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2012年2月21日 (火)

東浩紀「一般意志2.0」(9)

第八章

21世紀の国家、それは、生活環境の隅々にまでコンピュータとネットワークが入り込み、膨大な量の個人情報がデータ化され公開され、市民の無意識が日々集計されて統治の基礎をなす、そのような国家となるだろう。社会思想では、このような変化への警戒心が強い。「監視国家化」や「ネオリベ化」と非難の言葉である。ここで本書として問題にしているのは、そのようにイデオロギーの問題以前に、政府が人民を、あるいは国家が市民を支配するという常識を覆す国家像、社会像を、ルソーと情報技術の交差点で考えようと試みているのだから。政府2.0は、政府(公)と民間(私)の垣根を越えた、市民生活すべてを覆うサービスプラットフォーム(共)になるのだと表現してもいい。

来たるべき政府は、一方で市民の無意識を吸い上げながら、他方で市民のあいだの意識的コミュニケーションをも活性化させる。そのような二面性を備えるものでなければならない。その点を、「国家」と「社会」の点から考えを進める。ヘーゲルによれば「社会」は個人と個人の関係の集積からなっていて、その関係を成立させるのは各人の欲望だ。人は皆欲望を満たすために他者と関係を持ち、社会はその関係の総体として存在している。ヘーゲルは「欲求の体系」と呼んだ。この「欲求の体系」は誰も認識することができない。無数の個人が互いに張り合っている欲望のリンクの総体は、あまりにも複雑でだれも見渡すことができない。ヘーゲルは、この認識の上で、「国家」とは、その総体を認識し統合するもの、すなわち市民社会の「自己意識」として現われると考えた。国家は社会の「自己意識」として現われ、国家が出来てはじめて社会は自分自身を認識することができる。意識が人格の同一性を保証するように、国家は社会の同一性を保証する。しかし、実際にどのような過程を踏めば一般意志=国家の意志が社会から立ち現れて来るかの具体的条件は語らなかった。

そこで、一般意志2.0の思想を前提にしてかんがえてみよう。無定形な市民社会をひとつにまとめ、同一性を与える再帰性の働き、ヘーゲルでは国家が担うとしていた、これが二つの方向に分裂していると指摘する。一つは社会の現実についての意識的な理解、すなわちヘーゲル的な「国家」の働きである。もうひとつは社会の現実をめぐる無意識な記録、一般意志2.0の産出過程である。情報技術に覆われた現代社会は、自分自身を認識するために、国家とデータベースという二つの手段を持っている。つまり、我々の社会が、自らの状態を認識し言語化するために二つの異なった手段を備えていると主張している。筆者は、そこで、今までの自覚とは異なった自覚の回路が現われているので、それを政治的に利用することを考えることを提案していると説く。

だから、これからの政治的決定は、すべてその巨大なデータベースの数理的処理に基づいて行われるべきかといえば、それだけではなくて、一般意志2.0の政治的利用がある程度進んだ状況においては、古びた公共圏の思想にも新しい役割が与えられる。「無意識」という言葉に立ち返ってみれば、フロイトは、人間の意識が、自らの行動を全て制御できているわけではないことを発見した。かといって彼は、人間がすべて無意識に支配されていると考えたのではない。フロイトが注目したのは、あくまでも意識と無意識の衝突現象だった。我々が一般に「人格」や「性格」と呼んでいるのは、その人の意識と無意識の相克の結果に他ならない。このモデルを国家に当てはめてよいのなら、来たるべき政府はもはや一般意志に従うものとしてだけ考えることができない。21世紀の国家2.0においては、一般意志は、一般意志1.0と一般意志2.0に分裂している。公共圏は熟議とデータベースに分裂している。だから政府2.0は両者の相克の場、衝突のインターフェイスとして捉えるべきだろう。すなわち、21世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

そもそも、国民国家の統治は膨大な量のデータ(無意識の可視化)がなければ立ち行かない。例えば国勢調査による個人情報の収集や公衆衛生や社会保障の整備こそが近代国家の権力の柱をなしている。しかし、総記録社会の誕生は、そのデータの質と精度を決定的に変えてしまった。情報技術は国民の無意識を丸裸にしつつある。だから、我々は、これからはその無意識をこそ統治に活かす手段を編み出さなければならない。それが本書の第一の主張だ。

しかし、それは必ずしも、来たるべき国家がデータベースの奴隷となることを意味しない。ネットワークとコンピュータが産出=算出する無意識の欲望に脅かされ、その抑制にときには成功し、ときには失敗しながらも、よろよろと統治を進めていけばよいのである。まずいのは、むしろそこで無意識の欲望を無視してしまうことだ。それが本書の第二の主張だ。

熟議とデータベースが補い合う社会。このヴィジョンは、メディア史との符合からも裏書きされる。現代社会には「大きな公共」は存在しない。社会全体を納得させることのできる熟議は存在しない。我々はもはや「小さな公共」の切り貼りでしか政策を作ることができない。そして、情報化はその欠落を埋め合わせるかのように進んできたと言う歴史的な符合がある。1970年代以降、欧米及び日本の先進国において、社会の複雑性が増し価値観が多様化し政治が無力になっていく一方、コンピュータで処理され記録される情報だけが増え続けるという現象が見られた。つまり、先進各国が、全体を見渡す政治的な視点や全体を論じる討議の場を手放すと共に、あたなもその喪失を補うかのように、全体なき断片、物語なきデータを蓄積する技術ばかりを急速に洗練させてきたかのような同時代性を備えているのである。このような熟議とデータベースが補い合う国家像は、20世紀の流れからの必然的帰結でもあるのだ。

政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は。意識と無意識、熟議とデータベース、複数の「小さな公共」と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として構想される。そこでは、意識で無意識を抑える、選良の理性で大衆の欲望を制御すると言った発想で事態を捉えてはならない。一般意志は、政治の前にモノとして立ち塞がる。ここではむしろ、新しい政治を、大衆の欲望を制約条件として国家を統治する術として捉えることが求められる。つまり、我々は社会を運営するうえで、これからはまず可視化された大衆の欲望を条件として受け容れる必要があるのだ。そこに抵抗しても意味がない。政策が実現しなくなるだけだからである。かといって、それは大衆の欲望の奴隷になることを意味しない。そま制約条件のうえでいかに優れて政策を立案し施行するか、「熟議とデータベース」という言葉でとわれるのはその方法論であって、選良主義や原理主義はそこからもっとも遠いものなのである。

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