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2012年2月25日 (土)

東浩紀「一般意志2.0」(13)

第十二章

もし社会を個人の比喩で捉えることが許されるならば、本書が構想する未来社会は、本能に従い天真爛漫に生きる幼児=動物でみなければ、成熟した成人=人間でもなく、欲望の噴出に戸惑い懊悩する思春期の青年のイメージが最も近いのだ。青年は動物と人間の間で揺れている。未来の社会も動物と人間の間で揺れている。そのように捉えると、現代社会が「子供化」しているという声が正鵠を得ていると思える。ただしそれは、人間はそもそも子供でしかありえない、完全な大人になり理性的な存在になることなどありえない、その現実を直視する時代が来たという意味においてである。

ここで筆者が考えたいのは、そのような未来社会で人はどのように生きるかという問題である。ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、人間の生を動物的な生と人間的な生の二つの位相に区別している。動物の生は互いに類似し交換可能だが、人間的生としては固有で交換が利かない。そして、アーレントはこの二つの側面を、私的利用域と公的領域の区別に重ねて考えた。つまり、市場とはあくまでも人間を動物として身体的で利己的な関心の身に駆動される消費者で固有性はない。対照的に、公共空間では公的な議論で誰の発言かにより意見の受け取られ方は異なる。そこでは交換不可能な存在である。人は指摘には動物として生き、公的には人間として生きる。というわけだ。

人間には動物としての面と人間としての面がある。我々は、動物としては功利主義的に、即ち快を最大にするように振る舞い、また功利主義的な消費の主体として(交換可能な主体として)集団的かつ統計的な処理の対象となる。そこから市場が生まれる。他方で我々は、人間として他社の固有性を尊重して振る舞い、また唯一無二の存在として扱われることになる。そこから公共空間が生まれる。私的には動物として、公的に人間として。それがヨーロッパの社会思想の枠組みだ。

しかし、一般意志2.0の構想は、この枠組みそのものを壊してしまう可能性を秘めている。市民の政治意識から、まさにその発話者の固有性を奪い、断片化しデータ化し計量可能なものへと変えることによって立ち現われるものだったからである。そもそも、一般意志2.0、すなわち可視化された集合無意識は、人々の私的で動物的な行動の履歴としてこそ成立する。しかもそれに加えて、政治家や専門家の熟議はその無意識によって制約されるべきだと主張している。動物たちの呟きの集積が、選良たちの人間的で公共的な討議を方向付ける。その構図は動物的で功利的な秩序により公共的な秩序を枠づけるという全くの逆転を意味している。民主主義2.0の社会においては、私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形作り、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない。それが本書の最後の命題である。

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