆の欲望」は、その各人の大衆的な部分の集合として形作られている。

それに加えて、選良が大衆を指導する、啓蒙するという構図そのものに問題がある。フロイトが言うように、欲望はそもそも理性で押さえつけられるものではない。欲望が、たとえそれが不合理なものでも、主体の中核に位置している。それを消し去るのは並大抵のことではない。このような場合、必要とされるのは、(理性の)言葉による説得ではなく、沸き上がる衝動とどのように折り合いをつけるか、その実践的な処方箋である。欲望は独特の物質性を帯びているのであり、理性や言葉だけでは、その力をなかったことにすることはできない。政府と一般意志の関係は、選良と大衆という異なった人間集団の意志の衝突として捉えるべきでなく、「大衆の欲望」即ち一般意志は、国民全体の発言や行動の履歴から統計的に現われて来るものであり、「大衆」という特定の集団がその担い手になっているわけではない。またそれは、啓蒙によってたやすく制御できるものではない。従って、筆者は、一般意志を、説得すべき大衆の意志というよりも、むしろ匿名的で集団的な「モノ」として、物理環境や財政と同じような物質的な制約条件として捉えるほうがよいと主張する。

例えば、と筆者は提案する。2009年の民主党政権による事業仕分けをネットで中継し、それを見た聴衆がツイッター上に意見や感想を数多く投稿して注目された。ここで高度な情報の集約ができていたら、仮に形態素解析やネットワーク分析の手法を用いて無数の「呟き」に高頻度で現われる単語の傾向や相互関連をリアルタイムで抽出し、分りやすいダイアグラムに変換して会場に映写できたとしたら、何十万、何百万もの「呟き」から抽出される聴衆の感情の集積は、会議に出席する政治家や専門家にとって、無形のプレッシャーとなったはずである。彼らは必ずしも大衆の意向に従う必要はないが、あまりに離れることはできないし、無視することもできないだろう。

しかし、社会の見通しが悪くなり、大きな公共が壊れ、政策課題ごとに専門家や「当事者」が集まっては「小さな公共」を立ち上げて議論を深めるほかない、我々はそのような時代に生きている。しかし、専門家や当事者の議論はしばしば暴走する。問題意識や専門知識を共有する参加者の議論はどうしても内向きになるし、ときに既得権益も発生する。結果として、政策課題それぞれについて、それが国家全体の施策の中でどのような優先順位を与えられるべきものなのか、大局的な判断ができないまま非現実的な議論ばかりが行われることになる。そのような状況にあって、乱立する小さな公共たちをまとめ上げる大きな公共の再興が無理なのであれば、せめて「大きな無意識」の、つまりは一般意志の可視化を利用するとよいのではないか。

2012年2月21日 (火)

東浩紀「一般意志2.0」(9)

第八章

21世紀の国家、それは、生活環境の隅々にまでコンピュータとネットワークが入り込み、膨大な量の個人情報がデータ化され公開され、市民の無意識が日々集計されて統治の基礎をなす、そのような国家となるだろう。社会思想では、このような変化への警戒心が強い。「監視国家化」や「ネオリベ化」と非難の言葉である。ここで本書として問題にしているのは、そのようにイデオロギーの問題以前に、政府が人民を、あるいは国家が市民を支配するという常識を覆す国家像、社会像を、ルソーと情報技術の交差点で考えようと試みているのだから。政府2.0は、政府(公)と民間(私)の垣根を越えた、市民生活すべてを覆うサービスプラットフォーム(共)になるのだと表現してもいい。

来たるべき政府は、一方で市民の無意識を吸い上げながら、他方で市民のあいだの意識的コミュニケーションをも活性化させる。そのような二面性を備えるものでなければならない。その点を、「国家」と「社会」の点から考えを進める。ヘーゲルによれば「社会」は個人と個人の関係の集積からなっていて、その関係を成立させるのは各人の欲望だ。人は皆欲望を満たすために他者と関係を持ち、社会はその関係の総体として存在している。ヘーゲルは「欲求の体系」と呼んだ。この「欲求の体系」は誰も認識することができない。無数の個人が互いに張り合っている欲望のリンクの総体は、あまりにも複雑でだれも見渡すことができない。ヘーゲルは、この認識の上で、「国家」とは、その総体を認識し統合するもの、すなわち市民社会の「自己意識」として現われると考えた。国家は社会の「自己意識」として現われ、国家が出来てはじめて社会は自分自身を認識することができる。意識が人格の同一性を保証するように、国家は社会の同一性を保証する。しかし、実際にどのような過程を踏めば一般意志=国家の意志が社会から立ち現れて来るかの具体的条件は語らなかった。

そこで、一般意志2.0の思想を前提にしてかんがえてみよう。無定形な市民社会をひとつにまとめ、同一性を与える再帰性の働き、ヘーゲルでは国家が担うとしていた、これが二つの方向に分裂していると指摘する。一つは社会の現実についての意識的な理解、すなわちヘーゲル的な「国家」の働きである。もうひとつは社会の現実をめぐる無意識な記録、一般意志2.0の産出過程である。情報技術に覆われた現代社会は、自分自身を認識するために、国家とデータベースという二つの手段を持っている。つまり、我々の社会が、自らの状態を認識し言語化するために二つの異なった手段を備えていると主張している。筆者は、そこで、今までの自覚とは異なった自覚の回路が現われているので、それを政治的に利用することを考えることを提案していると説く。

だから、これからの政治的決定は、すべてその巨大なデータベースの数理的処理に基づいて行われるべきかといえば、それだけではなくて、一般意志2.0の政治的利用がある程度進んだ状況においては、古びた公共圏の思想にも新しい役割が与えられる。「無意識」という言葉に立ち返ってみれば、フロイトは、人間の意識が、自らの行動を全て制御できているわけではないことを発見した。かといって彼は、人間がすべて無意識に支配されていると考えたのではない。フロイトが注目したのは、あくまでも意識と無意識の衝突現象だった。我々が一般に「人格」や「性格」と呼んでいるのは、その人の意識と無意識の相克の結果に他ならない。このモデルを国家に当てはめてよいのなら、来たるべき政府はもはや一般意志に従うものとしてだけ考えることができない。21世紀の国家2.0においては、一般意志は、一般意志1.0と一般意志2.0に分裂している。公共圏は熟議とデータベースに分裂している。だから政府2.0は両者の相克の場、衝突のインターフェイスとして捉えるべきだろう。すなわち、21世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

そもそも、国民国家の統治は膨大な量のデータ(無意識の可視化)がなければ立ち行かない。例えば国勢調査による個人情報の収集や公衆衛生や社会保障の整備こそが近代国家の権力の柱をなしている。しかし、総記録社会の誕生は、そのデータの質と精度を決定的に変えてしまった。情報技術は国民の無意識を丸裸にしつつある。だから、我々は、これからはその無意識をこそ統治に活かす手段を編み出さなければならない。それが本書の第一の主張だ。

しかし、それは必ずしも、来たるべき国家がデータベースの奴隷となることを意味しない。ネットワークとコンピュータが産出=算出する無意識の欲望に脅かされ、その抑制にときには成功し、ときには失敗しながらも、よろよろと統治を進めていけばよいのである。まずいのは、むしろそこで無意識の欲望を無視してしまうことだ。それが本書の第二の主張だ。

熟議とデータベースが補い合う社会。このヴィジョンは、メディア史との符合からも裏書きされる。現代社会には「大きな公共」は存在しない。社会全体を納得させることのできる熟議は存在しない。我々はもはや「小さな公共」の切り貼りでしか政策を作ることができない。そして、情報化はその欠落を埋め合わせるかのように進んできたと言う歴史的な符合がある。1970年代以降、欧米及び日本の先進国において、社会の複雑性が増し価値観が多様化し政治が無力になっていく一方、コンピュータで処理され記録される情報だけが増え続けるという現象が見られた。つまり、先進各国が、全体を見渡す政治的な視点や全体を論じる討議の場を手放すと共に、あたなもその喪失を補うかのように、全体なき断片、物語なきデータを蓄積する技術ばかりを急速に洗練させてきたかのような同時代性を備えているのである。このような熟議とデータベースが補い合う国家像は、20世紀の流れからの必然的帰結でもあるのだ。

政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は。意識と無意識、熟議とデータベース、複数の「小さな公共」と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として構想される。そこでは、意識で無意識を抑える、選良の理性で大衆の欲望を制御すると言った発想で事態を捉えてはならない。一般意志は、政治の前にモノとして立ち塞がる。ここではむしろ、新しい政治を、大衆の欲望を制約条件として国家を統治する術として捉えることが求められる。つまり、我々は社会を運営するうえで、これからはまず可視化された大衆の欲望を条件として受け容れる必要があるのだ。そこに抵抗しても意味がない。政策が実現しなくなるだけだからである。かといって、それは大衆の欲望の奴隷になることを意味しない。そま制約条件のうえでいかに優れて政策を立案し施行するか、「熟議とデータベース」という言葉でとわれるのはその方法論であって、選良主義や原理主義はそこからもっとも遠いものなのである。

東浩紀「一般意志2.0」(8)

第七章

筆者は、例として公共事業の無駄を取り上げる。高速道路や地方空港、ダムといった公共事業が無駄として批判される背景には、現実と乖離した需要予測と不透明な決定プロセスだ。そこで既得権益等の批判が起こるのだが、そこで新しい決定過程を創出すべきではないか。公共工事の決定に際して、現実に誰がその道路や空港を求めているのか、実際の場所をどれほどの人が通過し、匿名の利用者はどのような感想を抱いているのか、スマフォの位置情報やETCの記録からネットへの投稿まであらゆる情報を集めて分析し、それをオープンにしたらどうだろうか。我々が直面しているのは、国民の望みが政府に取り上げられないというより、むしろ、国民が何を望んでいるのか、誰にも分らないという事実である。我々は自分たちが何を望んでいるのか、選挙や公聴会のような迂遠な制度を介することなく、マスコミで恣意的に物語化されることなく、直接に可視化する装置を必要としている。情報技術を駆使して、市民の意識ではなく無意識を探る政治。とくに政治参加の意識を持たなくても、日々の生活の記録が日々の生活の記録がそのまま集約され政策に活かされ政策に活かされる透明な統治。

ここで大きな障害となるのは、20世紀の政治思想が練り上げてきた「熟議」の理想が消えてなくなることへの懸念だった。現代では「熟議」を成立させるのは難しい。だから今の社会状況や技術的な条件を前提として、いかに成立させるか、アーキテクチャの設計を語る方が建設的ではないのか。その課題は一般意志2.0の構想とは矛盾しない。そうすれば、一方で市民の無意識を積極的に吸い上げながら、他方で市民の間の意識的コミュニケーションをも活性化させるという二面性を備えることが可能となる。

ここで、筆者は「無意識」という言葉に注目する。「無意識」は。フロイトの精神分析に起源をもつ概念で、一言で言えば、人間は自分の信じるほど自分のことを理解することができない、その認識を中核としている。人間は自己の欲望を知らない。自己の欲望を知るためには、人間は、他者の、即ち精神分析の介入が必要になる、それが精神分析の中心にある着想で、だからこそ主体と意識の力を信じる近代哲学に大きな影響を与えた。ルソーは、そのフロイトよりも前の時代の人で無意識という概念がない時代の人だ。したがって、一般意志は無意識とつながるとはルソーは言っていない。にもかかわらず、一般意志2.0を「無意識」の欲望の集合と捉えようとするには理由がある。ひとつは、ルソーの一般意志をめぐる記述が精神分析の存在を知る観点で読むと、そう読めるということだ。ルソーは全体意志と一般意志を区別する。全体意志と一般意志が相反するように見える時は市民は自分の本当の望みに気が付いていないという。人が本当の欲望に気が付いていないという構図は精神分析のそれと重なる。社会契約説の歴史から見れば、ロックやホッブスにはそういう主張はない。例えばロックの場合は、市民は自らの生命と所有権を守るために社会契約を結ぶのであり、その限りで自然権を政府に委託しているに過ぎない。ロックの社会契約の当事者は、自分が何を望み、何を守るべきか分っている。ところが、ルソーは、それが崩れている。そもそも、ルソーは人間は自然正体では孤独でバラバラに暮らすことで満足していたはずで、社会を作るのは望ましいことではなかった。では、なぜ社会が生まれたのか、それは単純に人間が他人の苦しみに共感し憐みを持つ弱い存在だから、孤独を捨てて群れてしまうという。この憐みこそ、あらゆる反省に先立っているから、普遍的で有益であり、自然な美徳であるから、その能力によって自分たちを守ることができた。それが社会だという。

もうひとつ、現代のネットの特徴に由来することだ。今人々はネットで大量の個人情報を公開し蓄積し始めている。それを筆者は、そこで記録されているのは「無意識」だと捉えている。現在のネットでは人々の行動や発言を逐一記録し保存されている。そこで記録されている発言や行動それぞれは、ユーザーによって意識的になされたものかもしれない。しかし、データが大量に集まると、その分析によって、ユーザー本人はけっして意識することのない、思いもかけぬ傾向やパターンが抽出されることがある。情報の履歴が意識より無意識に関わるとは、そのような事態巣を形容して述べている。ネットの政治的な利用の本当の可能性は、無数の市民がそこで活発に議論を交わし合意形成に至るといった熟議の理想にはなく、議論の過程で彼らがそこに放り込んだ無数の文章について、発話者の意図から離れ集合的な分析を可能にするメタ内容的記憶保持の性格にこそあると言うべきだ。発話者は一般に、発話の内容については意識的に制御することができる。しかし、発話のメタ内容的な特徴、例えば語彙の癖や文体のリズムや書く速度などは容易に制御できない。そしてネットは、まさにそのようなメタ内容的な情報の記録に適している。例えば、ネットを舞台に日韓関係や歴史認識問題について有益な議論ができるとは思えない。しかし、他方で「韓国」「在日」といった言葉について、プログやソーシャルメディアでどのような言葉と一緒に現われる傾向が強いのか、個々の発言内容と切り離して統計的に分析することができる。かつて、フロイトは、『日常生活の精神病理学』で、固有名詞の忘却や言い間違い、書き間違いなどにこそ無意識の欲望が現われていると記したことがある。現在のネットほど、そのような間違いを正確に記録し分析するのに適したメディアはない。つまり、ブログやツイッターに文章を投稿する時、我々は投稿したいと考えたこと(意識したこと)を投稿しているだけではない。そこでは同時に、投稿したいと考えなかったこと(意識しなかったこと)もまた投稿してしまっている。一般意志2.0は、そのような意識しなかったことの集積として立ち現われる。だから、無意識という語を用いる。

2012年2月19日 (日)

東浩紀「一般意志2.0」(7)

第六章

ルソーは、政府は一般意志の公僕であるべきだと記した。政府は主権を持たない。民意を代表することもない。主権はあくまでも人民の一般意志に宿るのである。政府はその僕に過ぎない。もしこの主張を現代に適用するならば、来るべき政府、政府2.0は、先ずは一般意志2.0の僕として構想されることになる。この政府2.0は、市民の明示的な意志表示(全体意志)ではなく、情報環境に刻まれた行為と欲望の集積、人々の集合的無意識=一般意志にこそ忠実でなければならないことになる。無意識に導かれる政治。それこそが、二世紀半前にルソーが幻視し、今ネットワークを基盤として立ち上がりつつある新しい政治の姿なのだ。

この政府2.0という言葉アメリカの一部業界で流行語となっている。例えば、ティム・オライリーは、未来の政府は、国民を抑圧したり監視したりするパターナリスティツクな存在ではなく、多様な市民生活や企業活動を支援する、検索サービスやソーシャルメディアのようなプラットフォームになるべきであるという。具体的なイメージとして、Amazon.comのように消費者の購買履歴から関連書籍を自動的に推薦してくれるように、市民一人ひとりの個人情報を可能な限り保存し、教育や医療や就職支援などそれぞれのニーズに合わせてカスタマイズした選択肢を提供する巨大なサービス産業としての政府像である。

しかし、国民の多くは、このようなものを政府ではなく、良くできたサービス業としか感じないのではないか。我々は政治について、一定の先入観をもっており、その中核が一般意志2.0や政府2.0の思想とどうしても衝突してしまう。この議論を前に進めるためには、これを乗り越える必要がある。従来の社会思想は、政治とは何よりもまずコミュニケーション、とくに言語を介した意識的なコミュニケーションだと考えてきた。その前提の上で、現代社会が直面している政治の危機も民主主義の危機について多くの議論が積み重ねられてきている。現代人は政治に関心を持っていない。政治そのものに関心を持とうとせず、社会全体を見渡そうという意欲が衰え、私的な関心に閉じ籠もってしまっているため、健全な政治や高教研が成立しない。つまり、思想家たちが前提としている政治的コミュニケーションが成立していない。

この点について従来の社会思想の枠内にいる人たちは、カントの目の前の他者に対する特殊な(私的な)共感は、理性によって乗り越えられるべきであり、その乗り越えの果てにこそ普遍的な(公的な)道徳が確立されるという主張から抜け切れない。現実に、このような乗り越えのプログラムが破綻し、理性は共感を乗り越えないし、不変性は特殊性を乗り越えない。彼らは一方で私的な共感しか残されていないことを認めつつ、他方でそこにこそ公的で普遍的な倫理の可能性を探るという苦しい議論を模索している。

そこで、筆者は、私的/公的、非他者/他者を分割する抽象的な枠組みを捨てて、もっと具体的に議論を進めることを提案する。現代社会ではコミュニケーションが麻痺している。そうなった理由は、現代社会があまりに複雑で、人間の主体的な判断を麻痺させてしまうことにある。その状況に、技術やメディアは、情報そのものではなく、むしろ情報の減少を付加価値としてユーザーに提供し始めている。例えば、グーグルの検索エンジンは、新しい情報を生み出すものではなく、すでにある情報について画面に表示されるサイトの数を限定すること、すなわち情報量の減少をするものなのだ。現代人は、複雑なものにはお金を払わない。むしろ複雑さを減らしてくれるものにこそ、お金を払う。従って、政治の再生、さらにはコミュニケーションの再生を構想するのであれば、世界の複雑さを縮減し、政治的なコミュニケーションを可能にする制度設計の技術ということになる。情報機械を介したコミュニケーションではインタへフェイスやソフトウェアの設計思想が、そのままコミュニケーションの量や形式、ときに内容に決定的な影響を与えることになる。このような情報環境のもつ力が「アーキテクチャ」というキーワードのもとで焦点化されている。「アーキテクチャ」とは仮想的な情報環境の設計を意味する言葉だ。そこで、その前提の上で、私的なコミュニケーションを公的な場に繋げ、普遍的な問題意識に開いていくようなアーキテクチャを設計するという技術的な挑戦によって進められるべきだと主張する。社会思想が高度な逆説としてしか認識できなかった問題を、情報技術の現実に照らしてじつに世俗的で具体的な課題に変えてしまうこと。それが筆者の主張しようとしていることだ。

インターネットに対する従来の議論では、悲観的な議論が多い。ネットは、アクセスしたい情報にはアクセスできるが、自分にとって不快で無意味な情報は遮断できる。いわゆる「島宇宙」を強化し、同質な者によるタコツボと化す。筆者は、これに対して、設計を変えることにより改善の可能性はあると言う。インターネットでは他者に出会わないと大雑把に捉えるのではなく、どのようなタイプのネットワークであれば人は閉じ籠もり、逆にどのようなタイプであれば他者に出会うことができるか、その差異を見極めることだと言う。

東浩紀「一般意志2.0」(6)

第五章

ルソーの一般意志は抽象的な理念に止まらざるを得なかった。しかし、現代社会は、人々の意志や欲望を意識的なコミュニケーションなしに収拾し体系化する、そのような機構を現実に整備し始めている。例えばグーグル。グーグルのユーザーは相互に意見を交換しているわけではない。彼らはただ、自分の目的のためにサービスを利用し、思い思いに検索窓に単語を入力するだけだ。結果についてもページの良し悪しについて意見を表明するわけではない。にもかかわらず、その一人一人の行動が蓄積し解析されて現われる集団的な「意志」、検索語の選択やページの閲覧履歴や広告のクリック頻度は、巨大な知を形成して現代社会に大きな影響を与えている。このようなものは一見政治とは無関係に見える。しかし、ルソーの一般意志の概念が常識的な意味での政治や意志から離れていることは前章で明らかになった。そこで、筆者はデータの蓄積こそが現代社会の一般意志だと捉えることを主張する。我々の望みの集約は、我々自身が話し合い探ることがなくても、すでにネットワークの中に刻まれている。一般意志とはデータベースのことだ。

現代社会は、リアルでもネットでも見境なく、膨大な個人情報を蓄積し始めている。例えば、ブログによる情報発信は日常化し、それだけでなくブログを眺めているだけでも、あるいは音楽をきき動画を再生しているだけでも、その消費行動そのものが全てデータとして収集され、集合知の生成過程に組み込まれる。そのような貪欲に情報が集められ蓄積されている。総記録社会とでも呼ぶべき社会が出現している。このような総記録社会が生み出す巨大なデータベースは、人々の欲望の在処を、250年前のルソーが想像も及ばなかった形で浮かび上がらせている。

このような状況に対して、監視社会とかプライバシー喪失という批判もある。しかし、現実に自由な市民がグーグルのような10年程度の歴史しかない、それこそ名前も知らない民間企業が創設した正統性も確認できないようなサービスに雪崩を打つように個人情報やプライバシーを委ねてしまっている。我々はいまや、ある人間がいつどこで何を欲し、何を行ったのか、本人が記憶を失っても環境の方が記録している、そのような時代に生き始めている。総記録社会は、社会の成員の欲望の履歴を、本人の意識的で能動的な意志表明とは無関係に、そして組織的に、蓄積し利用可能な状態に変える社会である。そこでは人々の意志はモノ(データ)に変えられている。数学的存在に変えられている。

一般意志とはデータベースのことだ、筆者は言った。しかし、このことは、現実のルソーの念頭にあった一般意志そのものではなく、あくまで彼のテクストを21世紀の観点から再解釈した概念であること。それはつまり、彼のテクストの一部はグーグルやツイッターについて語っているように読むことができるし、そしてそれは、彼が近代民主主義の起源にいる思想家である以上、いま民主主義の革新に際して利用可能なはずだ。そこで、本書では、一般意志の概念全体を「一般意志」と呼び、ルソーに忠実なそれを「一般意志1.0」と、そして彼のテクスト全体を総記録社会の現実に照らして捉え返し、それをアップデートして得られた概念を、「一般意志2.0」と呼んで区別していく。たとえば、ルソーは一般意志は市民の心に刻まれていると述べた。だから知覚することができない。他方で一般意志2.0は情報環境に刻まれている。だからそれは知覚することができるはずだ。これは『社会契約論』の「立法者」の解釈で端的に表われる。ルソーによれば、一般意志は全体意志とは異なり、人民がいくら議論を交わしても、自分たちの力では一般意志に到達することができない。それゆえ、一般意志を掴み、それを現実の制作や制度として具体化するためには「天才」とも形容される超人間的な特異点が必要とされる。それが「立法者」だ。これは、結果として独裁者の出現を容認することになる。しかし、アブデートされた一般意志2.0では、一般意志は知覚できるものに変えられている。一般意志は理念でも物語でもなく、具体的にデータベースとしてどこかのサーバに格納されている。だから超越者は必要なくなる。必要なのは、適切なアクセス権と解析アルゴリズムの設定だけである。だから、自分が無意識に表出した行動や欲望について、誰もがその集団内での位置を事後的かつ数理的に確認できるようになったとき、我々は「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由なままでいられる」という謎めいたルソーの言葉をはじめて現実的にかつ具体的に理解することができる。

ルソーは政府を主権者と混同してはならないと記した。政府は一般意志の公僕にすぎない。ルソーの考えでは、一般意志は分割も代理もできない。だから、政府が一般意志を「代理」すること、つまり一般意志のかわりに判断することもありえない。つねに、一般意志の動向に心を配り、その手足として動くほかないのである。その理想を現代社会、つまり一般意志2.0で解釈すると、国民の代表による国会というような自分たちの意志を誰かに「代表」してもらう必要性はなくなる。一般意志2.0を精緻化し、その出力と統治機構をつなぐ制度を設計すればよくなるわけだ。

このような前提の上で「政治」とは何かという議論に立ち戻ろう。ハーバーマスやアーレントは熟議による説得と合意のプロセスの重要性を説いた。しかし、このようなことが成立するためには「世界」を共有していること、何らかの文化や生活様式の共有を前提としている。けれども現実には、情報の流通量が飛躍的に増加し、人々があまりにたやすく繋がるようになってしまったため、議論が成立するために必要な密度の濃い世界の共有が成り立たなくなってきている。その象徴としてあげられるのがテロリズムの台頭である。テロとは、議論において異なった意見を提示するのではなく、議論に参加しない、議論の場そのものを破壊するというかたちの「意見表明」だ。身近な所でも、例えば環境問題でも経済問題でも、全く異なる現状整理と分析を語る専門家の群れの議論や、世代の違いや文化的背景のちょっとした違いで議論がかみ合わない。同じ日本人で同時代に生きていても議論が出来なくなってきている。21世紀の社会は複雑すぎる上に情報技術のおかげであまりにそのまま可視化されてしまっているため、かつてのような二項対立に議論を単純化できず、処理すべき情報が個人の限界を超えてしまっているので、コミュニケーションに必要な共通性が成立しにくくなっている。現代社会の市民は、議論を始めるにあたって、議論の場そのものの共有を信じることができない。意見は異なっても、とりあえず同じ共同体の一員としてひとつの議論に参加している、という出発点の意識すら共有できない。だとすれば。データの海の中で溺れかけている公共圏の思想よりも、表面的には私的利害の調整しか行わないように見える一般意志2.0の思想の方が、まだしも、小さいけれども生産的な議論の場を成立させ、ひとりひとりの選好を変容させる可能性を開くと筆者は主張する。

2012年2月18日 (土)

東浩紀「一般意志2.0」(5)

第四章

一般意志は数学的な存在である。それは人間の秩序にではなくモノの秩序に属する。コミュニケーションの秩序にではなく数学の秩序に属する。従って、一般意志の生成には、共同体の成員の合意は必ずしも必要がない。一般意志は、成員が互いに何も話し合わず、たとえ一言も口を利かず、目すら合わさなかったとしても、そこに共同体がある限り、端的に事物のように「存在」する。統治はその存在に従わねばならない。

「一般意志」という日本語は強い言葉だが、言語のフランス語ではもっと広がりのある日常語だ。そこで筆者は「一般意志」を「一般欲求」に置き換えることを提案する。その場合、次のような例が考えられるという。会合の席で、出席者が漠然と喉の渇きを覚えた場合に、皆が飲み物を欲していたのは「欲求」であるという。この時の飲み物を何にするかについては出席者の好み(特殊意志)はあらかじめ確定しており、スタッフがやるべきなのは、その均衡点(一般意志)を探るだけ、と考えるのが合理的だ。こう考えると「一般欲求」がコミュニケーションの外部に数学的に存在するという考えは突飛なものではなくなってくる。

果たして、これは政治に関するものなのかという議論が起こるかもしれないが、それは政治とは何かという定義の問題に関連すると筆者はいう。そこで、政治と意味が近い公共の概念について、ハンナ・アーレントとユルゲン・ハーバーマスを取り上げ検討する。二人とも、互いに話し合うこと、とことん話し合うこと、政治と公共性はそのコミュニケーションの分厚さ基礎づけられると主張した。さらに、熟議民主主義という考え方があり、個人の意志を集めただけでは民主主義は生まれず、その意思集約の過程で一人一人の意志が変わっていくことだというプロセスを重視する。これらの社会思想は、ルソーの考えと真っ向から対立する。

ここで筆者は、もう一人、カール・シュミットの議論を取り上げる。彼は『政治的なものの概念』において、政治の本質は友と敵を分割し、敵を殲滅することにあるという。現代の常識では、異なる価値観の存在を許容し、そのうえで対立スッする利害を調整し、何が正しいか、何が公益に資するかを判断するのが政治ということになる。しかし、シュミットは、善悪を判断するのは倫理で、利害を判断するのは経済であり、政治的な判断はそれらと離れた固有の領域を形作る。たとえ相手が善であっても(倫理的判断)、相手と組んだ方が得であっても(経済的判断)、相手が敵である限り、そのような判断を無視して殲滅を図るのが政治だという。シュミットによれば、飲み物について茶がいいかコーヒーがいいか、両派が分かれて逃走することこそが政治だということになる。

これに対して、一般意志は熟議を必要としないし、友と敵を分割しもしない。そういうものからかけ離れた政治ということになる。

2012年2月16日 (木)

東浩紀「一般意志2.0」(4)

第三章

一般意志は政府の意志ではない。個人の意志の総和でもない。一般意志は何よりも数学的存在である。ルソーは『社会契約論』の同じ章で「部分的結社の禁止」も主張している。それは一般意志の成立のためには社会は単一のものでなければならない、いくつもの「結社」に分割されてはならないという主張で、具体的には政党の結成を拒否している。ルソーは実は、ジュネーブのような小さな都市での直接民主主義を理想とし、代議制を必要悪と考えた思想家だった。例えば彼は、『社会契約論』のなかで、「主権は代表され」えない。それは主権が譲り渡され(疎外され)えないと同じ理由による。従って人民の代議士はその代表者ではあり得ない。彼らは委託業者に過ぎない」

筆者は、ルソーのテクストを読み進めると、このような一般的な直接民主主義への固執というよりも、はめかにラディカルであると主張する。ルソーは結社を認めないだけでない。直接民主主義を支持するために政党を認めないというだけでもない。彼は、一般意志の成立過程において、そもそも市民間の討議や意見調整の必要性を認めていないのである。これはどういうことか。一般意志の定義から考えてみる。一般意志は特殊意志の単純な和(全体意志)ではなく、むしろ「差異の和」だと捉えていた。しかしそれだけではない。彼は実は、それに加えて、一般意志の正確さは差異の数か多ければ多いほど増すと主張していたのである。ルソーは、一般意志は、集団の成員がある一つの意志に同意していく、すなわち意見間の差異が消え合意が形成されることによって生まれるのではなく、むしろ逆に、様々な意志が互い差異を抱えたまま公共の場に現われることによっても一気に成立すると考えていた。一般意志は差異の総和である。したがって差異は多ければ多いほどよい。市民の間の意見調整は、逆に差異を減少させ、一般意志を不正確なものにする否定的な役割しか果たさない。そもそも、結社なるものが、否、それ以前に政治的な議論の場、コミュニケーションの場そのものが、一般意志の出現のためには障害になっていると考えていた。つまり、ルソーは、一般意志の成立のためにはそもそも政治からコミュニケーションを追い出すべきだと主張した。

一般意志は、一定数の人間がいて、その間に社会契約が結ばれた共同体が生み出されていれば、如何なるコミュニケーションがなくても、自然にと数学的に存在してしまう。ルソーはそう考えた。だからそれは、ある意味では言葉よりもむしろ物質に近い。一般意志は人間の秩序ではなくてモノの秩序に属する。それは人間集団の前に、こまごまとしたコミュニケーションの結果としてではなく、あたかも自然物であるかのように立ち現われる。だからこそ政府は常にそのモノに従わなくてはならない。

このような主張は、彼の人間観、社会観、文明観と深く関わっていると筆者は主張する。そもそも、ルソーは孤独を愛した思想家だった。多くの著作において孤独を賞揚する思想を展開した。人間は一人で生きるに越したことはないし、そもそも自然状態においては一人で生きていたはずだと考えていた。人間と人間の相互依存が発達し、社会状態に入るということは、虚飾と悪徳と格差を生み出し、人間から自由を奪うものでしかないと考えていた。そこで彼は、はっきりと人間の人間に対する依存、つまりは社会の誕生を悪の起源として名指ししている。

ルソーは18世紀半ばのサロン文化にはなじめず、都会のお喋りを嫌った。一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で想像されるものとはかなりかけ離れた、現代風に言えば実に「オタク」臭い性格の書き手だったのである。かれは人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そのような弱い人間だった。ルソーは一方では、絶対の個人主義、主体の自由を訴えたロマンティストだった。しかし他方では、一般意志の特殊意志に対する優越を主張する革命家であった。つまりは個人の優位を主張する文学者のそれと、社会の優位を主張する政治思想家のそれの二つの顔があった。その二つの顔は、ともに人間が人間の秩序(コミュニケーション)から自由になる、モノの秩序(一般意志)にのみ基づいて生きるというルソーの理想に同じように奉仕するものだった。

2012年2月15日 (水)

東浩紀「一般意志2.0」(3)

第二章

筆者はルソーにテキストに沿う。ひとは自由で孤独な存在として生まれた。しかし自然状態はいつしか維持できなくなり、ひとは集団生活を行い、社会を作らざるを得なくなる。そこで人は「社会契約」を結び。ルソーにおいて社会契約とは、人民一人ひとりが「自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡する」ことを意味している。その結果として生まれるのが、個人の意志の集合体である共同体の意志、すなわち「一般意志」だ。ルソーの考えでは、共同体の主催者はこの一般意志であり、したがって市民は一般意志に絶対に従わなくてはならない。ルソーが考えた社会契約は、支配するものと支配されるものの間を規定するものではなく、それよりも前の水準で、人と人とを「結合」させ、支配者も被支配者もともに属するところの共同体を生み出すためのものだった。一般意志は、その共同体全体の意志を意味している。『社会契約論』は、最初に社会契約があり、その結果として一般意志が生まれ、最後に統治機構が設立されるという順序で書かれている。ルソーにとって、この成立の順序、「一般意志」と「統治機構」の区別、あるいは主権と政府の区別は極めて重要なものだった。政府は一般意志の手足に過ぎない。これは一般意志を実現するために様々な統治の形態があることを意味している。人民全員で一つの意志を形成すること(一般意志)は、ルソーの構想においては、必ずしも人民全員で政府を運営すること(民主主義)に繋がらない。彼にとって重要なのは、国民の総意が主権を構成していること(国民主権)、ただそれだけであり、その主権が具体的に誰によって担われるのか、国民が望むのであれば王でも貴族でも誰でもよいのである。

この主権と政府を区別することが、人民に対して既存政府を転覆する権利である「革命権」を保証することになった。主権と政府を同一視すると、社会契約説は政府の転覆を正当化できない。ルソーによれば、政府は一般意志の執行のための暫定的な機関にすきない。だから人民はいつでもその首を挿げ替えることができる。社会契約は、あくまでも個人と個人の間で結ばれるものであり、個人と政府の間で結ばれるものではない。主権は一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。これが『社会契約論』の中核の論理だ。

こういう社会契約説は、現在の民主主義体制の常識とは、いささか離れたものになっている。さらに、筆者は一般意志についての検討に進む。一般意志とは、人民の総意である、というのが一般の理解である。しかし、ルソーが規定しているのは、我々が今「総意」を「世論」という言葉で想像するものとかなりかけ離れている。ルソーは「一般意志は常に正しく、常に公共の利益に向かう」と断言している。ルソーがこう言うのは、大衆の良心を過剰に信じているからではない。彼の理論においては、そもそも一般意志こそが善や公共性の基準を作るはずなので、それが誤ることは定義上あり得ない、そんな論理になっているのである。ルソーが一般意志と呼ぶもの、我々の「世論」より一段と抽象度が上がった存在だ。

『社会契約論』で、ルソーは一般意志の固有の性格を、それと似ていながら、しかし決定的に異なる「全体意志」というもう一つの概念との比較で浮かびあがらせている。一般意志も全体意志も、複数の個人の意志、「特殊意志」の集合であることは変わらない。しかし、一般意志(一般化された意志)が決して謝らないのに対して、全体意志(みんなの意志)はしばしば誤ることがある。この区別でいえば世論は全体意志に重なり、一般意志でないことになる。一般意志はあくまで共通の利害に関わるのに対して、全体意志は私的な利害の総和でしかない。

ルソーは一般意志と全体意志の差異について、このような概念的な規定をするだけでなく、数理的な表現を用いても語っている。全体意志は個別意志を集めたもので、ルソーは、それを特殊意志の総和(=合計)だと定義する。続いて、一般意志は特殊意志の単純な和(全体意志)から相殺し合うものを除いた上で残る、「差異の和」として定義している。たとえば、このことをベクトルの概念で語ると、全体意志は体積や重さのように方向がない、スカラーと呼ばれるもので体重50キロの人を二人合わせると100キロになる。これに対して一般意志には方向がある。つまりベクトルである。例えば速度がそうで時速50キロで北方向に移動しているのと、南方向で時速50キロで移動しているものを合わせると、外部から見た移動速度はゼロとなる。ここで重要なのは、たとえその表現が曖昧で感覚的なものに過ぎなかったとしても、ルソーが一般意志を数理的に産出可能なものだと信じていたという、その事実である。一般意志は単なるお題目ではない。それは、人々の意志から、あるいは人々の力関係から数学的に導き出されるものとして考え出された。

このように、一般意志は政府の意志ではない。個人の意志の総和でみない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である。もしもルソーのテクストをそのように解釈してよいのなら、民主主義のあり方を原理的に考え直すことができる。

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東浩紀「一般意志2.0」(2)

第一章

本書では夢を語ると筆者は宣言する。そしてその夢は二つの異なった知的欲望、知的文脈で成立している。その一つがルソーの『社会契約論』であり、もう一つは情報技術革命である。

まずは、ルソーの方から始められる。「一般意志」とは、人民の総意を意味するルソーの造語である。ルソーという人は多彩な人物で、彼が生きていた時代では『社会契約論』の著者としてよりは『新エロイーズ』の作者としてロマンティックな恋愛小説の書き手として知られていた。このようにルソーは多様な業績を残した人物で、言い換えれば、後世の解釈者によって見え方が異なる、ときに鋭い矛盾を孕む複数の顔がそこに刻まれているということでもある。今、ルソーを読み直すと一方では極端な個人主義者であるかのように、他方では極端な全体主義者であるかのように見えてしまう矛盾すら感じられる。例えば、『学問芸術論』と『人間不平等起源論』では自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳い上げ、『エミール』では子供内発性社会の悪から守ることを理想の教育として、個人の自由、感情の無制約な発露を賞揚するものとして知られている。また、他方で『新エロイーズ』では近代的な恋愛を、『告白』で近代的な「私」を創出し、悟性に対して感情の価値を、社会に対して個人の価値を、権力に対して自由の価値を訴え続けた。しかし、そのような理解のもとで『社会契約論』を読むと、全く違うルソーの顔が見える。

ルソーは『社会契約論』では、個人の自由を賞揚する代わりに、個人(特殊意志)の全体(一般意志)への絶対の服従を強調している。国家の意志は市民の意志の統一そのものであり、その定義上決して誤りに陥ることがない。したがって、『社会契約論』ではこの点では、個人主義どころか、ラディカルな全体主義の、そしてナショナリズムの起源の諸として読むことができるのである。要約すると、ルソーは個人の社会的制約からの解放、孤独と自由の価値を訴えた思想家だった。しかし彼はまた同時に、個人と国家の絶対的融合、個人の全体への無条件の包含を主張した思想家でもあった。この二つの特徴は、常識的に考えるかぎりは全く両立しない。ここにルソーの、そして民主主義の謎がある。

ここで筆者は情報技術革命が生み出した技術とアイディアを用いてルソーの矛盾の解きほぐしを試みる。そこで導入するのが「集合知」あるいは「群れの知恵(wisdom of crowds)」という概念だ。集合知は、分散し独立した判断を下す多様な個人の意見を、適切なメカニズムで集約することで得られるものである。集合知の手法の擁護者によれば、特定の要件さえ満たすならば、専門的な判断が要求される問題に関しても、少数の専門家よりも多数のアマチュアの方が原理的に正しい判断を下すことができる。集合知は、参加した個人の能力を超えた結果を生み出すことができる。情報技術の革新は、集約的意見の数を飛躍的に増やし、集約のメカニズムを急速に洗練させた。千人単位、万人単位の他者とモニタ越しに関心を共有することができ、同じ話題を追いかけて意見を集約することができる。従って集合知の異なる規模、異なる可能性のもとで再検討する必要がある。その際見当はいくつもの成果を上げている。

スコット・ペイジは、シミュレーションとゲーム理論の手法を用いて、集合知を支える二つの定理を導き出している。ひとつが「多様性予測定理」といい、構成員個人の予測の多様性が増せば増すほど群衆の予測がせいかくになるというもので、もうひとつが「群衆は平均値を超える法則」といい、群衆の予測が構成員平均的な予測よりも必ず正確になることを証明するものだ。つまり、凡人が集まるとス賢くなるというのは、数学的な真理なのだと現代の学問は主張し始めている。

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2012年2月14日 (火)

東浩紀「一般意志2.0」(1)

41vkema0fl__ss400_ 筆者は最初から、単純明確なメッセージを明らかにする。筆者は、民主主義の理念は、情報社会の上で新しいものへとアップデートできるし、またそうすべきだと主張する。ただそれだけの本である。

情報技術が張り巡らされた社会の実現は、民主主義を変えてしまう、政治や統治のイメージを変えてしまう。そのキーとして筆者が取り上げるのがルソーによって提唱された「一般意志」という概念だ。この「一般意志」という概念は実に厄介なもので影響力が大きいにもかかわらず、専門家の間では肯定的に評価されず、議論の混乱を招いてきた。しかし、ルソーがこの言葉に籠めた思想は現代のコンピュータとネットワークに覆われた情報社会の視点で読むと、シンプルかつクリアに理解できる。そもそも民主主義の起源にあった思想が異なったもののように見えてくる。このようにルソーの「一般意志」の読み替えを通して、熟議もなければ、政局も談合もない、そもそも有権者たちが不必要なコミュニケーションを行わない、非人間的な、欲望の集約だけが粛々と行われる「もうひとつの民主主義」の可能性を説く。

民主主義は熟議を前提とする、しかし日本人は熟議が下手だと言われる。AとBの異なる意見を対立させ討議の果てに第三のCの立場に集約する、弁証法的な合意形成が苦手だと言われる。だから日本では二大政党制もなにもが機能しない、民度が低い国だとしても言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、我々はもはや自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」の技術を可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想した方が良いので゛はないか。そして、もしその構想への道筋がルソーによって2世紀半前に敷かれていたのだとしたら、その時日本は、日本は民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に民主主義の理念の起源に戻り、改めて新しい実装を開発した国家として世界から尊敬されることになるのではないか。ユビキタスコンピューティングとソーシャルメディアに浸透された、全く新しい統治制度の創出。

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2012年2月12日 (日)

あるIR担当者の雑感(60)~IRの目的って?イデオロギー装置としてのIR再考

トロイカ体制という言葉を聞いたことがあるでしょうか。数年前に民主党が政権を取るときに、小沢、鳩山、管の3人が手を取り合ったのをそう新聞が書き立てたことはありました。ロシアの3頭立ての馬車に見立ててのことだというものでした。実は、このずっと以前に政治の世界で、トロイカ体制という言葉が使われたことがありました。それは1960年代初めのソ連で、当時の権力の座にあったフルチショフが失脚し、第一書記の座を解任されたのをうけて、代わって指導者の立場となったのはブレジネフでした。当時のブレジネフは無名に近い存在で、彼一人だけではとうていソ連という大国をリードできないとして、彼以外にグロムイコ、スースロフの2人が同格の扱いで三頭体制で運営を行いました。これがトロイカ体制と呼ばれたのでした。この時、ブレジネフは書記長として共産党を押さえ、グロムイコは実務畑の人で軍事と外交を掌握しました。残ったスースロフは何を押さえたかというと、イデオロギー、思想の関係でした。

また、話は変わりますが、「水戸黄門」という時代劇をご存知でしょうか。“この紋所が目に入らぬか”と印籠をかざしてメデタシメデタシとなるやつです。このとき“前の副将軍、中納言”という口上が述べられます。御三家といわれる中で、尾張も紀州も大納言です。それが水戸だけは中納言です。どうしてでしょうか。また、徳川15代の将軍中で、御三家から将軍になったのは紀州からの吉宗で、このとき尾張と跡継ぎ争いに勝ってのことでした。しかし、水戸はそこに参加しませんでした。さらに水戸から将軍になった人はいなくて、15代慶喜はわざわざご三卿の一ツ橋家の養子となり、一ツ橋家から将軍になったのでした。こういう事績を踏まえて、徳川御三家には実は水戸は入っておらず、尾張、紀伊と徳川宗家で御三家という説を唱える人もいるほどです。その時、水戸が外れたのは『大日本史』を編纂したのは水戸家独自のことではなく徳川政権の維持に必要なものだったからということが根拠の一つとして考えられています。

IRとは関係なさそうな話を、最初聞かされて面食らった方もいるかもしれません。とりあえず、話のマクラとでも考えておいて下さい。それは、前回の雑感(59)で、株価を適正にするということがたとえないのにしても、IRとしてやるべきこと、できることはあると言いました。そのことについて、私の勤め先の場合、決算説明会が終わった後、その模様を動画にとってホームページで公開し、あわせて資料をダウンロードできるようにしています。まあ、多くの企業のIRでも同じようにことはしていると思いますが。このページへのアクセスを調べてみると、一番アクセスが多いのは、社内からでタントツだったのです。これは、社内で社員がこれを見ているということで、とくに社内で説明会の模様をアップしていると告知もしておらず、見て下さいと社内に知らせたこともありません。ということは、社員は誰に言われなくても、自ら興味をもち会社のホームページ開けて説明会の動画や資料を見ているというわけです。

説明会では、ここでも何度も書いてきたように、会社のことをよく知らない投資家のためにこの会社の業績の理由はこうで、この結果を踏まえて、これからこうしようとしている、ということを社長の口から語っています。私の勤め先では、社内に向けては、決算説明会のように丁寧な説明は行っていないのです。その穴を埋めるように、社員は説明を動画で聞いている。このような事態は、私の勤め先だけのことでしょうか。すごく無責任の問いかけかもしれませんが。

私は、ここにIRという業務の新たな(?)方向性があると思うのです。社外だけでなく社内に向けてのIRということです。実際の行為としてはそうです。それが会社にとって貢献することができることなのか、というときに長々とお話ししたマクラが関連しているのです。最近では、イデオロギーという言葉が使われることはなくなり、死語となっているようですが、この言葉で意味されている機能をIRが担うことはできないか、と思うのです。例えば、今期の目標はこうだから達成に向けてがんばれという指示は上からは当然現場の社員に来ます。そのために、何々をしなさいという指示も来るでしょう。しかし、どうしてこうことをやるのかとか、示された目標というのは、どのような考え方のもとで決められたのか、もっというと会社はこういう方向に向けるのだという方向性があって、今期の目標はその一環として決められているとしたら、そのことが丁寧に説明されていないのです。もっと大雑把にいうと、今現場の社員がやっていることは、それでいいのだと社員がそれぞれに納得し背中を押してあげるような意思表示とか説明が十分に行われていない場合が多いと言えます。これは経営者がまめに説いて回り、現場の管理職がさらに補うというのが組織論の正論ですが、実際に経営者で十分それをやっている人は甚だ尠い(名経営者と言われる人はやっているのですね、共通して!!)、さらに管理職でも自分の業務に忙しいのか、本当は説明できるほど分っていないのか、それを実践しているケースはさらに尠い。というわけで、これに代わるものとしてIRを機能させることはできないか、それが、私が今、大きな課題として考えていることです。

2012年2月11日 (土)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(11)

有用性

自己を有用だと感じられることは、自分だけでなく他者にとっても重要な何がしかに貢献していることを意味する。不要になる割合が政治経済のなかで広がった分、人々の有用性は市民社会のインフォーマルな関係の中で広がるのではないか。有用性のより本質的な価値は二つの領域の中に見出すことができる。第一は公益に関わる仕事によって報酬を得る人々の中であり、第二は家庭での無給の働き手のなかである。とくに第一の公益的仕事の場合、地位ということが制度的認知に結びつく。この地位の奥底にある価値は正統性と関わっている。組織から正統性を与えられたとき、人々はステータスを得る。有用であることもこの枠組みに入る。ステータスは公的認知の証しともなる。

有用性は公共の利益であるとことを改革者たちが受け容れさえすれば、現代経済の非常にダイナミックな部分が作り出した<不要>とされることへの不安と怖れも、適切に解消されていくだろう。能力主義崇拝ではこうした不安は解消されない。人々の有用性を認識させる方法の模索は、より包括的でなければならない。有用性は実利性質以上のものを含む。公的サービス機関に努める労働者には価値があり、家庭領域の人々にはないものだとすれば、それは国家による象徴的な有用性の評価に負うところが大きいと言わざるを得ない。

職人技

新たな資本主義の文化に対抗するための第三の価値は職人技であろう。それは最も根本的な抵抗であるが、実は、政策として想像するのは非常に難しい。

職人技は新しい文化が理想化する労働者、学生、市民には欠けた根本的美徳をもつ。それはコミットメント(専念、関与)である。執着心と競争心の強い職人は物事をうまく行うことにコミットしているだけでなく、正しいや正確なという語が、うまくなされたという意味になるためには、自らの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何事かを正しく行うことが真の職人精神なのである。私欲を超えたコミットメントほど人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう。

組織への帰属心というかたちのコミットメントが急激に減少したことについては既に述べた。新しい文化による才能の見方からしても、コミットは容易ではない。精神的流動性が要求されれば、深いかかわりは許されない。これは自らの支配が及ばない現実から、人々が切り離されたことを意味する。コミットメントはプロセスとしての自己について、深遠なる問題を提起する。コミットメントには必然的に限界があり、ひとつのことに集中すれば、他のさまざまな可能性は捨象される。これによって逃すものが出てくるかもしれない。台頭しつつある文化は何ものも逃さないよう個人に強大な圧力をかける。限界線の代わりに、文化は諦めを促す。

権力の新たな秩序は、これまでになく皮相な文化によって達成された。しかし、それ自体を目的として何事かを行うことによってしか、人々は自分自身を生活に固定できないのであるから、職場や学校や政治における浅薄さの勝利は、実は、脆弱なものに過ぎない。

この著作は、どちらかというと厳密な論述というよりは思索的な、ロジックというよりはレトリック的なものだ。それぞれの個所で指摘されている事象には鋭い指摘があり感心させられるけれど、それを全体としてどうだという組立には緻密さを欠く。ただし、何となくイメージはしやすい。だから読書メモは取りにくい。この著作は、結論を求めるという読み方ではなくて、これを基に議論をするのに適しているのかもしれない。そのためには、読む者に本当の読解力を求める、つまり、自分の言葉に置き換えることができる力を問われる著作ではないかと思う。

2012年2月10日 (金)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(10)

第4章 われらが時代の社会主義

大きな官僚制度は抑圧と同時に結束を促す。軍隊化されて資本主義の秘訣は時間─人々が組織の中で生涯にわたる物語と社会関係を形成できるように構造化された時間─の構成にあった。組織化された時間と引き換えに個人が支払う代償は自由、あるいは個性であった。「鉄の檻」は牢獄であり故郷でもあった。

そして、官僚制度は先進経済部門で自己変革を遂げた。しかし、新たな組織は小さくなっていないし、より民主的になってもいない。権力は中央に収斂されて構造を変え、権威からは権力は奪い取られた。参画と指令の仲介の機会は減少し、低レベルの個人的相互信頼と不要とされることへの高レベルの不安が生まれた。こうした社会的崩壊の核心にあるのが、組織における時間尺度の短縮である。先端は表面的人間関係を利用する。短縮された時間尺度は人生設計を戦略的に行おうと努力する個人を混乱させ、満足先送りの原則に基づいていた古き労働倫理の制約力をかすませてしまうのだ。このような否定的側面に対して、肯定的側面として、組織生活がより浅薄になるなかで、個人的活躍を促す自己の特質の向上がある。特質とは依存の拒絶や潜在能力の発展や所有への執着を超越する能力のことである。こうした特質は生産能力の領域に限らず、社会福祉、教育、消費の分野でも重要視されるようになっている。

これに対して、ニューレフトの人々は、物質的生活を文化的標準に従って改善しようとした。必要なのは、精神的、感情的な錨であり、職場での変化、特権、権力を測る価値観なのだ。最後に、この文化的な錨になるであろう三つの批評的価値、物語性、有用性、職人性について考えてみる。

物語

時間的尺度が短く、また、不規則な組織は人々から物語的展開の概念を奪う。物語的展開とは、単純に言えば、出来事を時間の中で結びつけること、経験を積み上げていくことである。これに対して、この10年間で三つの革新的試みに強い印象を受けている。第一は、短期的で「柔軟」な組織に欠落する継続性と持続性を労働者に提供するために、「並行組織」を形成しようとした試みである。第二はジョブ・シェアリングである。第三は、金持ちと貧乏人の区別なく全員に最低所得援助を行い、個人の望む通り使うことのできる制度に、北ヨーロッパの社会福祉の仕組みを転換しようという「基本所得」計画である。こうした三つの努力は、厳しい現実の反映である。不安定さは新しい組織モデルに最初から組み込まれていたもので、それに対抗するための試みだ。

政治は物語自体にかかわる文化軸を中心に展開される。良く練られたプロットでも虚構の中で時代遅れとなれば、通常の生活でも稀少なものとなる。自我はしばしば、表面下に隠れたものを見ようとして、一見、論理的に見える話をバラバラに解体しつつ、出来事を語り変え、そして、再構成しようとする。この自我は経験と積極的に格闘し、それを解釈する語り手「物語的主体」である。しかし、新たな組織の人間は、しはしば自らのうちに「物語的主体」の欠落を感じることがある。即ち起こったことを解釈する力が自分たちにはないと思うことがある。この三つの試みは、自らの長期にわたる時間経験を解釈する主体を、人々に回復するための文化的実験である。

2012年2月 9日 (木)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(9)

消費者としての市民

ハンナ・アーレントは、真に民主的な場では市民は、自由に考え、忌憚のない議論を交わす権利を有している。功利性や実利性が標準として、その場を支配してしまうと可能性よりも現実性になびくため、好ましくない。彼女は政治的想像力に自由な動きを望んだ。市民は法を作り、法と共に生活し、法を使い尽くすと、旧い法が形式的に生きていたとしても、次の法を作り出す。まさに消費の情熱に重なる。ここには将来の進歩が強く期待されている。

しかし、この夢は根拠薄弱だ。新たな組織が革新的政治を生み出さない理由を説明するために、ここでは消費と政治が共有する劇場に焦点当てて説明している。

消費が劇場的であるのは、例えば陳列されている商品の多彩さと量によって消費者のモノへの理解を変えることで、本来平凡であるはずのウォルマートでさえ消費者に疑念を忘れさせ劇場と呼べるような魅力的な空間へと変身する。今日、消費の情熱には劇的な力があり、まだ所有せぬモノへの欲求は消費者を刺激し、潜在性のドラマにより使いきれぬモノを欲するように仕向けられる。政治も同様に劇場的だ。消費者=市民が進歩的政治に背を向け、消費者が消費に仕向けられるように受動的状態に向かってゆく五つの経路をここで示す。これらの要素は新資本主義の文化から、直接生じたものばかりである。消費者=市民には(1)製品プラットフォームに類似した政治プラットフォームと、(2)<金メッキ>が作り出す差異が提供される。また、消費者=市民は(3)人間性というよじれた幹を真剣には受け取らず、(4)より利便性の高い政治を信頼し、(5)継続的に供給される新しい政治製品を受け入れるのを促される。

(1)政治的プラットフォーム。例えば、フォルクスワーゲンのプラットフォームは共通シャーシであり、細かな物質的差異が付け加えられて価値を変え、いくつかのブランドになる。現代政治ではコンセンサス政治と呼ばれ、同じような形態をとっている。アメリカの共和党と民主党の違いは大きいように見えて、その実、それぞれが政権に着いたときは、両党の差異はほとんど消えてなくなっている。

それは社会資本主義という枠を超えようとした社会の論理的進行方向と言える。このプラットフォームの最も重要な共通要素は国家の役割だ。国家は、今、きわめて支配的であり、中央は人材・資財・資源の下部組織の業務の遂行を監視する。権力と権威が分離しているからだ。ビジネスと同じくらい政治においても官僚制度はどんどん権力を中心に集中させる一方、市民に対する責任を回避する傾向も強めている。新たな組織秩序は責任をこのように回避し、自らの無関心を周辺に位置する個人やグループにとっての自由にすり替える。新しい資本主義に由来する政治の悪弊はその無関心にある。

(2)金メッキについて、政治のプラットフォーム化が起こると、対立政党の各々のレトリックは、差異を強調せねばならなくなる。そこで、有権者やメディアを真に動かすのは差異になってくる。政治的<金メッキ>の中でもっとも単純なのは、物事の象徴的誇張である。些細なことを象徴的に誇張するのは製品宣伝に通じる。政治家の個人的資質へのマスコミや大衆の異常な関心は共通プラットフォームという現実を見えなくする。政治家の自己宣伝からは経歴や業績が削除され、意図、欲望、価値、信念、趣味といったものが体現される。このような個性の強調は権力と権威の分離をさらに進める。

現代政治における最も大きな<金メッキ>には事実の再文脈化がある。例えば移民問題という事実が再文脈かされる。移民の大半は納税を欠かさない労働者であり、人々の嫌がる清掃に様な仕事に就いている場合が多い必要不可欠な存在になっている。しかし、彼らは政治的に利用され、非生産的な亡命申請者と同じ文化的範疇に組み込まれるよう定義し直される。その結果、外国人を恐るべき巨大な存在としてブランド化し、人々の不安を反映する象徴的な場となっている。とくに労働界では、外国人の存在が失業、あるいは不要とされる不安をかきたてている。

このようにププラットフォームとブランドは政治において結びつき、広告の世界と同じように政治の世界でもブランド化は現実主義的判断の消滅を招き、きわめて現代的な偏見への扉を開けることになった。

(3)何物からも充足感を得られない消費者の心理の中に発見できる。現状に満足しない今年進歩的であるに違いない。しかし、政治家が先端組織から肯定的教訓を得ることは少ない。そこでは日常的経験の領域が軽んじられているからだ。「人間性というよじれた幹」に対する苛立ちには、日常への無関心がある。日常生活という現実を攻撃し、そのよじれた幹を強引に真っ直ぐにしようとする。

(4)市民が現代消費者のような行動をとり始め、政治問題がややこしいからと身を引いて、いわゆる職人的思考放棄してしまうことである。このことは政策担当者の日常への無関心と対を成している。消費者は使い易いものを買うのであり、コンピュータにしろ自動車にしろ、それがどう動くかには関心を持たない。しかし、使い勝手の良さは民主主義を駄目にすると言っても過言ではない。自分の周囲の世界がどのように機能しているかを市民が進んで発見しようと努力することこそ、民主主義には不可欠なのだ。これは人々が怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治的風潮を経済が作り出している。「柔軟」な組織においては、何かに深く関わるということは、労働を内向きなものに、あるいは視野の狭いものにすると怖れられる。ある問題に必要以上の興味を抱かせるものは、能力判定を通過しない。さらに現代科学技術が生み出した情報の過剰供給は、情報の受け手を受動的にする。iPadの過剰搭載は使用者の能力を奪う。膨大な量の生のデータはひとつの政治的事実である。量が増すと、情報の管理は中央集権的に行われるようになる。中央集権的に上から膨大な情報が降ろされるにつれ、受け手は情報についての反応が鈍くなり、コミュニケーションは衰退する。

(5)政治家と人々との相互不信である。

以上の5つの理由から新たな組織のモデルが進歩的政治を助長しないことが分かる。しかし、出現しつつある組織生活の文化が同様に重要な役割を果たしている。こうした文化には、公において他社への長期的依存を避ける理想的自己や、才能の能力主義的概念と同じように消費の情熱が含まれている。個人的変化を評価する一方で、集団的進歩を否定する文化も存在するのである。新たな資本主義の文化は単発的な出来事、一回きりの関係や交渉に適するような形で調整されている。

2012年2月 8日 (水)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(8)

第3章 消費政治

新しい経済は新しい政治を生んでいる。かつては不平等が政治に経済的パワーをもたらしていた。今日の不平等は純粋な富と職業経験の二つ観点から形成されている。

消費の問題は、ウォルマートの店舗に代表されるような新しい経済の核心と関わる。欲しいものすべてが安く入手でき、一か所に集められている。あらゆるものが即座に手に入るウォルマートでは、命令系統が求心化されているのに似て。商品陳列棚の間を歩き廻る消費者に向けて収斂していく。ここでは店員は消費プロセスから切り離される。人対人の値段交渉も、売り込みもない。この点において、ウォルマートは上下をつなぐ中間層の社員を排除した先端企業と類似している。どの商品を購入するかの決定が、直接、世界規模のイメージ・メイキングとマーケティングの原動力となっている。

現代の人々はウォルマートで買い物をするように、政治家を選択していないか。政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石鹸の販売宣伝とかわりなくなる。

自己消費的情熱

プラトンによれば、経済は欲求と欲望によって動き、政治は正義と権利の上で動くべきものだった。だから、経済活動は人々の政治力、エネルギーを吸い取ってしまう。近代社会では労働者は激しい肉体酷使と精神的疲弊ゆえに政治的想像力を働かせる余裕はない。現代に入ると消費の意味が変容する。バルザックの小説の登場人物たちは持たぬものに対しては非常に強い情熱を燃やすが、所有したとたんに熱意を喪失する。ここでは、自らが貯めたあらゆるものに執着する古い農夫型社会から、消費が完了すると物欲が萎えるコスモポリタン型社会への推移が現われている。欲望の拡大は、一方では機械生産による物量の拡大と、もう一方では所有したとたん快楽が消えてしまうということだ。

個人が自己消費的情熱と積極的に関わってきた様子は、才能発掘と労働形態における変化によく示されている。第1に職場管理の変化によって、先端組織では被雇用者個人の地位が脆弱なものであり、人々は企業の中で役職を得ようと必死になることはあっても、ひとつの地位にとどまり続けることは目標としない、折角得た地位にも満足できなくなった以上の意味合いを持つ。組織が常に刷新されていると職のアイデンティティは枯渇するのだ。第2に技術が先進分野において急激に時代遅れになりつつあり、そこでは職人技の価値がなくなり、様々な課題に取り組める万能型の人間的技術が高く評価されるという、業績と熟練は自己消費的であり、知識の文脈と内容は繰り返しの使用に耐えない。このような状況を促し、正当化するうえでカギとなる役割を演じているのが商品の消費である。人々にモノを買わせるとき、自己消費的情熱も同時に買わせるのが望ましい。自己消費的情熱の売込みは、ブラント化と商品に可能性と潜在性を着けることで行われる。

ブランド化と潜在性

今日の製造業ではプラットフォーム方式により標準的製品にちょっとした変更を加えた製品を瞬時に大量に生産できる。そこで基本的には標準品でしかないものを売るために、売り手は簡単に作れるわずかな相違点を価値として誇張し、ブランド名をつける。そこでは、消費者が職人のような思考で製品の有用性について考えるのを阻止しようとする。ここで意図しているのはちょっとした差異が利益を生むことである。このような差異の演出は利益確保のうえで、この上なく重要となる。差異が誇張されれば、それを見たものは消費の情熱を刺戟されるのだ。その誇張のやり方としては、視覚イメージによる差異化で製品そのものに対する関心を薄めつつ、製造者は製品からの連想、ヴァリエーションの幻想を多く作る、例えば高級感、を売り物にしようとする。製造技術の進化により品質の均質化、均一化が進むと、消費者は差異という刺激を求めるようになる。消費者にとっての刺激は動き続けることにプロセスに移り、想像的な参加するということだ。近代の宝を蓄え続ける消費者の目的は蓄積にあるのに対して、現代の消費者はモノを手離したとしても、それが喪失としてじっかんされることがない。むしろ、モノは均一であるため捨てるのもごく簡単なため、放棄は新たな刺激の発見プロセスにふさわしい行為なのだ。こうして自己消費的情熱は完成する。

消費の情熱の第二の兆候は能力に見られる。例えばiPadは3分の曲を一万曲記録し再生できるが、それを目一杯使ってすべての曲を聴く人はいない。この商品の魅力は、人ひとりには使いきれないものを持っているという事実にある。才能の発掘は人が既に何を知っているかよりも、どのくらい学習することができるかに興味を覚える。同様に小さなiPadは能力の拡張の錯覚を起こさせる。消費者が機械に組み込まれた満杯の能力と自己同一化し、使いこなせないことこそが魅力となる。抽象的な言い方をすると、能力が現実から切り離されたときに欲望は動き出す。やりたいことを、できることの枠の中に抑えておきたくないからだ。飽和状態こそが人を刺戟し始めるのだ。

要約すればこうだ。消費の情熱は、想像的に関与することと、能力から刺激を受けることという二つの特徴を持つ。消費者はモノの真価は本体ではなく付加価値(飾り)にあると勘違いする。同じように能力の過大評価は個人だけでなく企業にもリスクをもたらす。自分たちには目に見えない未開発の能力があると労働者が信じ始めれば、彼らの服従心は弱まるばかりだ。今日の先端組織の経営者は能力のイデオロギーに染まっているが故に、将来の能力は、現在組織が把握しているものをはるかに凌駕すると信じてやまない。目的追求のため、経営者はますます大きな権力を中央に集中させ、上意下達的方針を徹底しようとする。能力は無限であるということよって、人々は日常生活のルーチンと制約を超越した何ものかを夢見ることによって、解放される。自分が、直接知っているもの、使っているもの、必要としているものを、精神の上で超越した時、人々は解放されるといっていい。消費の情熱は、このとき自由の別名となる。

2012年2月 7日 (火)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(7)

潜在能力

人間の潜在性という概念には、遺伝により受け継いだ生物学的な能力で、社会環境での経験を経て後天的に獲得された能力と区分する考え方が前提にある。潜在能力の発掘というのは、人種、階級、ジェンダーによる偏見が消滅しない限り、社会の全構成員の才能が平等に利用されることはあり得ないという、潜在能力の発見と正義を重ねあわせて見られていた。トマス・ジェファソンの楽天的な「自然の貴族」に依拠した才能の発掘は当初、そうした正義を伴い出発した。例えば大学進学適性試験(SAT)だ。この件は才能の発掘を目的として、対象者に課せられる問題では、例えば数学の知識は後天的に得られたものとして、それよりも数学的思考のプロセスを問うものだ。言うなれば「天賦の能力」だ。しかし、その能力を発見しようとして社会的示唆、感覚的推論、感情的理解は信念や真実と共に、発見の努力の対象から外されてしまうことになってしまった。このような文化的偏向を試験から取り除こうとして、あまりに薄っぺらなものになってしまっている。その結果、「潜在能力」というフレーズに現われた潜在というものが、「柔軟」な組織の慣習に通じるようなものになってしまっている。このような組織では場面から場面へ、たやすく飛び移るようことのできる能力、プロセスが重要視される複数の仕事に長けているために、コンテクストや関係性が壊れていても、どんな手を打てるか、先の先まで読み通す能力であり、その最高のものは想像的作業能力である。最悪の場合、こうした才能は経験と環境とのつながりを切断し、感覚的印象を遠ざけ、分析と信念を分離し、感情的愛着を無視し、深くまで掘り下げる努力を批判する。

知識と権力

潜在能力の成り立ちは、<不要とされる不安>と才能の関係に戻らざるをえなくなる。ミシェル・フーコーの議論では、能力主義という支配の形態だ。自らに無知であり、自らの生活経験の理解も苦手であるという印象を大衆はエリートによって強くたたき込まれる。潜在能力を問う試験は知識のシステムの浸透度も測ることができる。潜在能力は社会・経済的環境から切り離され当人の天賦のものと看做され、例えば「潜在能力に欠ける」という語はその人の人となりに対する根本的な意見となってしまっている。そこには、もはやあなたは要りませんというメッセージが深い意味で込められている。才能なき者は消えていくばかりだ。非才と判定されたものは集団、集合の中に埋没する。能力主義が考え方であると同時にシステムであり、しかも人を判断の対象としか捉えない組織的無関心に基づくシステムでもあった。さらに深刻なのは、才能を探す者たちの投ずる網が狭く、多種多様の個人のもつ多種多様の能力を並べて比較しようとしないことだ。潜在能力発掘の視野は広いものではない。

先天的能力は原理的には変わらない、そのためか、「柔軟」な組織においては従業員記録は修正不可能な会社の所有物となっている。最初の判断が唯一の基準となり、後に加えられる項目はその判断に一貫性を持たせるためのものに過ぎない。これは、業務内容が次々に変わる組織では、問題を次々に処理する機動的能力を求める。プロジェクトは突然開始され、突然終了するから、ひとつの問題にのめりこんでいれば、機能不全を生じさせてしまう。ここで必要とされる社交技術は、誰とでも速やかに仕事ができる、というのが潜在能力の社交的条件である。いかなる状況の中でも経調できることが必須のスキルなのだ。このような理想的自己の特質が不安の原因になるのは、それがきわめて多くの労働者を無力化しているからだ。帰属心とインフォーマルな信頼関係の欠損が生じた職場では、経験的蓄積の価値の浸食が起こり、能力の空洞化を招く。

職人技の鍵というべき要素は、何事かを間違いなく技術を習得することにある。日常的作業でも、改善しようとすれば試行錯誤は起こる。そこで間違いを犯しても、それを乗り越える自由が保障されていなければならない。このようにスキルは段階的にしか進歩しない。しかし、テンポの速い組織では時間をかけた学習は難しく、迅速に結果を出す圧力が強すぎるのだ。

原理的に言えば、すべての従業員に過ちから学ばせ、試行錯誤を通した学習を許すのが良質の企業というべきだが、現実に大企業はそのようなことをしない。これは企業規模によることだ。小規模なサービス業では、顧客のケアが会社の浮沈と直接かかわって来るが、大企業ではサービスが表面的であっても支障をきたすことはなく、むしろ処理に時間をかければ効率が落ちるだけだ。

<不要>という物理的不安の出現とともに、不安な文化的ドラマの幕が開いたのだ。他者の眼前で自分を有益にして、かつ、価値のある人物に見せるにはどうすればよいか。その古典的ともいえるやり方は、職人的に特別な才能、ある特殊なスキルを示すことであった。ところが現代文化では、職人技は別の価値観に押されがちなのである。能力主義のそもそもの目的は例外的能力を持つ個人にも能力発揮の機会を与えることであった。これが繰り返し主張されているうちに、能力主義は倫理的色彩を帯びるようになり、社会が機会を用意できるか否かは正義の問題となった。身分、家柄といった過去の業績ではなく、これから育つであろう潜在性を探求しているうちに、才能の発掘は「柔軟」な組織の特殊な状況に適合するようになった。この組織はこのような道具を個人昇進のためだけでなく、解雇のためにも使用する。解雇されるか否かの基準として使用され、これにより内在的才能に欠けると判断された人間は、不確実な状況の中に取り残される。彼らは彼らのあげた業績にも拘らず、もはや、役に立つとも価値があるともみなされえないからである。

2012年2月 6日 (月)

あるIR担当者の雑感(59)~IRの目的って?

なんか大上段に振りかぶったようなサブタイトルですね。ちょっとこそばゆい感じもします。

先日、ある人から聞いた話です。ある会社のIR担当者が非常に熱心な人で、個人投資は家向けに工場見学会なんか開くなど、非常に積極的だっただけれど、その会社の社長がIRに熱心ではなくて、結局、その社長と折り合わず、その会社を辞めてしまった。その話をした人は、熱心な担当者だったのに残念なことをしたと話していました。私も、何年もこの仕事をしてきて、それに類する話は何回か聞いたことがあります。さらに、この話の場合は、その担当者という人は、証券会社からその会社にIR担当ということで転職して来たということで、当初は、その会社もIR活動をすすめようとしていたのかもしれません。それが昨今の景気状況や株式市場の状況から、一気に経営者の熱が冷めてしまった、というようなことは想像できます。どこの会社も多少は、そのようなことが有象無象に、担当者は感じているのではないかと思います。だから、このようなこと自体は、担当者としては、他人事と聞いてはいられないことでもあると思いす。

そのような事情があっても、そこで、この話に対して違和感を覚えるのです。それが、こそばゆいサブタイトルです。誤解を恐れずに、はっきり言いましょう。私に言わせれば、件の担当者は本気で仕事をしていなかったのではないか、そうでないとしたらIRという仕事を舐めていたのか、私には、そう思えてならないのです。そのことを、以下でお話ししたいと思います。

IRという業務の目的とかいうと、ハウツー本の最初にそれらしく書かれていると思います。私も、この業務に就いた時に、いくつか読んでみました。曰く、“株価を適正に持っていく”とか“株主を増やす”とか“市場に会社の知名度を上げていく”とか色々なことが書かれていると思います。件の担当者は証券会社出身ということで市場の市場に詳しい利点を生かして(証券会社の人が株式市場に詳しいということは限らない、というよりも市場のことを知らないし、興味もない人が多いということは、この仕事をやっていて、多くの証券会社の担当者に会って得た印象ですが)、ここに上げたようなことを、取敢えず目標として、IR活動を進めたのでしょうか。

そこで、立ち止まって考えてほしいのですが、これは、IRハウツー本に書かれているという例を私は知りませんが、さきにあげたようなIRの目標というのは何のためにあるのか、ということなんです。なんか大袈裟なことのようですが。それは、会社が生き残り、成長していくためにあるということです。当たり前のことですね。今さら口に出して言うことでもないし、だからIRのハウツー書にも書かれていないのでしょう。だけど、そこで立ち止まって考えてほしいのです。例えば“株価を適正に持っていく”ということが、会社を存続させることや成長させることと、本当に何の条件も前提もなく、説明する必要もないほど当たり前に直結しているのか、ということです。これはIR担当者として、仕事の自己否定にもつながりかねないことかもしれません。しかし、会社はお役所とは違って、生き残り、成長するために必要のないものは、無駄なものとして切り捨てなければなりません。だから、会社が生き残り、成長するために必要がないなら、例えば株価を適正に持っていくという努力は会社にとって切り捨てるべき無駄なのです。そういう考え方すれば、経営者が、そういうことに冷淡であるのは当然のことで、役に立たないことをいそいそとやって、熱心だと勘違いしている担当者などいない方が会社のためです。もし、そういう状況だったのなら、担当者はたんなる勘違い野郎というだけのことです。経営者は当然のことをしているだけです。

ここでも誤解してもらいたくないのですが、私はIRというものが、会社にとって無駄だと言っているわけではありません。会社の業務というものは、すべて会社が生き残り、成長するためにあるのであれ、IRという業務もその中で進めていかなくてはならないということを言いたいのです。しかし、例えば会社の中でも、経理などは規則にのっとった会計の計算や財務を機械的に行っているだけで、普段から担当者はそんなことを考えているのか、経理業務ははたして経営に必要かなどと自分の業務に疑いを持ったことなどない、という意見もあるでしょう。何でIR担当者はそこまで求められるのか、会社の仕事として、経理担当者と同じように、淡々と仕事をしていて、その中で、少しでも仕事を進歩させようと、例えば個人投資家向けに工場見学会を行うとか熱心に仕事をしようとして何がいけないのか、という意見もあるかもしれません。

あえて、私はいいます。それがIRという業務の特殊性なのだと。具体的に言うと、それだけ経営に直結しているのです。経理という業務は会社というシステムの中で全体を動かしていくために機械の歯車として、動いていかなければならない部品のようなものです。これに対して、IRというのは、このシステム全体をどうしていくか、ということにかかわるものです。それは、例えば、上場している会社であれば資本市場との関係は、会社が進もうとしている方向性によっては、事業の死命を決する場合もあるでしょう。その時の尖兵となるのがIRであるわけです。その一環として株価を適正に持っていくというのがあるのでしょう。また、これは何も現在だけでなく、会社の事業戦略によって将来の必要性に向けて、環境づくりをしていくこともあり得ます。また、上場しているということはメリットがありますが、そのメリットを十分経営に活かしている企業は尠い、そこを補完するためにIRが動くことができる、これは、例えば証券市場では会社が属する業界とは桁違いの量と質の情報が飛び交っていて、それを適宜に経営者に伝え、その情報のやり取りに会社にとって有利な方向に向けてコミットすることなど(その一環のツールとして個人投資家の工場見学会も考えられるかもしれません)ことなどが例として考えられます。ただし、これはあくまでも例であって、会社の置かれている状況によって大きく変わってくるはずです。

そのとき、重要なのは、何が会社にとって必要なのかということです。それを判断するには、当然経営者が会社をどうしようとしているのか、ということと通底していなければならないはずです。場合によっては、IR担当者に見識があれば、会社にとって何が必要か自分で考え、時には経営者が考えないことを敢えて会社のために進めることがあるかもしれません。いずれにせよ、そういう会社が進むべき道とIRは密接に関わっていなければならないのではないか。その時に、経営者が冷淡になっているという事態は、経営に密接に関われていないからではないか。つまり、IRという業務の本分のところで業務を怠ったつけが回ってきているのではないかと思うのです。

だから、私たちは、経営者か深いところで何を考えているのかに十分注意を払い、経営者とのコミュニケーションに心を砕き、様々な有益な情報を経営者にいかに活かせるように伝えるかに努力しているはずです。そして、有能な経営者であれば、それが経営にとって有益であることに気が付くはずです。だから、IR担当者が経営者が冷淡になったからと会社を辞めると言うのは、ほとんどの場合担当者が本気で仕事をやっていないと思うのです。そして、その責任を経営者のせいにして、自分を慰めているとしか思えません。もし、それが本当に経営者の責任であるとしたら、それは経営者が無能であったり、経営に意欲がない場合です。あるいは、担当者があえて、経営者とは違った方向を、経営者と違った考えで、こっちの方が会社のためだと、自分からリスクをとって失敗した場合でしょうか。件の担当者はそこまでやったのでしょうか。

もう一つ、些末かもしれませんが、具体的なことを言います。個人投資家向けに工場見学会を開いた場合、単に工場を見せるだけではなくて、参加した個人投資家に対して、会社はこういう方向に事業を進めて、こういう成長を目指すのだと、社長に出てもらうなら社長に、それが叶わないのなら担当者が説明しているはずです。多分、こういうイベントなら担当者が説明しているのでしょう。そのとき、会社の経営について、社長と距離が離れていて突っ込んだ説明ができるはずがないと思います。担当者は社長の代理として話しているはずです。そのとき、社長と考えが離れていて、そのまま話したのでは、投資家に対して嘘をついていることになるはずです。極端な言い方かもしれませんが市場に対して嘘をつくということは、虚偽表示であり、上場廃止事由です。IR担当者としては一番やってはいけないことです。もし、そういうことだったら、その担当者は会社を辞めたのではなくて、辞めさせられたのです。見も蓋もない言い方かもしれませんが、私にはIRがそれだけ経営にコミットするものであるならば、それだけの厳しさが必要だと思うし、それだから、IRという仕事に夢があると思うのです。

2012年2月 5日 (日)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(6)~極主観的松井冬子論

Matuifukyu  この一連の文章を書いていて、展覧会カタログをはじめとして、雑誌やネットで松井冬子の作品について書かれた様々な文章を読んでみました。それで感じたことは、その書かれた文章のほとんどが、作品が何を題材としているかということが中心、というよりもほとんどすべてで、どのように描かれているかということに触れている文章は、ほとんどありませんでした。

ということは、松井冬子の作品の特徴は、取り上げる題材にあるのでしょうか。それとも題材についてインパクトが強くて、どのように描かれているかには注意が向かないのでしょうか。私には、この作家の描き方に特徴があり、そのように描くからこそ、題材を選んでいるのではないかと思うのです。描き方と言っても、私は実際に絵を描くことをしないので、絵画の技法的なことは分かりません。しかし、例えば、西洋絵画を学ぶときのデッサンを基礎として徹底的に仕込まれると言いますが、それによって遠近法的な立体の捉え方とか、面として捉えるとかという視覚的な把握の方法、あるいは、日本人には理解が難しい神の視点にたった客観的に視点での画面把握というようなことを身体で覚えさせられるといいます。私がここで描き方と言っているのは、それに近いことです。松井冬子という作家の視点、物を見る切り口のようなもの、それは死とかネガティブという題材ではなくて、空間をどのように画面に映そうとするかというようなことです。それは、当然絵画技法にも反映するものでしょう。これを作品から見ようとしている文章というのが、私の見る限り、見つかりませんでした。

Matuizou それでは、私なりに始めてみましょう。まず、思いつくまま、特徴をあげていきます。まず、風景を描く場合、日本画で一般的に行われる余白を大きくとって部分的に描き後は大胆に省略するということをしないこと。さらに、背景を描くとき細部まで疎かにせず描き込むということです。例えば「世界中の子と友達になれる」の藤の花と蜂、あるいは「この疾患を治癒させるために破壊する」の桜の木は、一つ一つがまるで独立しているものとして輪郭を明確に描き込まれてします。薄い線で繊細に描かれているため、目立つことはありません。しかし、このような背景のあえてめだたせないでいる細部を、しかも大作である中で、繊細に描き込むということ自体が、途方もない時間と労力を費やし執拗に描く作家の姿を想像すると、そこに鬼気迫るものを感じます。松井冬子という作家に狂気を感じるとすれば、それは死体とか幽霊とかいうものを題材とすることではなくて、このような細部を執拗に描く執拗さにです。そのせいか、私はこの作家の視線は、マクロではなくミクロに向いているように思えるのです。だから、細かなところにどうしても目が行って、そこに固執してしまうのです。反対に、この作家の描く人間は各パーツは緻密にデッサンされ写実でスーパーリアルといっていいものなのに、人体として一つの全体となると、人体の生々しさというのか、リアルさが感じられず、模型とかマネキン人形のように見えてしまうのです。それは、象や犬のような動物の場合もそうです。しかし、昆虫のような小さなものはまるで画面から抜け出てきそうなリアルさなのです。

かりに、この作家の描き方で、3歳くらいの腕白な子供が満面の笑みでさんざめく陽光のを浴びて走りまわっている姿を描いてみたら、想像してみて下さい。これは思考実験で想像の域を越えるものではありませんが、走る姿に躍動感は薄く、満面の笑みは強張ったようなものになって無気味に感じられるものになるような気がします。しかし、笑顔の眼や鼻や歯しそれぞれスーパーリアルで、走る姿も指先まで丁寧に描き込まれているというものです。逆に、こう考えられないでしょうか、このようなことになると死体とか生命感のない幽霊ならば、却って自然ではないか、ということです。

Matuinarcissus 次の特徴です。少し触れてしまいましたが、松井冬子の描くパーツはひとつひとつが理想的なほどですが、整いすぎているのです。だから、躍動感というものが生み出されない。松井冬子の作品を見ていると、そのどれもが止まっていて動いていないのです。これは音楽の話ですが、楽曲を演奏していてグルーヴというのか、演奏に乗りを生み出させるには楽譜通りの演奏ではだめで、リズムなどはアクセントを強調し、さらにこころもち規則的なリズムをずらしてあげることが必要なのだそうです。ところが日本人がリズム&ブルースなんかを演奏すると規則的なリズムを分析的に刻むだけなので、乗りが悪く面白くない演奏になってしまうことが多いそうです。松井冬子の作品にも、そういうズレというのか、良い意味でのダラけたところがないので、時間が凍ってしまうのです。だから、松井冬子の作品を一通り展覧会で見ていて共通しているのが、画面が静かなことも、そこから生じているではないか。この人の作品から物音が聞こえてこない。それはまた、死体や幽霊は動きとは無縁で物音がしないものです。

そして、第三の特徴として徹頭徹尾具象であることがあげられます。具象、しかも写実ということです。多分、松井冬子の作品は下絵で対象のデッサンがあって、それを作品に仕上げているのだと思います。しかし、古典的な日本画の場合花鳥画なら花鳥画で鳥はこう描くものというお手本のようなものがあり、実際の鳥を見なくてもそのお手本を自分なりに描けば、それらしい作品は出来上がる。そこに日本画の様式性とか記号性とか、あるいは即興性のような特徴があったと思います。しかし、松井冬子の日本画にはそのような要素が感じられない。古典的日本画のお手本の中には、描かれているうちに様式化が進み実際の鳥の形態から離れたものなっているケースも多いはずです。様式化されるプロセスで鳥と見てもらうために形態の特徴が抽出され一種のデフォルメが起こったと思いますが、それは写実から離れることになります。松井冬子の日本画にはそのようなデフォルメは見られない。想像するに、写実的な形態から離れることに松井冬子の筆が抵抗しているのではないか。形態のデフォルメですらそうなのですから、作家があらたな形態を創造するということは全く行われていない。松井冬子の作品の創造性というのは、写実したパーツを如何にレイアウトするか、構成するかという点にのみ発揮されているようです。それで考えてみると、生き生きとした写実はない、かといって新たな造形を創造することもない、そこで写実的なパーツを組み合わせ構成して全体として写実でないものをつくりだすとしたら、半分現実で、半分想像のような世界としたら、死体とか幽霊は最適にものの一つではないでしょうか。

次の特徴として、松井冬子の作品で使われている色彩は無彩色系統の性格が強いということです。色は使われていますが、白系統の無彩色の印象が強く、鮮やかさというよりは鈍さを強く感じます。それは死体の色ですね。

そして、最後の特徴として、こじつけかもしれませんが、松井冬子という作家は比較的メディアに登場していますが、その際には美人作家ということもあるのでしょうが、和服姿やドレスアップした姿というような装った姿で現われています。最近では写真家のモデルになったりもしているようです。これは、一種の装うということが松井冬子という作家になるときに必要なことなのではないか。この人の作品では、内臓を曝したり、傷ついて血を流したりという凄惨な意匠が施されている場合が多いのですが、それらはすべて装うということに通じていないかと、私には思われるのです。そこであるのは、たとえ内臓を曝しても傷を負っても形態は崩れていない。あくまでも形態を尊重し、それをベースに、その上に衣装のように施されている。それはまるで化粧のようです。そういうことから、私には、最初に紹介した学芸員のコメントのような意識や感情を突き詰めるというようなことは感じられず、表現としてリアルな形態を追求していくうちにリアルから離れてしまったときに、そこに装いをかけることで存在感を獲得した。その装いが見る人には意識とか感情を突き詰めたようなものに見えたということのように思えます。これは、意識とか感情を突き詰めるという言葉から連想される内面とかそういうものではなくて、もっと表現というもの、敢えて言えばシーニュという記号学の概念が近いのかもしれません。そういうもののような気がします。だからといって、これは松井冬子の作品が内面を掘り起こさない表面をなぞるだけというような批判をしているのではありません。私には、内面を掘り起こすなどという実体がよく分からない話より、こういう方が作家に親しみ易いのです。

2012年2月 4日 (土)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(5)~「この疾患を治癒させるために破壊する」

Matuisikkan 168㎝×408㎝で4面という大きな作品です。個人的には、この作品を見るとマーク・ロスコの作品に近いものを感じます。大きさというのかスケール感と、迫ってくるような迫力とか、見ているうちに厳かな気分になってくるとか。ただし、ロスコの作品は抽象画で、一般には難解と言われているものですが。

とはいっても、ロスコとのおおきな違いは、こういう点にあります。現代社会はコンピュータをはじめとした機器とネットワークによって情報が溢れ複雑化し、一人の人間が全体を見渡すということができなくなってしまった。そこでは主体的な判断というものを麻痺させてしまうようなことが起こるだろう。だからこそ、グーグルをはじめとした情報技術メディアの方向が情報を絞ることに努めている。意外に思われるかもしれませんが。グーグルの検索は新しい情報を生み出すことはせずに、数多あるサイトの中からキーワードに沿ってみるべきサイトを絞るというシステムなのです。まして、現代の人間はせかされるような時間の中で生きているため、自分の眼でじっくり選択している余裕はないのです。

Matuirosuko そんな時に、マーク・ロスコの作品は、一見シンプルではありますが、その圧倒的なスケールと存在感で見る者に迫る一方で、細部を見てみると単純に絵の具を塗りたくっているようにみえて、その色合いが微妙に変化していて、その綾を追いかけるだけで日が暮れてしまいそうなのです。実は、見始めると様々なものが現れて来る、と全体見方が変わりイメージするものが変化して来るのです。ロスコは壁画のように、四六時中見てもらうことを考えていたらしいですが、長時間にわたり他にすることもなく、時にはぼんやり、時には凝視するなどして、ずっと見続けることを要求しているのだと思います。しかし、実際問題、じっくり長時間見続けるなどということは、美術館では時間的制約があるし、とっても自宅に飾れるようなものではない。そうすると、特別な時とか特権的な環境で初めて、それが叶うことになります。さらに、つねに情報の洪水に溺れるような生活をして、時間に追われているような現代人にとって、じっくりと時間をかけて情報を次々と自分の手で生み出していくような作業は辛いものがあるのではないでしょうか。

これに対して、一見複雑で情報に溢れていそうで、そこに検索キーワードのような情報を絞るガイドラインのようなもので、情報を絞ってくれて、判断に導いてくれる、とはいっても、あくまでも最終的に自分で判断したような気分になれる、としたら、それは、ここで説明したような現代人にとって、とてもありがたいことであるし、それは快さにもつながるのではないでしょうか。そういう要素が、松井冬子の作品にはあると、私は思います。

この「この疾患を治癒させるために破壊する」で具体的に見ていきましょう。まず、最初にかんがえられるのが、徹頭徹尾具象であることです。それはリアルということではなくて、明確な輪郭を持ったイメージであることが貫徹されていることです。だから、見る人は「これは何だ」ということを、まず明確に意識することができるわけです。当たり前のことかもしれませんが、このことによって宙ぶらりんの中で暗中模索することなく、「これは水面に映る桜だ」ということかに出発できる。そのあと、その形とか何かを象徴しているとか、踏み込むことになりますが、スタート地点が固定されていることになります。場合によっては、スタート地点で終わってしまっても良いわけですから。それならば、「桜の樹の絵をみた、良かった」ということで、この作品を見た意味づけが終わります。

そして、踏み込んだ後も、いわくいいたげなタイトルと相俟って、巧みに目立つところが配置されていて、それを辿ると、タイトルで深刻っぽい問いかけと、それについて考えているような気分になります。例えば、それは画面の大きさだったり、水面を模しているということで、上下でシンメトリーな構図になっているとか。そして、松井冬子の作品の特徴として1点か2点必ず突出したものがあり、それをもとに作品全体をひとつのストーリーに統合することができることです。それが、先で述べたガイドラインによって情報を絞り、分りやすくして、忙しい現代人が作品にしたしめやすいものとなっていることです。

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(4)~「自画像」

Matujigazo2  松井冬子の学生時代の制作だそうです。実に丁寧にデッサンされ、手間をかけて描かれた自画像であることは、分かります。展覧会では、「世界の子と友達になれる」の直前に展示されていました。そのためか、私は、この自画像を単独で独立させて見ることができなくて、松井冬子の一連の作品として、しかも、「世界の子と友達になれる」とつながりを考えながら見てしまうことになりました。

そこで感じられるのは、「世界の子と友達になれる」にある、傷つくような痛々しさの画面の演出というものです。この自画像、デッサンと完成したものが並んで展示されていました。自らを傷つける演出という点で、デッサンに比べて完成作では色々な操作が為されています。例えば背景です。それから、髪の毛の部分が一面白く塗られ、フードを被ったようにも見えるようになってことです。ここで私が着目したのは、手を加えられ、何らかの操作がなされている処ではなく、手を加えられていないところです。その代表的な所は顔です。顔は丁寧なデッサンが、そのまま活かされ、美人といっていい顔がそのまま作品になっています。別に心理学的なバターン分析の真似事をするつもりはありませんが。顔には手をつけられていない。実は、他の松井冬子の作品でもそうですが、顔には一切手をつけられていない。身体の各部分は切れ刻まれていますが。その原点が、この自画像にあるように思えてなりません。

顔には手をつけられていない。それは、自らのアイデンテティは確固としていて。決して崩れているわけでもなく、不安でいるわけでもないということです。つまり、作品には傷ついたりするところがありますが、それは自傷という側面で、やむに已まれず為されたのではなくて、画面上の演出して意図的、戦略的に加えられたのではないかということです。

これは、画家本人が様々な衣装に身を包んでメディアに露出し、自らがモデルになって装った写真を撮られたりというような、自画像でいえば頭髪の色を変えるというような外面を装うという志向の現われではないかとおもうのです。別の作品で、松井冬子の画面は外形的であると述べました。そのような捉え方が、松井冬子の視線の本質的な部分あるのではないか、それがみずからを見る視線にもあるように思えたのです。

2012年2月 3日 (金)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(3)~「世界中の子と友達になれる」

Matusekai 2002年に発表された松井冬子のデビュー作だそうです。今回の展覧会のサブタイトルにもこの作品のタイトルが用いられていて、作家にとっても思い入れの強い作品なのではないかと思います。

美術館では、この作品の展示のために一つのブースを作りました。181.8㎝×227.8㎝という大作ですが、これがすっぽり入る空間をつくり、その中で拝観者は作品だけと正面から対峙させられるという展示です。実際、私の場合は閑散とした状態だったので、一人で向かうと、その大きさと、後で説明しますが細かな細工でびっしりと描き込まれたディテールの迫力が大きな印象として残りました。実際の大きさの迫力と言うのもありますが、細かく繊細な手法で描き込まれた画面は、ここで見ていただいているような画像では情報量が足りず、雰囲気が伝わりません。

■日本画の技法で、油絵のマインドで

ここに、まず、私の考える松井冬子の特徴が出てきていると思います。私は全体の印象として日本画技法で西洋画的な画面つくりをしていると書きました。この作品では、隙間を埋めるように描き込まれた画面になっています。一般的な古典日本画では余白をとって空間的な広がりを感じさせるのですが、大きな画面の9割近くの背景を藤の花と何ものかでビッシリと描き込まれています。ここから連想するのは西洋絵画の閉じた画面、かつ濃密さです。しかし、この大きさで、かつ、この描き込みがマチエールな油絵であれば、一見した迫力で見る者を圧倒してしまうでしょう。私の偏見かもしれませんがロマン主義の大作等は画面の迫力は圧倒的ですが細かく見ると粗く描かれていて、細部までは見るものでないものになっています。この作品では、日本画のマチエールを感じさせない点や、日本画の絵の具の色彩が淡いところが押し付けがましさのようなところは感じさせないので、画面をよく見ることができるのです。(このことは、この作品に迫力がないということを言っているのではありません。実際に繊細に描かれた細部がじわじわと迫ってきます)だから、このことによって、松井冬子の特徴として、大作の場合でも全体として見せることもあるし、細部でも見せる。つまりは、インパクトを与えながらも、絵をよく見てもらう、ということができる。松井冬子のプロフィールを見てみると、日本画を最初から習っていたわけではなく、絵画の勉強していて、日本画に移ったみたいです。その辺りの理由のひとつは、このような作品の作り方のあるのではないかと思ったりします。

■日本画の技法で描かれた故の背景の迫力

では、なぜ画面をよく見てもらいたかったか。この問いの意味については疑問があるかもしれませんが、迫力だけで圧倒しないで、画面の細部をよく見るように描かれているのは、そこにそうせざるを得ない理由があるのではないかと。その理由は、背景に執拗に細かく描くこまれた藤の花と何かであります。画面をよく見てみると藤の花が描かれているようで、下の方に行くにしたがって、藤色が黒ずんできます。蔭かもしれないと、目を凝らすと黒いものがひとつひとつ明確な輪郭を持っているのに気が付く。その黒は数百匹、数千匹という蜂がびっしりと花にたかっている様子だったのです。そのことに気づくと異様な感じがしてきます。

一方で、これを油絵でやってしまうと沢山の藤の花とそれにたかる蜂をびっしりと描き込めば背景では済まされなくなり、前面に出てしまうでしょう。その場合、最初からたくさんの蜂がたかっているのは最初から分ってしまい、後でよく見ると、実はそうだったという、じわじわと迫る無気味さというのは感じられないと思います。

他方で、これを古典的日本画でやってしまうと、背景でこれほど執拗に描き込むことはしないで、象徴的にいくつかの藤の花と蜂を描き、あとは省略するか藤色の靄のようにしてしまうでしょう。そうすると、沢山の数が迫力のもととなっている、数百匹数千匹の蜂がいるということ、その数が知覚できてから迫ってくるように感じるという見る者の手順がなくなって、その迫力の異様さが生まれてこなくなるでしょう。

■意味ありげなタイトルを日本画の技法がバックアップする

Matumag 背景に執着しているかもしれませんが、藤の花と蜂の群れでほとんど描き込まれた背景はまた、カーテンのように背景を隠してしまうことと、余白を消してしまうこうかがあります。つまり、これで画面の奥行を切り捨てることができます。これにより、画面のひろがりは限られ、むしろ閉塞感すら感じさせられます。そこで作品タイトルしは「世界中の子と友達になれる」という広がりをかんじさせるものです。「世界中の子」と友達の輪が世界中に広がるはずが、画面は奥が隠されてしまい閉塞してしまっています。タイトルの言葉から連想されるイメージを画面が裏切っていることになり、そこで見る者にインパクト、違和感を抱かせることになるのではないか。そこに、見る者に異様な感じを与えるインパクトとなる効果、異化効果の一種と言えるのかもしれません。

これはシュルレアリスムの絵画手法にも通じるものではないか。ご存じかもしれませんが、シュルレアリスムは自動筆記とかいって言葉によるイメージの連鎖を使って異化効果を起こし、作品を作りました。例えば、ルネ・マグリッドという代表的な画家は、常識(これは言葉でつくられものです)を部分的に一歩ずらしたものを見せることによって何か変だとか、世界が変わってしまうという驚きを与えられます。その驚くための前提となっているのが、言葉でつくられた、これはもともとこうなっているという常識です。だから、マグリットの絵を見る人は描かれた内容を言葉で解釈し、自らの常識に照らしておかしいと感じはじめる手順を採るわけです。そのために絵画そのものは言葉による解釈をしやすい画面であることが必要です。だから、余計な絵画的想像を起こすような迫力に満ちた画面でない、必要なイメージ以外はすっきりとした画面の方がいいのです。そのためか、マグッドの描き方はイラストのような描かれたものに存在感のないものになっています。

これと同じようなことが松井冬子の作品にも言えるのではないか。だから、存在感を前面に出すことのない日本画が選択されたのではないか。色彩の淡さも、存在を強く主張させないという結果を与えているのではないでしょうか。

■モジュールによる画面製作工程

モジュールというのは生産工学上の概念で、ものを生産する時に、例えば自動車の生産をする場合、日本の自動車メーカーはひとつの生産ラインで同時に何種類もの車種を生産しています。そのためには、それぞれの車種を別々に生産していたのでは対応できないので、シャーシなどを共通化してしまって、一部のボディデザインとか部品だけを車種による違いを出させるわけです。そうするとパーツの組み方の違いが車種の違いということになるので、部品の種類も少なくなりコストも抑えられることになります。しかし、いいことずくめかというと、このことによって個性の突出した製品は作りにくくなってしまいます。また、部品さえあれば、あとはその組み合わせだけですから、新興工業国でも真似しやすくなります。そこで日本のメーカーが新興工業国の猛烈な追い上げにあう遠因ともなったとも言われています。

さて、マグリットの作品もそうですが、松井冬子の作品も画面は全体として薄味の味わいですが、それは、色彩だけでなく描かれている各パーツがプラットフォームのように規格化されているようなのです。それは、手抜きしてあるというのはありません。その反対なのです。例えば、藤の花、あるいは蜂のひとつひとつが独立して存在感に満ち溢れて描かれていたら、画面はそれらだけで溢れ返ってしまうことになるでしょう。実際の松井冬子の画面をみるとそれぞれは丁寧に描かれています。だから、個々の存在は希薄になって遠景では、それが感じられず、近寄って画面をよく見てみると、その数の多さに改めて気が付いて驚くことになるのです。そこで初めて、細かな蜂や藤の花をひとつひとつ描く作家の執念深い姿を想像し、異様なインパクトを受けるのです。そのインパクトの性質は、パッと見で分る表面的な感じではなく、徐々に明らかになってくる体のものなので、印象はより深くなるはずです。

■主役の少女は背景との関係で

これは、この背景だけを見るだけでは足りず、この作品の中心の一つと考えられる、左手にいる背中を丸めた少女との関連で考えなければなりません。その少女は白い夏服か下着のような薄物を着て、肌は血の気の薄いような白色で、作品の中心としては些か存在感が薄い。もっと画面で存在感のあるように強く描かれてもよいだろうにと思ったりもして、まるで、執拗に描かれた藤の花と同じ程度、もしくは藤の花に空間を譲ってもらって辛くも画面に登場できているようなのです。その少女が画面の外に向けて、何かを覗いているのか、話しかけようとしているのか、手を添えられている。その仕草がタイトルである「世界の子と友達になれる」と関連した仕草なのでしょう。しかし、その少女の存在感はうすく、しかも少女で目に付くのは手足の先の赤い部分です。これは白い服を身につけ、血の気のない色素の薄い肌の色という、白色がベースで色づけされた少女の中で赤い血の色は当然目立ちます。そのために少女は白をベースに描かれたのか。そこで、もし空白のような背景で、このような薄い白い少女を描いてもうすぼんやりしてしまう。ここでは少女が中心なので明確にしたい、となると白い少女と反対の背景にすれば、相対的に少女の輪郭がはっきりすることになります。描き込まれた背景の中では、白い少女が輪郭がはっきりするとともに、はっきりした白い少女の部分が実にたいする虚のように、プラスに対するマイナスのように、普段みえないものが、見えてくるような印象となるわけです。

松井冬子の描く人物の瞳が白目のようになって生気を感じることがなく、この作品の少女でもそうなのだ。幽霊とか死体とかいったものを能く取り上げるが、この少女の全体としての生気のなさ、存在感の薄さから、死んでいるとも思われてしまう。そこで、かろうじて実体としての存在であることを主張しているのは、手足の先が血まみれになっていることです。

全体として、白が主体の淡い色彩の微妙な濃淡は、日本画の特性を最大限に生かしたものか。そこで赤い血は目立つはずです。しかし、そんな単純ではないでしょう。蜂の群れの黒が画面の下部の大きな面積を占め、赤の印象を隠す。そのあたりが複雑な印象を与えている。

2012年2月 2日 (木)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(2)~「浄相の持続」

Matujizoku 展覧会では九相図の一環として展示されていました。女性の死体が腐食し徐々に朽ちていき、最後には土に還るまでの様相を描いたものです。ただ、製作年代はバラバラで、この「浄相の持続」最も早く描かれたようです。松井冬子のグロテスクな題材を扱った作品としては代表的なものではないかと思います。美女の死体が朽ちていくのを描くという行為は、私には夢野久作の問題作『ドグラマグラ』の一挿話をどうしても思い出してしまう。私は日本画や中国画の伝統には疎いので、よくは分かりませんが、松井冬子が九相図というシリーズを描こうとした発想は、作家自身が創作したというよりは、どこかの先例に触発されたということのほうが、この作家には。しっくりくるように思えます。それは、例えば、彼女の作品に引用という手法が効果的に使われているというような制作姿勢からうかがえるのです。

■リアルを追求した絵空事

Matuidavinchi 作品は、花咲く草叢で、こちらを向いて横たわった女性の死体で、腹部が裂けて内臓が見えている、解剖図のような様相を呈しているものです。死体から内臓が飛び出しているというような説明聞けば、目も当てられないようなグロテスクな場面を想像しますが、作品は題材こそグロテスクですが、芸術的に昇華されたというのか、不快感を感じさせるというものではありません。その理由としては、画面を構成するひとつひとつのパーツはリアルに写生されていて、内臓等は解剖図を見るほどのものだが、形態として抽象化が施されていて形としては完璧なのに生々しさを感じさせないことが一つの理由かもしれません。

展覧会では、これらの作品の下書きスケッチのようなものも展示されているのですが、内臓のスケッチは正確で、まるでレオナルド・ダヴィンチのスケッチ帳の一部を見ているような見事なものだったと思います。ダヴィンチと、ここで書いたのは、スケッチの見事さだけでなく、内臓の外形というか形態に忠実なところがそう思えたからです。カール・ヤスパースが“眼としての実存”と称したように、ダヴィンチの発想は眼で見えるものにあったと言います。だから裏を返せば目に見ない深遠な概念のようなものとか、人の感情のようなものに、あまり興味を示さになったということです。人体スケッチも残していますが、あくまでも見える外形に限っていたのです。松井冬子の内臓の下書きスケッチも似たような印象をもちました。この作品では、解剖された人体のように内臓が書かれていますが、完璧な外形の内臓が並んでいる、まるで人体模型のマネキン人形のように見えるのです。それは、器である人体に完璧な外形の内臓がパーツとして並べられているようなのです。しかもひとつひとつのパーツである内臓は堅固とした外形を保っている。そこには、ドロドロとした生々しさのようなものを感じさせるものはなく、例えば流血はあまり描かれず、内臓が潰れたとか、そういう描写はないのです。絵画は、単にそのまま描けばいいというのではなく、そこに理想化が働くのでしょうが、そこでのバランス感覚と、日本画の画面というのが油絵のこってりしたものではなくて、サラリとしたものとなることをうまく生かしているのではないか。だから見る人にとっても、抵抗感のようなものをあまり感じさせない広く受け入れられる要素があり、しかも一見グロテクな主題を扱っているので差別化が図れる。しかも、そういう主題が選ばれていることで、見る人はそこに何かあるのではないかと考えてしまう。という戦略ストーリーにうまくはまるような出来栄えになっているといえないでしょうか。さらに、松井冬子という画家が若く美しい女性でメディアに露出していることから、さらに詮索を促すことになる、これは蛇足かもしませんが。

■本歌取り

Ofria 松井冬子の作品には、私には目の視覚の感覚的な快感のみで圧倒させるようなものは感じられない。さっきも述べましたように、外形は完璧なデッサンで上手に書かれています。きれいだ。しかし、その先は?といったところで、そういうストーリーを裏読みさせるような、主題とか構成というところで、いうなれば、言葉が介在した知的な遊びの要素が魅力なのではないか、と思うのです。

そういう点のひとつとして、画面全体の構成が、ラファエル前派のJEミレーの「オフィーリア」とよく似ていて、私は連想してしまうのです。花が咲き乱れる川の流れに身を投げて、流されている様子を、すでに目に光がなく虚ろになっている少女の表情が、この世のものとは思えない透明感に包まれ、儚い美しさと、一瞬の後には脆くも崩れ去ってしまう予感を漂わせている作品です。松井冬子の、この作品では花が咲き乱れる中で女性が横たわり、虚ろな目でこちらを向いている。多分、オフィーリアを引用しているという直接的なことではないのかもしれないでしょうが、花の中に省場が横たわるという構図は、そこで対比的にグロテスクさを演出させているのだろうと思えます。そういうパロディではないが引用というレトリックに満ちていて、私には、ルネ・マグリットとかギュスターブ・モローというような知的で人工的な虚構の世界を作ろうとした画家たちに近いものを感じている。これは和歌の世界でいう、本歌取りという、もとのある歌を引用して、その世界ベースに違った世界を表せて見せる。その和歌に触れる人は、元歌を知るひとは、その引用による世界の変容を楽しみ、知らない人でも何となく裏に背景があるようないわくありげな雰囲気を楽しむというものです。ここには、言葉だけで構築されたフィクションの機構が隠されています。つまり、リアルとは離れたところにいる。だからこそ、リアルな生々しさから離れて、純粋なイメージの世界で戯れることができるのです。

■日本画の様式性、記号性

この作品がリアルな生々しさを感じさせない原因は、日本画であることによるのではないでしょうか。ここまで、述べてきた、この作品の特徴というものが、この作品が日本画として描かれていることに集約されている、ということは、松井冬子とにとって日本画というジャンルは戦略的に選択された(これは他の作品のところでも述べたように思います)と思われるのです。内臓を露わにさせた死体を題材として、そこに何か象徴的なものを表わそうとしたら、西洋絵画ならば、宗教的な様式的なものか、宗教性がないならば超越的な何かを表わそうとするロマン派的な性格にならざるを得ません。そういった超越的なものは形のないものですから、明確な形をあたえられず、何らかの雰囲気という象徴性のようなものに仮託するか、思い切って画面を主観的にしたり抽象にはしるか、いずれにせよ写実的な具象から遠ざかることになるでしょう。そうなると、見る人からは難解と見られやすくなって、広い支持を得にくくなるでしょう。

松井冬子の作品は、徹頭徹尾明確な具象画です。描かれている個々のパーツしそれぞれリアルな写生に基づいています。しかし、その写生はものの形、外形を正確に書き写されたものです。だから、存在感とか、質感はあまり感じられず、外形だけが抽出された、いわばアリストテレスのいう形相のような形の理想化されたイメージのようなものです。そのパーツがパズルのように組み合わされて画面が作られている。そういう画面では、質感とか、立体構成とかよりね、外形だけを抽出できるような平版な画面の方が適しています。それに適しているのが日本画です。

日本画というのは、実際のモノをデッサンするというよりは、題材の描き方が文法として決められて、その約束事に従って描かれたものが、それとして認識される。例えば花鳥画というのは、花の種類によって描かれるパターンが決まっている。それが、実際の、その花と食い違っているかは顧慮されないし、見る人がそう看做せば、それでいいと言う約束の世界です。

だから、この作品のような題材も、日本画で描けばリアルである必要はなく、外形をなぞるパーツの積み上げで形が出来上がる。

さらに、全体の構図については人口に膾炙した作品のバターンを引用して、広く受け入れやすくすると同時に、引用の効果を利用して、重層的な意味を持たせることができる。そういう操作を日本画は内包している、つまり許されるわけです。そうなると、グロテスクな題材を取り扱うことで差別化を図り、しかも日本画の特性を活用して、広く親しめるものとして人々に提示することができる。

この作品には、そういう戦略性を強く感じるのです。そして、この作品を見ながら、そういうストーリーを紡ぎ追いかけるというのが、この作品の魅力ではないかと思うのです。

2012年2月 1日 (水)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(1)

Matutenrankai_2 異常乾燥注意報がずっと続き、乾燥しきった関東地方に冷たい雨が降った日。都心の仕事があったのを機に、横浜美術館まで足を伸ばした。折からの寒さに雨も降り、平日の5時ということもあり、人影はまばらで、閑散とした中で邪魔が入らず見て回ることができました。この絵の世界は人ごみの喧噪には似合わず、どちらかと言うと一対一で対峙したいものだから、丁度良かったと言える。

ジャンルとしては日本画ということになるだろう、様々な日本画の技法を駆使した作品は壁画のような大作から一双の掛け軸まで様々なスタイルで描かれている。しかし、技法は日本画の技法を用いているが、絵画の構成というのか、発想は西洋絵画、油絵の思想で描かれていると思われる点が多く見られる。また、物語とかメッセージ性とか象徴性とか、絵画世界が完結していないで、絵画外の何かと繋がっている印象の強い。

描かれているのは具象で部分を取り出すと写実性が強い。そのパーツを構成することで画面を構成する構造をとっている。つまり、西洋絵画のアカデミックな歴史画の思想で構成されているのではないか、とつよく連想されるものだった。だからというわけではないけれど、言葉で語りやすい作品群だと思う。

この作家の取り上げる題材は、死体や幽霊や体を切り刻むようなグロテスクと言われるものだけれど、今言ったことなどから、その理由の物語が語りやすいため、大衆的な共感を得ていると思う。

私の場合は、この作家は意図的にこのような作品群の傾向を選択しているように思えて、そうすると、作品のつくりがマーケティングの考え方でストーリーをおいかけられるのが、ピッタリと来るので、これらの作品のマーケティングによる構造解析をおいかける快感、ということで、見る人が勝手に深読みをする“らしさ”が最大の魅力ではないかと思った。

松井冬子が好んで取り上げ題材に関連して、展覧会カタログの中で、学芸員は次のように書いている。“松井冬子の絵画世界は、画家自身の見聞や体験から得たものを元に、被害者意識、強迫観念、ナルシシズムなどの人間の情念や執着を扱って、それが常軌を逸する瞬間や、変容して狂気となったものを追及して描くことによって生まれる、尋常ではないとされる人間の意識や感情を突き詰めていながら、そこには生と死、性、自己愛、自虐、他者との関係性、彼岸と此岸、煩悩など、人に限らずおよそ生きとし生けるものに普遍的テーマが横たわっている。”さらには、“松井冬子の作品を如何に読み解くかは、例えばフェミニズムの視点から論じた上野千鶴子氏の論考があり、これまでもさまざまに論じられている。”という。慥かにそういう作品ではあるだろうし、このことに対して、それはそうだな、ということだが、そのこと自体に私は興味がない。こういうように思われる構造に興味があり、そこで先に書いたようなマーケティング的な考え方で追いかけられるのではないかということに興味を起こさせる。グロテスクといっても美術館で多くの人の耳目を集め、しかも見に来る人に若い女性等が多い。別に若い女性のファンが多いから、ことさらというわけではないが、グロテスクな主題を扱いながら、見る人が眉を顰めたりする類のものではないように周到に作品が出来ているということを言いたいのだ。美術は美しくなければいけない、ということかもしれないが。美にだって眉を顰めさせるようなものもある。100人が見て99人が嫌悪感を抱きながら、残りの1人だけが美しいという美もあると思う。しかし、松井冬子の作品の美しさは、いってみればそういうものではなく、もっと広く受け入れられる類のものではないか。しかし、そうなのか、という疑問も一方ではある。学芸員氏のコメントで書かれているようなことは、実は極めて個人的なことで広く理解を得られるものではないとも思えるし、それに普遍化したところに松井冬子の作品の凄さがある、と言われればそうかもしれない。また、広く受け入れられて美しいという方向にいくと、キレイキレイで…学芸員氏のコメントのような感想は出てこないだろう、そこに何らかのリアリティが感じられなければ、というそのバランスが、私には戦略的に考えられているのではないと思えてしかたがない。このことはマーケティングでいえば、ブランド化の戦略に近い。例えば、一昔前までヌードという画像、とくに写真しエログロのように見なされて、秘かに、あるいはポルノショップのよう普通でないところで見るものだったと思う。しかし、メイプルソープによって撮られた写真なら、かりに男性のペニスが映っていても芸術とか、センスがいいとかいうことで一般の家庭の居間に飾られてもおかしくはなくなっている。それは、ほかのポルノ写真とは違う芸術的な美しさがあるのかどうかもあるし、メイプルソープというブランドによるところも大きいと思う。松井冬子の作品には、周到にそういう措置が施されているのではないか。そこで、考えられることは、グロテスクそのものが主題となっていないことが考えられる。学芸員のコメントに書かれていることが主題なのだが、そのために手段としてグロテスクなものが必要だという、一種の正当化がなされる。見る方もそのような正当な理由のために仕方なく(?)そういうものだとして見る。しかも、そういう主題のために、あえて沿うことをした松井冬子はエラい、ということだろうか。露悪的な書き方をしたけれど、比較として適当ではないかもしれないが、似たような主題をとりあげグロテスクに作品を終生描き続けたエゴンシーレのような痛々しさと、時にはほんとに目を背けさせるような、見たくないのだけれど、画面から目が離せないといったものが感じられなかったから。

具体的にどうこうことかは、個々の作品をいくつか見ていきながら考えていきたいと思います。

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