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2012年2月11日 (土)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(11)

有用性

自己を有用だと感じられることは、自分だけでなく他者にとっても重要な何がしかに貢献していることを意味する。不要になる割合が政治経済のなかで広がった分、人々の有用性は市民社会のインフォーマルな関係の中で広がるのではないか。有用性のより本質的な価値は二つの領域の中に見出すことができる。第一は公益に関わる仕事によって報酬を得る人々の中であり、第二は家庭での無給の働き手のなかである。とくに第一の公益的仕事の場合、地位ということが制度的認知に結びつく。この地位の奥底にある価値は正統性と関わっている。組織から正統性を与えられたとき、人々はステータスを得る。有用であることもこの枠組みに入る。ステータスは公的認知の証しともなる。

有用性は公共の利益であるとことを改革者たちが受け容れさえすれば、現代経済の非常にダイナミックな部分が作り出した<不要>とされることへの不安と怖れも、適切に解消されていくだろう。能力主義崇拝ではこうした不安は解消されない。人々の有用性を認識させる方法の模索は、より包括的でなければならない。有用性は実利性質以上のものを含む。公的サービス機関に努める労働者には価値があり、家庭領域の人々にはないものだとすれば、それは国家による象徴的な有用性の評価に負うところが大きいと言わざるを得ない。

職人技

新たな資本主義の文化に対抗するための第三の価値は職人技であろう。それは最も根本的な抵抗であるが、実は、政策として想像するのは非常に難しい。

職人技は新しい文化が理想化する労働者、学生、市民には欠けた根本的美徳をもつ。それはコミットメント(専念、関与)である。執着心と競争心の強い職人は物事をうまく行うことにコミットしているだけでなく、正しいや正確なという語が、うまくなされたという意味になるためには、自らの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何事かを正しく行うことが真の職人精神なのである。私欲を超えたコミットメントほど人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう。

組織への帰属心というかたちのコミットメントが急激に減少したことについては既に述べた。新しい文化による才能の見方からしても、コミットは容易ではない。精神的流動性が要求されれば、深いかかわりは許されない。これは自らの支配が及ばない現実から、人々が切り離されたことを意味する。コミットメントはプロセスとしての自己について、深遠なる問題を提起する。コミットメントには必然的に限界があり、ひとつのことに集中すれば、他のさまざまな可能性は捨象される。これによって逃すものが出てくるかもしれない。台頭しつつある文化は何ものも逃さないよう個人に強大な圧力をかける。限界線の代わりに、文化は諦めを促す。

権力の新たな秩序は、これまでになく皮相な文化によって達成された。しかし、それ自体を目的として何事かを行うことによってしか、人々は自分自身を生活に固定できないのであるから、職場や学校や政治における浅薄さの勝利は、実は、脆弱なものに過ぎない。

この著作は、どちらかというと厳密な論述というよりは思索的な、ロジックというよりはレトリック的なものだ。それぞれの個所で指摘されている事象には鋭い指摘があり感心させられるけれど、それを全体としてどうだという組立には緻密さを欠く。ただし、何となくイメージはしやすい。だから読書メモは取りにくい。この著作は、結論を求めるという読み方ではなくて、これを基に議論をするのに適しているのかもしれない。そのためには、読む者に本当の読解力を求める、つまり、自分の言葉に置き換えることができる力を問われる著作ではないかと思う。

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