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2012年3月24日 (土)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(1)

序 不確実性のリアリズム─決定論の虚妄性

私たちはいつも不確実性に取り囲まれている。何がどうなってしまうのか確実には分らない、だからつねに不安感が生じてしまう。そして、こうした不確実性こそが、私たちの日常、私たちの常態なのだとしたら、むしろそれを私たちの現実、私たちのリアリティとして受け取るべきなのではないか、人間や生物を眺める時、こうした「不確実性のリアリズム」の立場に立つことはとても大切なことだ。もし未来の希望がありうるとしたら、それは不確実性から目をそらして不安を打ち消すことによってではなく、むしろ私たちのリアリティである不安と不確実性をそのまま受け入れ、まずはそこに浸りきることによってこそ開けてくるのではないか。逃げたりごまかしたりすることからは、本当の実体的なものは何も生まれないからである。そして実際、いかなる意味においても不確実性を免れているというのは、この世の存在者にとっての定義違反であり、ありえない。誰もが、不確実性の中で、いわば身を賭して、瞬間瞬間を生きているのである。しかし、哲学のあり方を顧みてみると、必ずしも「不確実性」は核心的主題をなしてこなかったように思える。確実性、必然性、決定性といった、不確実性と対極をなす概念こそが主役の位置を占め、確実な知識、必然的な関係、決定されている世界のあり方、といったトピックが依然として哲学の本筋をなしている。物理学、生命科学、統計学、経済学等の諸学問がとうの昔に確立革命を経て、いわば不確実性をデフォルトとして捉えてきていることに照らす時、哲学の頑固な保守性あるいは後進性を表わしているように一見思われる。

なぜそうなってしまうのか。答えは簡単である。哲学では、理想・理念あるいは規範として、確実性・必然性・決定性(確実性)が語られているのである。いわば知的ユートピア論のようなものとして、そうした確実性群が主題化されてきた。つまり、仮説的にこうした確実性群を理念として立てたならば、どういう理解が得られるか、あるいは、そうした確実性群を前提すべきかどうか、といった問いを立てて、そのことで現実のありように関する分析を果たそうという道筋である。

しかし、一部にこうした確実性群が単なる理念ではなく、現実に成り立っているようなリアリティであるかのような錯覚が混じり込んできてしまっている。その典型は決定論ら現われる。哲学者の中には、世界の有り様は決定されているという決定論を文字通りに受け入れてしまっている人がいるのである。そもそも、世界の有り様は決定されていると主張する以上、過去から未来にわたる森羅万象が決定されている、ということが意味されているはずである。こうした断定は虚妄であると、筆者は言う。抗した虚妄が生み出されてしまう背景を推定する。すなわち、過去の確定論が決定論という虚妄を生み出す。

(a)すべての事柄はすでに確定してしまっている

という過去に関する主張を受け入れた上で、そこでの確定性を、はじめから決定されていたという意味だと、無根拠な翻訳あるいはすり替えをして

(b)すべての事柄は既に決定されてしまった

という主張を導き、そしてそれを、なぜか無時制的に一般化して、

(c)すべての事柄は決定されている

という、いわゆる決定論の主張に至る、というのが真相なのではないだろうか。これを決定論的誤謬と呼ぶ。

本書は、不確実性のリアリズムの観点に立って、とりわけ不確実性を確率と曖昧性という概念のもとで表象することによって、認識や評価についてのいくつかの現代哲学的な問いに立ち向かおうという試みである。

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