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2012年2月 9日 (木)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(9)

消費者としての市民

ハンナ・アーレントは、真に民主的な場では市民は、自由に考え、忌憚のない議論を交わす権利を有している。功利性や実利性が標準として、その場を支配してしまうと可能性よりも現実性になびくため、好ましくない。彼女は政治的想像力に自由な動きを望んだ。市民は法を作り、法と共に生活し、法を使い尽くすと、旧い法が形式的に生きていたとしても、次の法を作り出す。まさに消費の情熱に重なる。ここには将来の進歩が強く期待されている。

しかし、この夢は根拠薄弱だ。新たな組織が革新的政治を生み出さない理由を説明するために、ここでは消費と政治が共有する劇場に焦点当てて説明している。

消費が劇場的であるのは、例えば陳列されている商品の多彩さと量によって消費者のモノへの理解を変えることで、本来平凡であるはずのウォルマートでさえ消費者に疑念を忘れさせ劇場と呼べるような魅力的な空間へと変身する。今日、消費の情熱には劇的な力があり、まだ所有せぬモノへの欲求は消費者を刺激し、潜在性のドラマにより使いきれぬモノを欲するように仕向けられる。政治も同様に劇場的だ。消費者=市民が進歩的政治に背を向け、消費者が消費に仕向けられるように受動的状態に向かってゆく五つの経路をここで示す。これらの要素は新資本主義の文化から、直接生じたものばかりである。消費者=市民には(1)製品プラットフォームに類似した政治プラットフォームと、(2)<金メッキ>が作り出す差異が提供される。また、消費者=市民は(3)人間性というよじれた幹を真剣には受け取らず、(4)より利便性の高い政治を信頼し、(5)継続的に供給される新しい政治製品を受け入れるのを促される。

(1)政治的プラットフォーム。例えば、フォルクスワーゲンのプラットフォームは共通シャーシであり、細かな物質的差異が付け加えられて価値を変え、いくつかのブランドになる。現代政治ではコンセンサス政治と呼ばれ、同じような形態をとっている。アメリカの共和党と民主党の違いは大きいように見えて、その実、それぞれが政権に着いたときは、両党の差異はほとんど消えてなくなっている。

それは社会資本主義という枠を超えようとした社会の論理的進行方向と言える。このプラットフォームの最も重要な共通要素は国家の役割だ。国家は、今、きわめて支配的であり、中央は人材・資財・資源の下部組織の業務の遂行を監視する。権力と権威が分離しているからだ。ビジネスと同じくらい政治においても官僚制度はどんどん権力を中心に集中させる一方、市民に対する責任を回避する傾向も強めている。新たな組織秩序は責任をこのように回避し、自らの無関心を周辺に位置する個人やグループにとっての自由にすり替える。新しい資本主義に由来する政治の悪弊はその無関心にある。

(2)金メッキについて、政治のプラットフォーム化が起こると、対立政党の各々のレトリックは、差異を強調せねばならなくなる。そこで、有権者やメディアを真に動かすのは差異になってくる。政治的<金メッキ>の中でもっとも単純なのは、物事の象徴的誇張である。些細なことを象徴的に誇張するのは製品宣伝に通じる。政治家の個人的資質へのマスコミや大衆の異常な関心は共通プラットフォームという現実を見えなくする。政治家の自己宣伝からは経歴や業績が削除され、意図、欲望、価値、信念、趣味といったものが体現される。このような個性の強調は権力と権威の分離をさらに進める。

現代政治における最も大きな<金メッキ>には事実の再文脈化がある。例えば移民問題という事実が再文脈かされる。移民の大半は納税を欠かさない労働者であり、人々の嫌がる清掃に様な仕事に就いている場合が多い必要不可欠な存在になっている。しかし、彼らは政治的に利用され、非生産的な亡命申請者と同じ文化的範疇に組み込まれるよう定義し直される。その結果、外国人を恐るべき巨大な存在としてブランド化し、人々の不安を反映する象徴的な場となっている。とくに労働界では、外国人の存在が失業、あるいは不要とされる不安をかきたてている。

このようにププラットフォームとブランドは政治において結びつき、広告の世界と同じように政治の世界でもブランド化は現実主義的判断の消滅を招き、きわめて現代的な偏見への扉を開けることになった。

(3)何物からも充足感を得られない消費者の心理の中に発見できる。現状に満足しない今年進歩的であるに違いない。しかし、政治家が先端組織から肯定的教訓を得ることは少ない。そこでは日常的経験の領域が軽んじられているからだ。「人間性というよじれた幹」に対する苛立ちには、日常への無関心がある。日常生活という現実を攻撃し、そのよじれた幹を強引に真っ直ぐにしようとする。

(4)市民が現代消費者のような行動をとり始め、政治問題がややこしいからと身を引いて、いわゆる職人的思考放棄してしまうことである。このことは政策担当者の日常への無関心と対を成している。消費者は使い易いものを買うのであり、コンピュータにしろ自動車にしろ、それがどう動くかには関心を持たない。しかし、使い勝手の良さは民主主義を駄目にすると言っても過言ではない。自分の周囲の世界がどのように機能しているかを市民が進んで発見しようと努力することこそ、民主主義には不可欠なのだ。これは人々が怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治的風潮を経済が作り出している。「柔軟」な組織においては、何かに深く関わるということは、労働を内向きなものに、あるいは視野の狭いものにすると怖れられる。ある問題に必要以上の興味を抱かせるものは、能力判定を通過しない。さらに現代科学技術が生み出した情報の過剰供給は、情報の受け手を受動的にする。iPadの過剰搭載は使用者の能力を奪う。膨大な量の生のデータはひとつの政治的事実である。量が増すと、情報の管理は中央集権的に行われるようになる。中央集権的に上から膨大な情報が降ろされるにつれ、受け手は情報についての反応が鈍くなり、コミュニケーションは衰退する。

(5)政治家と人々との相互不信である。

以上の5つの理由から新たな組織のモデルが進歩的政治を助長しないことが分かる。しかし、出現しつつある組織生活の文化が同様に重要な役割を果たしている。こうした文化には、公において他社への長期的依存を避ける理想的自己や、才能の能力主義的概念と同じように消費の情熱が含まれている。個人的変化を評価する一方で、集団的進歩を否定する文化も存在するのである。新たな資本主義の文化は単発的な出来事、一回きりの関係や交渉に適するような形で調整されている。

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