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2012年2月 3日 (金)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(3)~「世界中の子と友達になれる」

Matusekai 2002年に発表された松井冬子のデビュー作だそうです。今回の展覧会のサブタイトルにもこの作品のタイトルが用いられていて、作家にとっても思い入れの強い作品なのではないかと思います。

美術館では、この作品の展示のために一つのブースを作りました。181.8㎝×227.8㎝という大作ですが、これがすっぽり入る空間をつくり、その中で拝観者は作品だけと正面から対峙させられるという展示です。実際、私の場合は閑散とした状態だったので、一人で向かうと、その大きさと、後で説明しますが細かな細工でびっしりと描き込まれたディテールの迫力が大きな印象として残りました。実際の大きさの迫力と言うのもありますが、細かく繊細な手法で描き込まれた画面は、ここで見ていただいているような画像では情報量が足りず、雰囲気が伝わりません。

■日本画の技法で、油絵のマインドで

ここに、まず、私の考える松井冬子の特徴が出てきていると思います。私は全体の印象として日本画技法で西洋画的な画面つくりをしていると書きました。この作品では、隙間を埋めるように描き込まれた画面になっています。一般的な古典日本画では余白をとって空間的な広がりを感じさせるのですが、大きな画面の9割近くの背景を藤の花と何ものかでビッシリと描き込まれています。ここから連想するのは西洋絵画の閉じた画面、かつ濃密さです。しかし、この大きさで、かつ、この描き込みがマチエールな油絵であれば、一見した迫力で見る者を圧倒してしまうでしょう。私の偏見かもしれませんがロマン主義の大作等は画面の迫力は圧倒的ですが細かく見ると粗く描かれていて、細部までは見るものでないものになっています。この作品では、日本画のマチエールを感じさせない点や、日本画の絵の具の色彩が淡いところが押し付けがましさのようなところは感じさせないので、画面をよく見ることができるのです。(このことは、この作品に迫力がないということを言っているのではありません。実際に繊細に描かれた細部がじわじわと迫ってきます)だから、このことによって、松井冬子の特徴として、大作の場合でも全体として見せることもあるし、細部でも見せる。つまりは、インパクトを与えながらも、絵をよく見てもらう、ということができる。松井冬子のプロフィールを見てみると、日本画を最初から習っていたわけではなく、絵画の勉強していて、日本画に移ったみたいです。その辺りの理由のひとつは、このような作品の作り方のあるのではないかと思ったりします。

■日本画の技法で描かれた故の背景の迫力

では、なぜ画面をよく見てもらいたかったか。この問いの意味については疑問があるかもしれませんが、迫力だけで圧倒しないで、画面の細部をよく見るように描かれているのは、そこにそうせざるを得ない理由があるのではないかと。その理由は、背景に執拗に細かく描くこまれた藤の花と何かであります。画面をよく見てみると藤の花が描かれているようで、下の方に行くにしたがって、藤色が黒ずんできます。蔭かもしれないと、目を凝らすと黒いものがひとつひとつ明確な輪郭を持っているのに気が付く。その黒は数百匹、数千匹という蜂がびっしりと花にたかっている様子だったのです。そのことに気づくと異様な感じがしてきます。

一方で、これを油絵でやってしまうと沢山の藤の花とそれにたかる蜂をびっしりと描き込めば背景では済まされなくなり、前面に出てしまうでしょう。その場合、最初からたくさんの蜂がたかっているのは最初から分ってしまい、後でよく見ると、実はそうだったという、じわじわと迫る無気味さというのは感じられないと思います。

他方で、これを古典的日本画でやってしまうと、背景でこれほど執拗に描き込むことはしないで、象徴的にいくつかの藤の花と蜂を描き、あとは省略するか藤色の靄のようにしてしまうでしょう。そうすると、沢山の数が迫力のもととなっている、数百匹数千匹の蜂がいるということ、その数が知覚できてから迫ってくるように感じるという見る者の手順がなくなって、その迫力の異様さが生まれてこなくなるでしょう。

■意味ありげなタイトルを日本画の技法がバックアップする

Matumag 背景に執着しているかもしれませんが、藤の花と蜂の群れでほとんど描き込まれた背景はまた、カーテンのように背景を隠してしまうことと、余白を消してしまうこうかがあります。つまり、これで画面の奥行を切り捨てることができます。これにより、画面のひろがりは限られ、むしろ閉塞感すら感じさせられます。そこで作品タイトルしは「世界中の子と友達になれる」という広がりをかんじさせるものです。「世界中の子」と友達の輪が世界中に広がるはずが、画面は奥が隠されてしまい閉塞してしまっています。タイトルの言葉から連想されるイメージを画面が裏切っていることになり、そこで見る者にインパクト、違和感を抱かせることになるのではないか。そこに、見る者に異様な感じを与えるインパクトとなる効果、異化効果の一種と言えるのかもしれません。

これはシュルレアリスムの絵画手法にも通じるものではないか。ご存じかもしれませんが、シュルレアリスムは自動筆記とかいって言葉によるイメージの連鎖を使って異化効果を起こし、作品を作りました。例えば、ルネ・マグリッドという代表的な画家は、常識(これは言葉でつくられものです)を部分的に一歩ずらしたものを見せることによって何か変だとか、世界が変わってしまうという驚きを与えられます。その驚くための前提となっているのが、言葉でつくられた、これはもともとこうなっているという常識です。だから、マグリットの絵を見る人は描かれた内容を言葉で解釈し、自らの常識に照らしておかしいと感じはじめる手順を採るわけです。そのために絵画そのものは言葉による解釈をしやすい画面であることが必要です。だから、余計な絵画的想像を起こすような迫力に満ちた画面でない、必要なイメージ以外はすっきりとした画面の方がいいのです。そのためか、マグッドの描き方はイラストのような描かれたものに存在感のないものになっています。

これと同じようなことが松井冬子の作品にも言えるのではないか。だから、存在感を前面に出すことのない日本画が選択されたのではないか。色彩の淡さも、存在を強く主張させないという結果を与えているのではないでしょうか。

■モジュールによる画面製作工程

モジュールというのは生産工学上の概念で、ものを生産する時に、例えば自動車の生産をする場合、日本の自動車メーカーはひとつの生産ラインで同時に何種類もの車種を生産しています。そのためには、それぞれの車種を別々に生産していたのでは対応できないので、シャーシなどを共通化してしまって、一部のボディデザインとか部品だけを車種による違いを出させるわけです。そうするとパーツの組み方の違いが車種の違いということになるので、部品の種類も少なくなりコストも抑えられることになります。しかし、いいことずくめかというと、このことによって個性の突出した製品は作りにくくなってしまいます。また、部品さえあれば、あとはその組み合わせだけですから、新興工業国でも真似しやすくなります。そこで日本のメーカーが新興工業国の猛烈な追い上げにあう遠因ともなったとも言われています。

さて、マグリットの作品もそうですが、松井冬子の作品も画面は全体として薄味の味わいですが、それは、色彩だけでなく描かれている各パーツがプラットフォームのように規格化されているようなのです。それは、手抜きしてあるというのはありません。その反対なのです。例えば、藤の花、あるいは蜂のひとつひとつが独立して存在感に満ち溢れて描かれていたら、画面はそれらだけで溢れ返ってしまうことになるでしょう。実際の松井冬子の画面をみるとそれぞれは丁寧に描かれています。だから、個々の存在は希薄になって遠景では、それが感じられず、近寄って画面をよく見てみると、その数の多さに改めて気が付いて驚くことになるのです。そこで初めて、細かな蜂や藤の花をひとつひとつ描く作家の執念深い姿を想像し、異様なインパクトを受けるのです。そのインパクトの性質は、パッと見で分る表面的な感じではなく、徐々に明らかになってくる体のものなので、印象はより深くなるはずです。

■主役の少女は背景との関係で

これは、この背景だけを見るだけでは足りず、この作品の中心の一つと考えられる、左手にいる背中を丸めた少女との関連で考えなければなりません。その少女は白い夏服か下着のような薄物を着て、肌は血の気の薄いような白色で、作品の中心としては些か存在感が薄い。もっと画面で存在感のあるように強く描かれてもよいだろうにと思ったりもして、まるで、執拗に描かれた藤の花と同じ程度、もしくは藤の花に空間を譲ってもらって辛くも画面に登場できているようなのです。その少女が画面の外に向けて、何かを覗いているのか、話しかけようとしているのか、手を添えられている。その仕草がタイトルである「世界の子と友達になれる」と関連した仕草なのでしょう。しかし、その少女の存在感はうすく、しかも少女で目に付くのは手足の先の赤い部分です。これは白い服を身につけ、血の気のない色素の薄い肌の色という、白色がベースで色づけされた少女の中で赤い血の色は当然目立ちます。そのために少女は白をベースに描かれたのか。そこで、もし空白のような背景で、このような薄い白い少女を描いてもうすぼんやりしてしまう。ここでは少女が中心なので明確にしたい、となると白い少女と反対の背景にすれば、相対的に少女の輪郭がはっきりすることになります。描き込まれた背景の中では、白い少女が輪郭がはっきりするとともに、はっきりした白い少女の部分が実にたいする虚のように、プラスに対するマイナスのように、普段みえないものが、見えてくるような印象となるわけです。

松井冬子の描く人物の瞳が白目のようになって生気を感じることがなく、この作品の少女でもそうなのだ。幽霊とか死体とかいったものを能く取り上げるが、この少女の全体としての生気のなさ、存在感の薄さから、死んでいるとも思われてしまう。そこで、かろうじて実体としての存在であることを主張しているのは、手足の先が血まみれになっていることです。

全体として、白が主体の淡い色彩の微妙な濃淡は、日本画の特性を最大限に生かしたものか。そこで赤い血は目立つはずです。しかし、そんな単純ではないでしょう。蜂の群れの黒が画面の下部の大きな面積を占め、赤の印象を隠す。そのあたりが複雑な印象を与えている。

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