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2012年2月19日 (日)

東浩紀「一般意志2.0」(6)

第五章

ルソーの一般意志は抽象的な理念に止まらざるを得なかった。しかし、現代社会は、人々の意志や欲望を意識的なコミュニケーションなしに収拾し体系化する、そのような機構を現実に整備し始めている。例えばグーグル。グーグルのユーザーは相互に意見を交換しているわけではない。彼らはただ、自分の目的のためにサービスを利用し、思い思いに検索窓に単語を入力するだけだ。結果についてもページの良し悪しについて意見を表明するわけではない。にもかかわらず、その一人一人の行動が蓄積し解析されて現われる集団的な「意志」、検索語の選択やページの閲覧履歴や広告のクリック頻度は、巨大な知を形成して現代社会に大きな影響を与えている。このようなものは一見政治とは無関係に見える。しかし、ルソーの一般意志の概念が常識的な意味での政治や意志から離れていることは前章で明らかになった。そこで、筆者はデータの蓄積こそが現代社会の一般意志だと捉えることを主張する。我々の望みの集約は、我々自身が話し合い探ることがなくても、すでにネットワークの中に刻まれている。一般意志とはデータベースのことだ。

現代社会は、リアルでもネットでも見境なく、膨大な個人情報を蓄積し始めている。例えば、ブログによる情報発信は日常化し、それだけでなくブログを眺めているだけでも、あるいは音楽をきき動画を再生しているだけでも、その消費行動そのものが全てデータとして収集され、集合知の生成過程に組み込まれる。そのような貪欲に情報が集められ蓄積されている。総記録社会とでも呼ぶべき社会が出現している。このような総記録社会が生み出す巨大なデータベースは、人々の欲望の在処を、250年前のルソーが想像も及ばなかった形で浮かび上がらせている。

このような状況に対して、監視社会とかプライバシー喪失という批判もある。しかし、現実に自由な市民がグーグルのような10年程度の歴史しかない、それこそ名前も知らない民間企業が創設した正統性も確認できないようなサービスに雪崩を打つように個人情報やプライバシーを委ねてしまっている。我々はいまや、ある人間がいつどこで何を欲し、何を行ったのか、本人が記憶を失っても環境の方が記録している、そのような時代に生き始めている。総記録社会は、社会の成員の欲望の履歴を、本人の意識的で能動的な意志表明とは無関係に、そして組織的に、蓄積し利用可能な状態に変える社会である。そこでは人々の意志はモノ(データ)に変えられている。数学的存在に変えられている。

一般意志とはデータベースのことだ、筆者は言った。しかし、このことは、現実のルソーの念頭にあった一般意志そのものではなく、あくまで彼のテクストを21世紀の観点から再解釈した概念であること。それはつまり、彼のテクストの一部はグーグルやツイッターについて語っているように読むことができるし、そしてそれは、彼が近代民主主義の起源にいる思想家である以上、いま民主主義の革新に際して利用可能なはずだ。そこで、本書では、一般意志の概念全体を「一般意志」と呼び、ルソーに忠実なそれを「一般意志1.0」と、そして彼のテクスト全体を総記録社会の現実に照らして捉え返し、それをアップデートして得られた概念を、「一般意志2.0」と呼んで区別していく。たとえば、ルソーは一般意志は市民の心に刻まれていると述べた。だから知覚することができない。他方で一般意志2.0は情報環境に刻まれている。だからそれは知覚することができるはずだ。これは『社会契約論』の「立法者」の解釈で端的に表われる。ルソーによれば、一般意志は全体意志とは異なり、人民がいくら議論を交わしても、自分たちの力では一般意志に到達することができない。それゆえ、一般意志を掴み、それを現実の制作や制度として具体化するためには「天才」とも形容される超人間的な特異点が必要とされる。それが「立法者」だ。これは、結果として独裁者の出現を容認することになる。しかし、アブデートされた一般意志2.0では、一般意志は知覚できるものに変えられている。一般意志は理念でも物語でもなく、具体的にデータベースとしてどこかのサーバに格納されている。だから超越者は必要なくなる。必要なのは、適切なアクセス権と解析アルゴリズムの設定だけである。だから、自分が無意識に表出した行動や欲望について、誰もがその集団内での位置を事後的かつ数理的に確認できるようになったとき、我々は「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由なままでいられる」という謎めいたルソーの言葉をはじめて現実的にかつ具体的に理解することができる。

ルソーは政府を主権者と混同してはならないと記した。政府は一般意志の公僕にすぎない。ルソーの考えでは、一般意志は分割も代理もできない。だから、政府が一般意志を「代理」すること、つまり一般意志のかわりに判断することもありえない。つねに、一般意志の動向に心を配り、その手足として動くほかないのである。その理想を現代社会、つまり一般意志2.0で解釈すると、国民の代表による国会というような自分たちの意志を誰かに「代表」してもらう必要性はなくなる。一般意志2.0を精緻化し、その出力と統治機構をつなぐ制度を設計すればよくなるわけだ。

このような前提の上で「政治」とは何かという議論に立ち戻ろう。ハーバーマスやアーレントは熟議による説得と合意のプロセスの重要性を説いた。しかし、このようなことが成立するためには「世界」を共有していること、何らかの文化や生活様式の共有を前提としている。けれども現実には、情報の流通量が飛躍的に増加し、人々があまりにたやすく繋がるようになってしまったため、議論が成立するために必要な密度の濃い世界の共有が成り立たなくなってきている。その象徴としてあげられるのがテロリズムの台頭である。テロとは、議論において異なった意見を提示するのではなく、議論に参加しない、議論の場そのものを破壊するというかたちの「意見表明」だ。身近な所でも、例えば環境問題でも経済問題でも、全く異なる現状整理と分析を語る専門家の群れの議論や、世代の違いや文化的背景のちょっとした違いで議論がかみ合わない。同じ日本人で同時代に生きていても議論が出来なくなってきている。21世紀の社会は複雑すぎる上に情報技術のおかげであまりにそのまま可視化されてしまっているため、かつてのような二項対立に議論を単純化できず、処理すべき情報が個人の限界を超えてしまっているので、コミュニケーションに必要な共通性が成立しにくくなっている。現代社会の市民は、議論を始めるにあたって、議論の場そのものの共有を信じることができない。意見は異なっても、とりあえず同じ共同体の一員としてひとつの議論に参加している、という出発点の意識すら共有できない。だとすれば。データの海の中で溺れかけている公共圏の思想よりも、表面的には私的利害の調整しか行わないように見える一般意志2.0の思想の方が、まだしも、小さいけれども生産的な議論の場を成立させ、ひとりひとりの選好を変容させる可能性を開くと筆者は主張する。

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