無料ブログはココログ

« 東浩紀「一般意志2.0」(2) | トップページ | 東浩紀「一般意志2.0」(4) »

2012年2月15日 (水)

東浩紀「一般意志2.0」(3)

第二章

筆者はルソーにテキストに沿う。ひとは自由で孤独な存在として生まれた。しかし自然状態はいつしか維持できなくなり、ひとは集団生活を行い、社会を作らざるを得なくなる。そこで人は「社会契約」を結び。ルソーにおいて社会契約とは、人民一人ひとりが「自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡する」ことを意味している。その結果として生まれるのが、個人の意志の集合体である共同体の意志、すなわち「一般意志」だ。ルソーの考えでは、共同体の主催者はこの一般意志であり、したがって市民は一般意志に絶対に従わなくてはならない。ルソーが考えた社会契約は、支配するものと支配されるものの間を規定するものではなく、それよりも前の水準で、人と人とを「結合」させ、支配者も被支配者もともに属するところの共同体を生み出すためのものだった。一般意志は、その共同体全体の意志を意味している。『社会契約論』は、最初に社会契約があり、その結果として一般意志が生まれ、最後に統治機構が設立されるという順序で書かれている。ルソーにとって、この成立の順序、「一般意志」と「統治機構」の区別、あるいは主権と政府の区別は極めて重要なものだった。政府は一般意志の手足に過ぎない。これは一般意志を実現するために様々な統治の形態があることを意味している。人民全員で一つの意志を形成すること(一般意志)は、ルソーの構想においては、必ずしも人民全員で政府を運営すること(民主主義)に繋がらない。彼にとって重要なのは、国民の総意が主権を構成していること(国民主権)、ただそれだけであり、その主権が具体的に誰によって担われるのか、国民が望むのであれば王でも貴族でも誰でもよいのである。

この主権と政府を区別することが、人民に対して既存政府を転覆する権利である「革命権」を保証することになった。主権と政府を同一視すると、社会契約説は政府の転覆を正当化できない。ルソーによれば、政府は一般意志の執行のための暫定的な機関にすきない。だから人民はいつでもその首を挿げ替えることができる。社会契約は、あくまでも個人と個人の間で結ばれるものであり、個人と政府の間で結ばれるものではない。主権は一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。これが『社会契約論』の中核の論理だ。

こういう社会契約説は、現在の民主主義体制の常識とは、いささか離れたものになっている。さらに、筆者は一般意志についての検討に進む。一般意志とは、人民の総意である、というのが一般の理解である。しかし、ルソーが規定しているのは、我々が今「総意」を「世論」という言葉で想像するものとかなりかけ離れている。ルソーは「一般意志は常に正しく、常に公共の利益に向かう」と断言している。ルソーがこう言うのは、大衆の良心を過剰に信じているからではない。彼の理論においては、そもそも一般意志こそが善や公共性の基準を作るはずなので、それが誤ることは定義上あり得ない、そんな論理になっているのである。ルソーが一般意志と呼ぶもの、我々の「世論」より一段と抽象度が上がった存在だ。

『社会契約論』で、ルソーは一般意志の固有の性格を、それと似ていながら、しかし決定的に異なる「全体意志」というもう一つの概念との比較で浮かびあがらせている。一般意志も全体意志も、複数の個人の意志、「特殊意志」の集合であることは変わらない。しかし、一般意志(一般化された意志)が決して謝らないのに対して、全体意志(みんなの意志)はしばしば誤ることがある。この区別でいえば世論は全体意志に重なり、一般意志でないことになる。一般意志はあくまで共通の利害に関わるのに対して、全体意志は私的な利害の総和でしかない。

ルソーは一般意志と全体意志の差異について、このような概念的な規定をするだけでなく、数理的な表現を用いても語っている。全体意志は個別意志を集めたもので、ルソーは、それを特殊意志の総和(=合計)だと定義する。続いて、一般意志は特殊意志の単純な和(全体意志)から相殺し合うものを除いた上で残る、「差異の和」として定義している。たとえば、このことをベクトルの概念で語ると、全体意志は体積や重さのように方向がない、スカラーと呼ばれるもので体重50キロの人を二人合わせると100キロになる。これに対して一般意志には方向がある。つまりベクトルである。例えば速度がそうで時速50キロで北方向に移動しているのと、南方向で時速50キロで移動しているものを合わせると、外部から見た移動速度はゼロとなる。ここで重要なのは、たとえその表現が曖昧で感覚的なものに過ぎなかったとしても、ルソーが一般意志を数理的に産出可能なものだと信じていたという、その事実である。一般意志は単なるお題目ではない。それは、人々の意志から、あるいは人々の力関係から数学的に導き出されるものとして考え出された。

このように、一般意志は政府の意志ではない。個人の意志の総和でみない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である。もしもルソーのテクストをそのように解釈してよいのなら、民主主義のあり方を原理的に考え直すことができる。

ホームページは下のURLからお入りください。

http://czt.b.la9.jp/

« 東浩紀「一般意志2.0」(2) | トップページ | 東浩紀「一般意志2.0」(4) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東浩紀「一般意志2.0」(3):

« 東浩紀「一般意志2.0」(2) | トップページ | 東浩紀「一般意志2.0」(4) »