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2012年2月25日 (土)

東浩紀「一般意志2.0」(12)

第十一章

あらゆる熟議を人民の無意識に晒すべし。一言で言えば、それが本書が掲げる未来の政治への綱領である。しかし、それはポピュリズムではないだろうか。最悪の劇場型政治というものではないだろうか。という批判が考えられる。そのように批判に対しては、

第一に、以上の提案は、普通の意味での「ポピュリズム」、つまり大衆の欲望の単なる肯定と異なっている。なぜラバ、彦で目的とされているのは、無意識への従属ではなく、むしろ意識との対決だからである。政治の良識はしばしば大衆の不合理な要求と対峙しなければならない。だからこそ、あらかじめそれに晒される必要がある。無意識の欲望を無視し、選良の論理だけで事態をやりすごそうとしても、結局は抑圧されたリビドーが溢れだし病が深くなるだけだ。第二に、もし仮に以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その時の流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策に組み込んだ方が良い。ソーシャルサービスの普及や動画番組の双方向化を考えれば、今後、人々がますます「おしゃべり」になり、政治もまたますます大衆の即時的で暴力的で無責任な反応に曝されるようになって行くことは間違いない。選良たちによる密室の熟議などというものは、もはや存在しないのである。一方、国民のほとんどは時間的にも能力的にも熟議に参加することができない。彼らに可能なのは、国政選挙の投票時に、二つか三つの「マニュフェスト」からなんとなく気に入ったものを選ぶという、実に粗っぽい「政治参加」だけなのである。我々の社会は、すでにそのような状況下にある。無意識民主主義の提案は、そのあまりに高くなった政治参加のコストを劇的に下げることを目的としている、より正確には、いままでの高級な政治参加とは別に、激安の機能制限版普及型政治参加パッケージを別に用意してあげようというものだ。

国政レベルの政策立案や利害調整は、膨大な知識と繊細な配慮を要求し、アマチュアがやすやすと参加できるようなものではない、しかし、それでも大衆も「感想」を漏らすくらいはできる。それらの感想もまた、収集し分析すれば貴重な政策資源になる。筆者はそこに新しい政治参加の可能性を見出す。それを熟議にフィードバックすれば、大衆の政治参加の実感も復活するだろうし、政策審議の質を上げる上でも効果的だ。現代では、専門家とアマチュア、選良と大衆の区別はもはや人間集団の区別出なくなり、職能の区別、さらには個人内のキャラの区別と化している。つまり、選良とか専門家とか言っても特定の領域に限ってのもので、それ以外は大衆と変わりない。従って現代社会において政策を決定しようとすると、政策課題ごとにタコ壺化した専門家に頼らざるを得ない。また特定の問題に対しては、本当に見識ある専門家を探すこと自体が容易ではない。そのような環境では、市井に眠る潜在的な専門知を発掘する別の役割も担えるはずだ。

以上の提案は、政府内のすべての会議をニコニコ生放送で公開しろと呼びかけているようなものなのだ。ニコニコ生放送においては、画面を膨大な数のコメントが流れていく。出演者は、それをいちいち読むことは難しいが、コメントの群れをひとつの波のように捉え、いわば空気を読むように流れをコントロールするようになる。逆の方から言えば、会話の行く先の範囲を視聴者の欲望によって枠付されているようなものだ。視聴者の声が一種の抑制力として機能している。このシステムが政治に導入されることによって、選良が大衆に従うわけではない。選良が大衆の暴走を抑えるのでもない。逆に大衆の呟きによって選良の暴走を抑制する。理性が欲望に従うのではなく、欲望を可視化することでむしろ理性の暴走を抑制するのがこの提案の目的である。

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