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2012年2月 1日 (水)

松井冬子展「世界中の子と友達になれる」(1)

Matutenrankai_2 異常乾燥注意報がずっと続き、乾燥しきった関東地方に冷たい雨が降った日。都心の仕事があったのを機に、横浜美術館まで足を伸ばした。折からの寒さに雨も降り、平日の5時ということもあり、人影はまばらで、閑散とした中で邪魔が入らず見て回ることができました。この絵の世界は人ごみの喧噪には似合わず、どちらかと言うと一対一で対峙したいものだから、丁度良かったと言える。

ジャンルとしては日本画ということになるだろう、様々な日本画の技法を駆使した作品は壁画のような大作から一双の掛け軸まで様々なスタイルで描かれている。しかし、技法は日本画の技法を用いているが、絵画の構成というのか、発想は西洋絵画、油絵の思想で描かれていると思われる点が多く見られる。また、物語とかメッセージ性とか象徴性とか、絵画世界が完結していないで、絵画外の何かと繋がっている印象の強い。

描かれているのは具象で部分を取り出すと写実性が強い。そのパーツを構成することで画面を構成する構造をとっている。つまり、西洋絵画のアカデミックな歴史画の思想で構成されているのではないか、とつよく連想されるものだった。だからというわけではないけれど、言葉で語りやすい作品群だと思う。

この作家の取り上げる題材は、死体や幽霊や体を切り刻むようなグロテスクと言われるものだけれど、今言ったことなどから、その理由の物語が語りやすいため、大衆的な共感を得ていると思う。

私の場合は、この作家は意図的にこのような作品群の傾向を選択しているように思えて、そうすると、作品のつくりがマーケティングの考え方でストーリーをおいかけられるのが、ピッタリと来るので、これらの作品のマーケティングによる構造解析をおいかける快感、ということで、見る人が勝手に深読みをする“らしさ”が最大の魅力ではないかと思った。

松井冬子が好んで取り上げ題材に関連して、展覧会カタログの中で、学芸員は次のように書いている。“松井冬子の絵画世界は、画家自身の見聞や体験から得たものを元に、被害者意識、強迫観念、ナルシシズムなどの人間の情念や執着を扱って、それが常軌を逸する瞬間や、変容して狂気となったものを追及して描くことによって生まれる、尋常ではないとされる人間の意識や感情を突き詰めていながら、そこには生と死、性、自己愛、自虐、他者との関係性、彼岸と此岸、煩悩など、人に限らずおよそ生きとし生けるものに普遍的テーマが横たわっている。”さらには、“松井冬子の作品を如何に読み解くかは、例えばフェミニズムの視点から論じた上野千鶴子氏の論考があり、これまでもさまざまに論じられている。”という。慥かにそういう作品ではあるだろうし、このことに対して、それはそうだな、ということだが、そのこと自体に私は興味がない。こういうように思われる構造に興味があり、そこで先に書いたようなマーケティング的な考え方で追いかけられるのではないかということに興味を起こさせる。グロテスクといっても美術館で多くの人の耳目を集め、しかも見に来る人に若い女性等が多い。別に若い女性のファンが多いから、ことさらというわけではないが、グロテスクな主題を扱いながら、見る人が眉を顰めたりする類のものではないように周到に作品が出来ているということを言いたいのだ。美術は美しくなければいけない、ということかもしれないが。美にだって眉を顰めさせるようなものもある。100人が見て99人が嫌悪感を抱きながら、残りの1人だけが美しいという美もあると思う。しかし、松井冬子の作品の美しさは、いってみればそういうものではなく、もっと広く受け入れられる類のものではないか。しかし、そうなのか、という疑問も一方ではある。学芸員氏のコメントで書かれているようなことは、実は極めて個人的なことで広く理解を得られるものではないとも思えるし、それに普遍化したところに松井冬子の作品の凄さがある、と言われればそうかもしれない。また、広く受け入れられて美しいという方向にいくと、キレイキレイで…学芸員氏のコメントのような感想は出てこないだろう、そこに何らかのリアリティが感じられなければ、というそのバランスが、私には戦略的に考えられているのではないと思えてしかたがない。このことはマーケティングでいえば、ブランド化の戦略に近い。例えば、一昔前までヌードという画像、とくに写真しエログロのように見なされて、秘かに、あるいはポルノショップのよう普通でないところで見るものだったと思う。しかし、メイプルソープによって撮られた写真なら、かりに男性のペニスが映っていても芸術とか、センスがいいとかいうことで一般の家庭の居間に飾られてもおかしくはなくなっている。それは、ほかのポルノ写真とは違う芸術的な美しさがあるのかどうかもあるし、メイプルソープというブランドによるところも大きいと思う。松井冬子の作品には、周到にそういう措置が施されているのではないか。そこで、考えられることは、グロテスクそのものが主題となっていないことが考えられる。学芸員のコメントに書かれていることが主題なのだが、そのために手段としてグロテスクなものが必要だという、一種の正当化がなされる。見る方もそのような正当な理由のために仕方なく(?)そういうものだとして見る。しかも、そういう主題のために、あえて沿うことをした松井冬子はエラい、ということだろうか。露悪的な書き方をしたけれど、比較として適当ではないかもしれないが、似たような主題をとりあげグロテスクに作品を終生描き続けたエゴンシーレのような痛々しさと、時にはほんとに目を背けさせるような、見たくないのだけれど、画面から目が離せないといったものが感じられなかったから。

具体的にどうこうことかは、個々の作品をいくつか見ていきながら考えていきたいと思います。

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