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2012年3月 5日 (月)

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(5)~「花降る日」

Arimotohanafuru 1人山を登る無垢な女を描いている、とカタログには書かれているようです。とすると、女性の背後にあるのは山なのか。というほど、この山らしきものは様式化され、図案化されています。私には、様式に関する知識がないので、これが山とは見えませんでした。

しかし、別の絵のところで考えたように、これを舞台の背景、あるいは舞台装置として見ると合点がいきます。舞台装置は、このような思い切って単純化されたり、抽象化されたものが多くあります。その装置を単独で取り出してみると何だか分らないものが、舞台の上で俳優が動き、台詞で説明されたりすると、どういう存在が観客にも分ってくる。そして、単純化、象徴化されることで、現実の山というだけでなく、芝居の流れや台詞の中身から、そこに別の象徴が読み取れるようにことも出てくるものです。それは、この作品を見た時に同じようなことが可能なのではないでしょうか。というのも、背景の物体が、まず山には見えないこと。カタログの説明でも参照されていましたが、旧約聖書にあるバベルの塔を描いた図案やダンテの新曲ある煉獄山を描いた図案に形状が良く似ているとも考えられます。そう考えれば、その物体に向いて、足を踏み出している人物は、山を登っているようにも見えない。ではハベルの投かもしれない物体を眺めているのか。分りません。というのも、人物に動きがみられないのと、表情が不明なため、何をしようとしているのか、何を思っているのかを想像しようがないからです。

ピエロ・デ・ラ・フランチェスカや中世の絵画でも、かなり極端に様式化され、図案化された画面が見受けられますが、その場合には、底流にならず聖書や信仰の物語の場面という前提があります。だから、その物語に乗って上で図案化しているので、見る人々も極端に図案化されていても、それが何を表わすか大体想像がつくわけです。ところが、有元利夫の作品では、中世の絵画と違って底流に物語がないか、あるいは見る人はそれを知らないわけです。これを単純な評論家ならば、大きな物語を失ったポストモダン社会そのものだとか、ご託宣を述べたくなるところだと思います。しかし、有元利夫には、おそらくそのような時代認識はなかったでしょう。ただ、本人が意識していないうちに時代が、反映していたかもしれません。ただ、別の作品(『ロンド』)のところで、中世的なあり方が、近代の個人主体のあり方が現代では負担と感じられるような事態になり、もっと身軽さが求められていることとなって、神という絶対的なものなければ中世的というのは改めて身軽なあり方ではないかというときに、有元利夫の作品と言うのは、そういう雰囲気に合致しているのではないか、という話をしました。それがこの作品でもやはり感じられるのではないか、と思います。

Arimotorengoku 『花降る日』の背景が何だか分らず、人物が何をしようとしているが判然としないのは、それで見る人に問いかけを突きつけているというのではなくて、もともと絵自体に強い主張がないためではないか、と考えられるからです。

ここで、おさらいがてら少し整理してみましょう。最初、有元利夫の作品はピエロ・デ・ラ・フランチェスカをはじめとした中世の絵画にひとつも理想的なものを見て出発した。しかし、出来上がったものは似て非なるものだった。表面上は平面性だったり装飾性だったり、フレスコ画という技法を選択したり、と手法上は通じるところがありました。しかし、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカには、そのような中世絵画をベースにしながらも近代的なルネサンスに向けて抜け出そうとする姿勢がみられ、その画面からは人物の生き生きとしたリアリティや人と人との関係の織りなすドラマが萌芽的に描かれていた。しかし、有元利夫の作品からは、むしろそのような要素を排除する方向が働いていた。では、有元利夫は単純に中世への回帰を志向していたのかといえば、そんな単純なものではなかった。ルネサンス以降の近代的な世界と言うのは、個人に自立した人格が求められ、その個人によって集団が形成されるという言うなればエリートの集まりだったわけです。そこで絵画に描かれた人物と言うのはそういう独立した人格だったわけです。ところが、こういうものはエリートにはいいかもしれないが、世の中にはそうでない人も多い、それが大衆です。その大衆に向けたポピュラー文化として、例えば音楽の世界ではクラシック音楽のような複数の主題を複雑に構成させた深遠でドラマティックな楽曲は敬遠され、シンプルで一つのフレーズを繰り返すような中世やバロック音楽の構造に似たポピュラー音楽が大衆音楽としてもてはやされるようになっていた。有元利夫の作品世界の志向には、これに通じるものがあった。そのために、演劇の舞台のような虚構の場にしつらえたもののような様式性(わざとらしさと言い換えてもいい)や抽象化があり、そこに登場する人物が一人であることから人間関係が織りなすドラマの部分を排除していた。そうすると、中世の神のようなベースもなく、演劇のドラマのような中心なるものも排除してしまった。いうなれば、中心を欠いたものとなって、その結果として、画面に何が描かれているのかという主張がなくなっていった。

では、そこで、有元利夫の作品はそういう言うなれば無意味、あるいは空虚なところが魅力なのかということになります。そこで、キーワードとして、私が重視しているのが、有元利夫の作品が音楽的と称されていることです。これは、他の作品のところで話したいと思います。

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