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2012年2月21日 (火)

東浩紀「一般意志2.0」(8)

第七章

筆者は、例として公共事業の無駄を取り上げる。高速道路や地方空港、ダムといった公共事業が無駄として批判される背景には、現実と乖離した需要予測と不透明な決定プロセスだ。そこで既得権益等の批判が起こるのだが、そこで新しい決定過程を創出すべきではないか。公共工事の決定に際して、現実に誰がその道路や空港を求めているのか、実際の場所をどれほどの人が通過し、匿名の利用者はどのような感想を抱いているのか、スマフォの位置情報やETCの記録からネットへの投稿まであらゆる情報を集めて分析し、それをオープンにしたらどうだろうか。我々が直面しているのは、国民の望みが政府に取り上げられないというより、むしろ、国民が何を望んでいるのか、誰にも分らないという事実である。我々は自分たちが何を望んでいるのか、選挙や公聴会のような迂遠な制度を介することなく、マスコミで恣意的に物語化されることなく、直接に可視化する装置を必要としている。情報技術を駆使して、市民の意識ではなく無意識を探る政治。とくに政治参加の意識を持たなくても、日々の生活の記録が日々の生活の記録がそのまま集約され政策に活かされ政策に活かされる透明な統治。

ここで大きな障害となるのは、20世紀の政治思想が練り上げてきた「熟議」の理想が消えてなくなることへの懸念だった。現代では「熟議」を成立させるのは難しい。だから今の社会状況や技術的な条件を前提として、いかに成立させるか、アーキテクチャの設計を語る方が建設的ではないのか。その課題は一般意志2.0の構想とは矛盾しない。そうすれば、一方で市民の無意識を積極的に吸い上げながら、他方で市民の間の意識的コミュニケーションをも活性化させるという二面性を備えることが可能となる。

ここで、筆者は「無意識」という言葉に注目する。「無意識」は。フロイトの精神分析に起源をもつ概念で、一言で言えば、人間は自分の信じるほど自分のことを理解することができない、その認識を中核としている。人間は自己の欲望を知らない。自己の欲望を知るためには、人間は、他者の、即ち精神分析の介入が必要になる、それが精神分析の中心にある着想で、だからこそ主体と意識の力を信じる近代哲学に大きな影響を与えた。ルソーは、そのフロイトよりも前の時代の人で無意識という概念がない時代の人だ。したがって、一般意志は無意識とつながるとはルソーは言っていない。にもかかわらず、一般意志2.0を「無意識」の欲望の集合と捉えようとするには理由がある。ひとつは、ルソーの一般意志をめぐる記述が精神分析の存在を知る観点で読むと、そう読めるということだ。ルソーは全体意志と一般意志を区別する。全体意志と一般意志が相反するように見える時は市民は自分の本当の望みに気が付いていないという。人が本当の欲望に気が付いていないという構図は精神分析のそれと重なる。社会契約説の歴史から見れば、ロックやホッブスにはそういう主張はない。例えばロックの場合は、市民は自らの生命と所有権を守るために社会契約を結ぶのであり、その限りで自然権を政府に委託しているに過ぎない。ロックの社会契約の当事者は、自分が何を望み、何を守るべきか分っている。ところが、ルソーは、それが崩れている。そもそも、ルソーは人間は自然正体では孤独でバラバラに暮らすことで満足していたはずで、社会を作るのは望ましいことではなかった。では、なぜ社会が生まれたのか、それは単純に人間が他人の苦しみに共感し憐みを持つ弱い存在だから、孤独を捨てて群れてしまうという。この憐みこそ、あらゆる反省に先立っているから、普遍的で有益であり、自然な美徳であるから、その能力によって自分たちを守ることができた。それが社会だという。

もうひとつ、現代のネットの特徴に由来することだ。今人々はネットで大量の個人情報を公開し蓄積し始めている。それを筆者は、そこで記録されているのは「無意識」だと捉えている。現在のネットでは人々の行動や発言を逐一記録し保存されている。そこで記録されている発言や行動それぞれは、ユーザーによって意識的になされたものかもしれない。しかし、データが大量に集まると、その分析によって、ユーザー本人はけっして意識することのない、思いもかけぬ傾向やパターンが抽出されることがある。情報の履歴が意識より無意識に関わるとは、そのような事態巣を形容して述べている。ネットの政治的な利用の本当の可能性は、無数の市民がそこで活発に議論を交わし合意形成に至るといった熟議の理想にはなく、議論の過程で彼らがそこに放り込んだ無数の文章について、発話者の意図から離れ集合的な分析を可能にするメタ内容的記憶保持の性格にこそあると言うべきだ。発話者は一般に、発話の内容については意識的に制御することができる。しかし、発話のメタ内容的な特徴、例えば語彙の癖や文体のリズムや書く速度などは容易に制御できない。そしてネットは、まさにそのようなメタ内容的な情報の記録に適している。例えば、ネットを舞台に日韓関係や歴史認識問題について有益な議論ができるとは思えない。しかし、他方で「韓国」「在日」といった言葉について、プログやソーシャルメディアでどのような言葉と一緒に現われる傾向が強いのか、個々の発言内容と切り離して統計的に分析することができる。かつて、フロイトは、『日常生活の精神病理学』で、固有名詞の忘却や言い間違い、書き間違いなどにこそ無意識の欲望が現われていると記したことがある。現在のネットほど、そのような間違いを正確に記録し分析するのに適したメディアはない。つまり、ブログやツイッターに文章を投稿する時、我々は投稿したいと考えたこと(意識したこと)を投稿しているだけではない。そこでは同時に、投稿したいと考えなかったこと(意識しなかったこと)もまた投稿してしまっている。一般意志2.0は、そのような意識しなかったことの集積として立ち現われる。だから、無意識という語を用いる。

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