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2012年3月30日 (金)

ジャクソン・ポロック展(1)

Pollockpos 抽象表現主義というようなモノモノしいのとか、あまり関係ないのか、ジャクスン・ポロックというのはビッグ・ネームの権威になっているのか、老若男女で込み合っていました。

ジャクスン・ポロックの代表的な作品は、抽象表現主義と呼ばれる、いわゆる抽象画です。難が何だか分らない、難解だと一般的には言われているようです。

まず、このような抽象画(といっても、ホロックの抽象とカンディンスキーの抽象では意味合いが違うのでしょうけれど、ここでは便宜上一括化します)に対して「分らない」という言い方がなされます。このようにことに対して、評論家の先生や手引書などでは、”あまり考えすぎずに、無心に感じてみましょう”というようなご指導が為されることが多いです。これはズルいと思います。

この場合、日本の美術鑑賞というのは明治維新以来、西洋に追い付け追い越せで西洋文化を積極的に輸入した中のひとつだ。当時の日本人は先進地域の西洋文化として西洋美術を勉強した。それが後世に後をひいて、日本人は美術作品を勉強しようとする。そうではなくて、美は勉強するものではなく感じるものだ。だから、美術作品に対しては単に観て美しさを感じればいいというものです。勉強しようとか、理屈で理解するのではなくて感性で美を感じるとかいうことでしょう。でも、ここには言っている人の優越感が見え隠れしているように思います。つまり、こういうことを言っている自分は、西洋美術を理解してるので、もはや勉強する必要がない、西洋人と同じように美術にたいする感性がある、ということを暗に言っているように思えます。そして、一般の人には、エリートである自分のように感性で美術に接することができるように真似しなさい、と言っているように聞こえてなりません。

ここでいう「分らない」というのは、偉い先生方が言うような「美術を頭で理解しようとする」というようなことではなくて、(それが全然ないと言えませんが)、極端にいえば「こんなの絵ではない」という否定の意味があるように思います。だから、さきの言説に対して言えば、もともと感性で接する「美術」であると確信できないものに対して、このような言説は「美術」にたいして感性で接しなさいと言っているわけで、ピント外れも甚だしい、ということです。さて、「分らない」に戻りますが、かりに美術の先進国である西洋で抽象画がはじめて出て来たときのことを想像してみて下さい。「こんなの美術じゃない」という否定の声が多かったと思います。西洋人は断定的ない言い方をしますが、私等の場合は、そういう時に決めつけることをさけて、謙遜した言い方で逃げることが多いと思います。そういう時に「私には分らない」という言い方はとても便利です。そういう意味で「分からない」には婉曲な否定が入っていると思います。

だから、「分らない」という人には、別に無理してポロックの作品を見てもらわなくてもいいと思います。もともと、絵を見るというのは好き好きの世界でしょうから、好きになれない人に無理強いして、変な理屈をつける(感じればいいとか)ことは無用と思います。

ただし、一言付け加えさせてもらうと、例えば、今友人として行き来している人がいる場合、最初に出会ったときは「見知らぬ」人つまりは、「分らない」人であったはずで、おそらく、人は、その「分らない」という壁を突破して、その「分らない」人と「分り」合い、その結果友人となったと思います。だから、「分らない」というのは出会いの始まりなのです。その点で、未知の美術に出会った時に、「こんなの絵じゃない」といって断定的に否定するのではなくて、「分らない」と言ったのは、もしかしたら「分る」ためのスタートラインに立った宣言という意味合いもあるのではないかと思います。そういう意味で、「分からない」という態度を否定的にいうことには、私は与しません。

前振りの脱線が長くなりました。では、ポロックの作品について、簡単に考えを明らかにして、それぞれの作品を見ていきたいと思います。

最初のところで、抽象画と一括りにされてしまうけれど、ポロックとカンディンスキーとは違うということを書きました。その一見して分る違いというのは、両方とも何を描いているか分らないことは共通しています。しかし、カンディンスキーの作品(右図)では何だか分らないけれど、何かが描かれているのです。これに対して、ポロックの作品(左上図)を見る限り何かを描いたものとは見えないのです。何か禅問答みたいです。実際に、カンディンスキーの作品を見てみると、何であると特定することはできないけれど、へんてこりんな形が描かれているのは分かります。これは画家がとにかく描いたものだということは分かります。それを見る人は、何を描いたのか?とかこれは何だ?というように問いかける特定の対象がとにかくあるのです。あるいは見る人が画面の中から特定することができるのです。これに対して、ポロックの作品を見てみると、カンディンスキーの作品にかろうじてあったような地と図の区分すらできそうにありません。画面から一部を特定して切り取るということができない。カンディンスキーで言えば、これは何?と問いかけることのできた部分というものを特定することができないのです。言うならば、カンディンスキーの場合は目的としての抽象であるのに対して、ポロックの場合は結果としての抽象と言ってもいいかもしれません。ですから、ポロックの作品に対し、これは何と、微分的に分析していくことはできないのです。だから、何が、というよりは、どのように、という問いかけの方が容易なように思えるのです。

その辺りについては、これから個々の作品を通じて見ていきたいと思います。

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