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2012年2月 8日 (水)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(8)

第3章 消費政治

新しい経済は新しい政治を生んでいる。かつては不平等が政治に経済的パワーをもたらしていた。今日の不平等は純粋な富と職業経験の二つ観点から形成されている。

消費の問題は、ウォルマートの店舗に代表されるような新しい経済の核心と関わる。欲しいものすべてが安く入手でき、一か所に集められている。あらゆるものが即座に手に入るウォルマートでは、命令系統が求心化されているのに似て。商品陳列棚の間を歩き廻る消費者に向けて収斂していく。ここでは店員は消費プロセスから切り離される。人対人の値段交渉も、売り込みもない。この点において、ウォルマートは上下をつなぐ中間層の社員を排除した先端企業と類似している。どの商品を購入するかの決定が、直接、世界規模のイメージ・メイキングとマーケティングの原動力となっている。

現代の人々はウォルマートで買い物をするように、政治家を選択していないか。政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石鹸の販売宣伝とかわりなくなる。

自己消費的情熱

プラトンによれば、経済は欲求と欲望によって動き、政治は正義と権利の上で動くべきものだった。だから、経済活動は人々の政治力、エネルギーを吸い取ってしまう。近代社会では労働者は激しい肉体酷使と精神的疲弊ゆえに政治的想像力を働かせる余裕はない。現代に入ると消費の意味が変容する。バルザックの小説の登場人物たちは持たぬものに対しては非常に強い情熱を燃やすが、所有したとたんに熱意を喪失する。ここでは、自らが貯めたあらゆるものに執着する古い農夫型社会から、消費が完了すると物欲が萎えるコスモポリタン型社会への推移が現われている。欲望の拡大は、一方では機械生産による物量の拡大と、もう一方では所有したとたん快楽が消えてしまうということだ。

個人が自己消費的情熱と積極的に関わってきた様子は、才能発掘と労働形態における変化によく示されている。第1に職場管理の変化によって、先端組織では被雇用者個人の地位が脆弱なものであり、人々は企業の中で役職を得ようと必死になることはあっても、ひとつの地位にとどまり続けることは目標としない、折角得た地位にも満足できなくなった以上の意味合いを持つ。組織が常に刷新されていると職のアイデンティティは枯渇するのだ。第2に技術が先進分野において急激に時代遅れになりつつあり、そこでは職人技の価値がなくなり、様々な課題に取り組める万能型の人間的技術が高く評価されるという、業績と熟練は自己消費的であり、知識の文脈と内容は繰り返しの使用に耐えない。このような状況を促し、正当化するうえでカギとなる役割を演じているのが商品の消費である。人々にモノを買わせるとき、自己消費的情熱も同時に買わせるのが望ましい。自己消費的情熱の売込みは、ブラント化と商品に可能性と潜在性を着けることで行われる。

ブランド化と潜在性

今日の製造業ではプラットフォーム方式により標準的製品にちょっとした変更を加えた製品を瞬時に大量に生産できる。そこで基本的には標準品でしかないものを売るために、売り手は簡単に作れるわずかな相違点を価値として誇張し、ブランド名をつける。そこでは、消費者が職人のような思考で製品の有用性について考えるのを阻止しようとする。ここで意図しているのはちょっとした差異が利益を生むことである。このような差異の演出は利益確保のうえで、この上なく重要となる。差異が誇張されれば、それを見たものは消費の情熱を刺戟されるのだ。その誇張のやり方としては、視覚イメージによる差異化で製品そのものに対する関心を薄めつつ、製造者は製品からの連想、ヴァリエーションの幻想を多く作る、例えば高級感、を売り物にしようとする。製造技術の進化により品質の均質化、均一化が進むと、消費者は差異という刺激を求めるようになる。消費者にとっての刺激は動き続けることにプロセスに移り、想像的な参加するということだ。近代の宝を蓄え続ける消費者の目的は蓄積にあるのに対して、現代の消費者はモノを手離したとしても、それが喪失としてじっかんされることがない。むしろ、モノは均一であるため捨てるのもごく簡単なため、放棄は新たな刺激の発見プロセスにふさわしい行為なのだ。こうして自己消費的情熱は完成する。

消費の情熱の第二の兆候は能力に見られる。例えばiPadは3分の曲を一万曲記録し再生できるが、それを目一杯使ってすべての曲を聴く人はいない。この商品の魅力は、人ひとりには使いきれないものを持っているという事実にある。才能の発掘は人が既に何を知っているかよりも、どのくらい学習することができるかに興味を覚える。同様に小さなiPadは能力の拡張の錯覚を起こさせる。消費者が機械に組み込まれた満杯の能力と自己同一化し、使いこなせないことこそが魅力となる。抽象的な言い方をすると、能力が現実から切り離されたときに欲望は動き出す。やりたいことを、できることの枠の中に抑えておきたくないからだ。飽和状態こそが人を刺戟し始めるのだ。

要約すればこうだ。消費の情熱は、想像的に関与することと、能力から刺激を受けることという二つの特徴を持つ。消費者はモノの真価は本体ではなく付加価値(飾り)にあると勘違いする。同じように能力の過大評価は個人だけでなく企業にもリスクをもたらす。自分たちには目に見えない未開発の能力があると労働者が信じ始めれば、彼らの服従心は弱まるばかりだ。今日の先端組織の経営者は能力のイデオロギーに染まっているが故に、将来の能力は、現在組織が把握しているものをはるかに凌駕すると信じてやまない。目的追求のため、経営者はますます大きな権力を中央に集中させ、上意下達的方針を徹底しようとする。能力は無限であるということよって、人々は日常生活のルーチンと制約を超越した何ものかを夢見ることによって、解放される。自分が、直接知っているもの、使っているもの、必要としているものを、精神の上で超越した時、人々は解放されるといっていい。消費の情熱は、このとき自由の別名となる。

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