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2012年2月18日 (土)

東浩紀「一般意志2.0」(5)

第四章

一般意志は数学的な存在である。それは人間の秩序にではなくモノの秩序に属する。コミュニケーションの秩序にではなく数学の秩序に属する。従って、一般意志の生成には、共同体の成員の合意は必ずしも必要がない。一般意志は、成員が互いに何も話し合わず、たとえ一言も口を利かず、目すら合わさなかったとしても、そこに共同体がある限り、端的に事物のように「存在」する。統治はその存在に従わねばならない。

「一般意志」という日本語は強い言葉だが、言語のフランス語ではもっと広がりのある日常語だ。そこで筆者は「一般意志」を「一般欲求」に置き換えることを提案する。その場合、次のような例が考えられるという。会合の席で、出席者が漠然と喉の渇きを覚えた場合に、皆が飲み物を欲していたのは「欲求」であるという。この時の飲み物を何にするかについては出席者の好み(特殊意志)はあらかじめ確定しており、スタッフがやるべきなのは、その均衡点(一般意志)を探るだけ、と考えるのが合理的だ。こう考えると「一般欲求」がコミュニケーションの外部に数学的に存在するという考えは突飛なものではなくなってくる。

果たして、これは政治に関するものなのかという議論が起こるかもしれないが、それは政治とは何かという定義の問題に関連すると筆者はいう。そこで、政治と意味が近い公共の概念について、ハンナ・アーレントとユルゲン・ハーバーマスを取り上げ検討する。二人とも、互いに話し合うこと、とことん話し合うこと、政治と公共性はそのコミュニケーションの分厚さ基礎づけられると主張した。さらに、熟議民主主義という考え方があり、個人の意志を集めただけでは民主主義は生まれず、その意思集約の過程で一人一人の意志が変わっていくことだというプロセスを重視する。これらの社会思想は、ルソーの考えと真っ向から対立する。

ここで筆者は、もう一人、カール・シュミットの議論を取り上げる。彼は『政治的なものの概念』において、政治の本質は友と敵を分割し、敵を殲滅することにあるという。現代の常識では、異なる価値観の存在を許容し、そのうえで対立スッする利害を調整し、何が正しいか、何が公益に資するかを判断するのが政治ということになる。しかし、シュミットは、善悪を判断するのは倫理で、利害を判断するのは経済であり、政治的な判断はそれらと離れた固有の領域を形作る。たとえ相手が善であっても(倫理的判断)、相手と組んだ方が得であっても(経済的判断)、相手が敵である限り、そのような判断を無視して殲滅を図るのが政治だという。シュミットによれば、飲み物について茶がいいかコーヒーがいいか、両派が分かれて逃走することこそが政治だということになる。

これに対して、一般意志は熟議を必要としないし、友と敵を分割しもしない。そういうものからかけ離れた政治ということになる。

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