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2012年2月 7日 (火)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(7)

潜在能力

人間の潜在性という概念には、遺伝により受け継いだ生物学的な能力で、社会環境での経験を経て後天的に獲得された能力と区分する考え方が前提にある。潜在能力の発掘というのは、人種、階級、ジェンダーによる偏見が消滅しない限り、社会の全構成員の才能が平等に利用されることはあり得ないという、潜在能力の発見と正義を重ねあわせて見られていた。トマス・ジェファソンの楽天的な「自然の貴族」に依拠した才能の発掘は当初、そうした正義を伴い出発した。例えば大学進学適性試験(SAT)だ。この件は才能の発掘を目的として、対象者に課せられる問題では、例えば数学の知識は後天的に得られたものとして、それよりも数学的思考のプロセスを問うものだ。言うなれば「天賦の能力」だ。しかし、その能力を発見しようとして社会的示唆、感覚的推論、感情的理解は信念や真実と共に、発見の努力の対象から外されてしまうことになってしまった。このような文化的偏向を試験から取り除こうとして、あまりに薄っぺらなものになってしまっている。その結果、「潜在能力」というフレーズに現われた潜在というものが、「柔軟」な組織の慣習に通じるようなものになってしまっている。このような組織では場面から場面へ、たやすく飛び移るようことのできる能力、プロセスが重要視される複数の仕事に長けているために、コンテクストや関係性が壊れていても、どんな手を打てるか、先の先まで読み通す能力であり、その最高のものは想像的作業能力である。最悪の場合、こうした才能は経験と環境とのつながりを切断し、感覚的印象を遠ざけ、分析と信念を分離し、感情的愛着を無視し、深くまで掘り下げる努力を批判する。

知識と権力

潜在能力の成り立ちは、<不要とされる不安>と才能の関係に戻らざるをえなくなる。ミシェル・フーコーの議論では、能力主義という支配の形態だ。自らに無知であり、自らの生活経験の理解も苦手であるという印象を大衆はエリートによって強くたたき込まれる。潜在能力を問う試験は知識のシステムの浸透度も測ることができる。潜在能力は社会・経済的環境から切り離され当人の天賦のものと看做され、例えば「潜在能力に欠ける」という語はその人の人となりに対する根本的な意見となってしまっている。そこには、もはやあなたは要りませんというメッセージが深い意味で込められている。才能なき者は消えていくばかりだ。非才と判定されたものは集団、集合の中に埋没する。能力主義が考え方であると同時にシステムであり、しかも人を判断の対象としか捉えない組織的無関心に基づくシステムでもあった。さらに深刻なのは、才能を探す者たちの投ずる網が狭く、多種多様の個人のもつ多種多様の能力を並べて比較しようとしないことだ。潜在能力発掘の視野は広いものではない。

先天的能力は原理的には変わらない、そのためか、「柔軟」な組織においては従業員記録は修正不可能な会社の所有物となっている。最初の判断が唯一の基準となり、後に加えられる項目はその判断に一貫性を持たせるためのものに過ぎない。これは、業務内容が次々に変わる組織では、問題を次々に処理する機動的能力を求める。プロジェクトは突然開始され、突然終了するから、ひとつの問題にのめりこんでいれば、機能不全を生じさせてしまう。ここで必要とされる社交技術は、誰とでも速やかに仕事ができる、というのが潜在能力の社交的条件である。いかなる状況の中でも経調できることが必須のスキルなのだ。このような理想的自己の特質が不安の原因になるのは、それがきわめて多くの労働者を無力化しているからだ。帰属心とインフォーマルな信頼関係の欠損が生じた職場では、経験的蓄積の価値の浸食が起こり、能力の空洞化を招く。

職人技の鍵というべき要素は、何事かを間違いなく技術を習得することにある。日常的作業でも、改善しようとすれば試行錯誤は起こる。そこで間違いを犯しても、それを乗り越える自由が保障されていなければならない。このようにスキルは段階的にしか進歩しない。しかし、テンポの速い組織では時間をかけた学習は難しく、迅速に結果を出す圧力が強すぎるのだ。

原理的に言えば、すべての従業員に過ちから学ばせ、試行錯誤を通した学習を許すのが良質の企業というべきだが、現実に大企業はそのようなことをしない。これは企業規模によることだ。小規模なサービス業では、顧客のケアが会社の浮沈と直接かかわって来るが、大企業ではサービスが表面的であっても支障をきたすことはなく、むしろ処理に時間をかければ効率が落ちるだけだ。

<不要>という物理的不安の出現とともに、不安な文化的ドラマの幕が開いたのだ。他者の眼前で自分を有益にして、かつ、価値のある人物に見せるにはどうすればよいか。その古典的ともいえるやり方は、職人的に特別な才能、ある特殊なスキルを示すことであった。ところが現代文化では、職人技は別の価値観に押されがちなのである。能力主義のそもそもの目的は例外的能力を持つ個人にも能力発揮の機会を与えることであった。これが繰り返し主張されているうちに、能力主義は倫理的色彩を帯びるようになり、社会が機会を用意できるか否かは正義の問題となった。身分、家柄といった過去の業績ではなく、これから育つであろう潜在性を探求しているうちに、才能の発掘は「柔軟」な組織の特殊な状況に適合するようになった。この組織はこのような道具を個人昇進のためだけでなく、解雇のためにも使用する。解雇されるか否かの基準として使用され、これにより内在的才能に欠けると判断された人間は、不確実な状況の中に取り残される。彼らは彼らのあげた業績にも拘らず、もはや、役に立つとも価値があるともみなされえないからである。

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