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2012年3月27日 (火)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(4)

6.パラドックスの射程

ソライティーズ・パラドックスが認識論に向ける刃は自然主義的認識論だけをターゲットにするだけでなく、はるかに全面的である。「知る」という根本的な述語それ自体が曖昧だからである。そもそもある事柄ついて知っているということは、その事柄について問われて答えられる、という基準が考えられる。この場合の答えるということは、外形的なことに絞っても、即座に応答できることが答えたことになるだろう。では、その即座とはどのくらいの時間を言うのであろうか。ここには鮮明な境界線はない。このような外形的な記憶の甦りにかかる時間的観点だけでも知っているということは、明らかに境界線事例を許している。そうなると「知る」ことを論じる認識論全般が、宿命的に曖昧性に巻き込まれている。

議論は別の方向へシフトする。ソライティーズ・パラドックスがもたらす矛盾の脅威は、自然主義的認識論だけでなく、認識論全般を射程に入れたものであり、それを真の困難として受け入れることは、認識や知識はそもそも不可能なのだ、という全面的懐疑に至る。しかし、これは、そう論じる哲学的主張にも跳ね返ってくる帰結である。

ここで、ソライティーズ・パラドックスがもたらす矛盾を根本的な困難であると即断することに見落としがあるのではないかと、考えてみる。矛盾を認めると論理的にすべてのことがそこから演繹できて、結局は主張の有意味性が消滅してしまう。他方、文字通りの矛盾は完全なる偽・不可能であり、それゆえ原票も不可能なはずだ。ソライティーズ・パラドックスがおいて矛盾が現に言い立てられているとするなら、それは全てのことを演繹してしまうような完全な不可能性としての矛盾とは異なる矛盾と考えねばならない。ソライティーズ・パラドックスが浮かびあがらせている矛盾は、実際にすべてを演繹するといったカオスをもたらす矛盾であるはずもなく、不可能事ではない事態として実際に発現してしまっている。ではソライティーズ・パラドックスが実在的に生じている現象である、ではそうした現象が自然現象であるならどうなるだろうか。

7.ソライティーズの因果説

ソライティーズ・パラドックスに対して、筆者はこの実在性を前提にして、条件的ソライティーズにおけるそれぞれの条件文の形の前提を、前件を原因、後件を結果とする「確率的因果」と捉えて、パラドックスを記述的に理解するというソライティーズの因果説を提示する。

ソライティーズの因果説を「死」の判定の例に沿って、簡単に検証してみる。二つの場合に分けて整理する。第一に、死の三徴候が現われて60s60秒後)は、おそらく「死んでいない(蘇生可能性がある)」の境界線事例であり、そうした事態にある人が「死んでいない」という判断は真とも偽とも言い難いと考えられる場合である。この場合を「ソライティーズの因果原理」に沿って理解するなら、例えば、そうした事態について判断する直前に、(ⅰ)三徴候が現われて59.999s後の人について「死んでいない」と判断した時、(ⅱ)同様に三徴候か現われたけれども59.999s後の人について「死んでいない」と判断しなかったときの、確率的因果の関係の比較が手懸りと成る。つまり、(ⅰ)の思考状態が三徴候発現後60sの人が「死んでいない」とする判断へ結びつく確率と、(ⅱ)の、判断をしなかったという思考の欠如状態が、三徴候発現後60sの人が「死んでいない」という判断に結びつく確率とを比較して、前者の確率の方が高いならば、「ソライティーズ」の連鎖はひとまず続いていくだろうと予想される。けれども、「三徴候発現後61s」について考えると、その直前に「死んでいない」と判断した場合と、そうした判断が欠如している場合とで、「死んでいない」と判断した場合と、そうした判断が欠如している場合とで、「死んでいない」という判断へ結びつく確率の差が少し小さくなってくる。三徴候発現後の秒数をさらに大きくしていけばいくほど、「死んでいない」という判断とその判断の欠如との、「死んでいない」 に結びつく確率差か小さくなり、やがて差がなくなるだろう。また、この過程に沿って、確率の絶対値もゼロに近づいてくるはずである。しかし、死ずれの場合も「ソライティーズの因果説」に従うならば、例えば三徴候が現われて60s後の人について「死んでいない」を真とする傾向性と偽とする傾向性の両方が、判断者側のあり方として確率的に分布している状態となる。確率を問題にする以上、そういう理解が導かれるわけである。そして確率分布で表現される事態に問題がない以上ここに何も困難は生じない。

曖昧な述語の境界線を絞り込んでいく作業は、すでに明らかなように理論的手続きとしては一種の循環に巻き込まれているし(曖昧な述語を分析するのに曖昧性を免れない観察・測定用語を用いるしかない)、さらに、厳密には自然科学的な「確証」とも言い難い。これを「確証」と認めることは、真の境界線を徐々に「発見」していく作業として実証的研究を捉えることになり、曖昧性は真に存在しない、というスタンスを採ることになってしまうように思われるからである。しかし、筆者は「不確実性のリアリズム」に沿って、「ソライティーズ」は実在するという立場を選択する。つまり、曖昧性という立場は実在していると捉える。よって、ここでの暫定的境界線確定の実証的作業は、理論的手続きとしての「確証」ではなく、暫定的境界線の「創造」であると、実験者と被験者との間の、その文脈に沿う限りでの「創造」である。そして、それが暫定的なものである限り、そうした創造はさらにたえまなく再「創造」されていく。そうした変遷を絶えず引き受けるということ、確定していないということ、それこそが曖昧性の実在性の証である。「ソライティーズの因果説」は、概念や言葉の意味が時とともに「創造」され続け、そのことで、概念や言葉からなる知識・認識がダイナミックに変成されゆくという、このような現実のありようを把捉しようとしている。こうして自然主義的認識論は、困難にさらされ、その困難こそが復活の道筋を描き、しかしその道筋のもとでは自然科学的探究の当初想定されていた本来の様相から外れていくという、大きな「ゆらぎ」を描き出す。そして、知識や認識それ自体が実は曖昧であり「ゆらぎ」ゆくものである限り、こうした「自然主義的認識論のゆらぎ」はまさしく「自然」なことであると言うべきだろう。こうして「知識は自然現象か」という問いに対する解答の、ありうべき道筋が見えてくる。曖昧さという実在性を認め、ゆらぎゆくという本性を受け入れる限りにおいて、知識は自然現象として扱うことができるのである。

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