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2012年3月 3日 (土)

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(4)~「厳格なカノン」

Arimotokanon 繰り返しになりますが、多くの有元利夫の作品は人物が、たいていは一人で全身か上半身が描かれていて、あまり動きのないシンプルなポーズをとっているというものです。その人物もだいぶデフォルメされた一目で有元作品の人物だと分かる特徴的なものになっています。頭部が極端に小さく、顔は描かれているが描き込まれているというのではなく、表情とか顔から人物の個性を窺うことはできない。手は極端に手の先が小さく、これは頭部の小さいのと釣り合っているのでしょうか、逆に上腕部は着ている服の関係からか不釣り合いなほど太くなっています。そして、来ている服が中世風というのかタップリしてふっくらした衣服を着ています。人物のとるポーズも様式化された感じでダイナミックな動きは感じられません。

これについて、私は一種のキャラクター・ピースではないかと思います。画家には失礼かもしれませんが、例えばサンリオのキティちゃんのようなものです。人物には何パターンかありますが、その人物が様々な背景の中に当て嵌められて画面が作られ、それが作品となる。キティちゃんというキラャクターが着せ替え人形のような様々な衣装を着せられたり、文具やアクセサリーといった様々なグッズにプリントされ、それらが商品として成立しているのと同じです。有元利夫を若くして亡くなってしまったため、人物の表現自体がもっと進歩して成熟した深みをもったものとなる時間の余裕はなかったかので、想像の域を出ませんが、残された作品を見る限りでは、有元利夫の作品に描かれた人物を見ていると、そのような表現の深まりの可能性の余地が感じられません。あくまで表層のところで、らしくパターン化されたキャラクター、だから近代絵画というよりも図案に近い印象です。しかし、これだけではイラストで絵画にはならない。そこで、中世のフレスコ画の手法が生きてきます。近代絵画の陰影や立体感や質感とは逆方向の平面的でパターン的な中世の絵画に適した手法です。岩絵具は塗りむらができやすく、反面から見ればそのムラが微妙な変化やかすれ等も重なって味わいを醸し出す効果もあるわけです。油絵具の質感にはそぐわず、かといってアクリル塗料のようなものだとイラストになってしまう。岩絵具を塗ってフレスコの手法で図案を描くと、古風で味わいを感じさせる作品として出来上がる。

このように書くと、何か有元利夫を辱めているように受け取られたくないのですが、これはこれで凄いことです。フレスコ画を描くこと自体、熟練を要する苦労の必要なものです。また、上に書いたようなことを本人が自覚的に行ったとしたら、まさに現代芸術のコンセプチュアルアートではないですか。

そこで『厳格なカノン』という作品です。これはこの展覧会のポスターにも使われた作品で、ある意味で有元利夫を代表する作品といってもいいかもしれません。書き割りのような背景、とくに地面には碁盤目が引かれていたりする、の中で、はしごが立てられている。これは舞台で背景と緞帳、そして床の模様ということかもしれません。この梯子もカーテンのようなもので先が隠されて、立てかけられているのかどうか判然としない。そのはしごの中ほどに有元利夫の描く独特の人物が足をかけている。という作品です。人物の顔は小さく、描かれている表情は判然としません。人物に動きがないのか、はしごを昇ろうとしているのか、降りようとしているのかは画面からは分かりません。はしごを掴んでいる手、指差がカーテンのようなもので隠されているので、なおさら人物がどうしようとしているかの手懸りがありません。

Arimotopiero3 ここでは、その人物ではなくて、背景に焦点を当てて見てみたいと思います。先ほども少し触れましたが、この背景はリアリズムということからは離れて幻想的といった趣ですが、舞台装置に様にも見えます。図案化されたような空と雲の形や人物と不釣り合いなほどに低い山は舞台の背景画として見れば、その様式性や感じられる象徴性も不自然ではなくなります。また、人物が足をかけている梯子については舞台装置としてみれば、そこに象徴的に特別の意味を探す必要もないわけです。もともと幻想というのは個人の内面、例えば夢の肥大化したものと言えるもので、そこには言葉が介在した理念的な、あるいは構築的な要素が底流にあると思います。しかし、有元利夫の作品には、言葉によって構築されたという要素は、あまり感じられません。例えば、象徴的な記号、イコノロジー的なアイコンの使用は為されていません。描かれた画面の表層の下にもう一つの深層があるようには思えなく、表層だけが存在しているような感じがします。有元利夫の作品に静寂さが感じられるのは、表層だけ、つまり上澄みをすくったようなところがあるためかもしれません。その理由として、舞台の書き割りを書いたというは、私には説得力があります。作家の内心の反映というよりは、キャラクターを演じる俳優の場として、そのために演じることに対して余計な要素を取り去ってしまうと風景の写生とは違って縁起に必要な部分だけを強調した、結果としてデフォルメされた図案が出来上がったというわけです。

ピエロ・デ・ラ・フランチェスカもそうですが、中世からルネサンスころの絵画には舞台の書き割りのような空間の絵画が散見されます。ルネサンスによる遠近法の発明も平面的な舞台で、背景に奥行を感じさせることが、その契機となったとも言われています。絵画の、その後の歴史はその後写生に向かい、ロマン主義などでは個人の内心を仮託したりドラマチックでダイナミックな方向に進んだのに対して、有元利夫は逆に平面的な書き割りに遡行していったとも言えるでしょうが。

そして、『ロンド』のところで申し上げましたが、有元利夫の作品の人物はキャラクター・ピースだといいましたが、まさに演劇の世界です。ただし、ここでいう演劇は近代演劇の個人のぶつかり合いではなくて、中世の様式的で表層的なコメディア・デ・ラルテのような様式性の強いものや、日本の中世の能楽のように象徴性の高いものをイメージしています。

能楽の表層を掬い取ったような静けさや様式性、あるいは個人の内心の表白というものがなく人間関係のドラマが直接伝わらない表層に終始したようなところは、有元利夫の作品と共通するところがあるように思います。それは、背景の単純化された図案の象徴性もそうだし、何よりも表情の感じられない有元利夫の作品の人物は能面にも似ているのではないか、あるいは能楽では指先の動きも衣装の袖に隠されて見えにくくされているわけです。だから、この『厳格なカノン』の背景についても、そこに意味を探すというよりは、はしごに乗っているポーズの人物を活かすために選択されたものと、つまりは、舞台の背景として選ばれたものと考えた方がしっくりくるように思えるのです。

このように考えると、この『厳格なカノン』もそうですが、有元利夫の作品世界というのが、リアルな現実世界を直接にではなく、かといって幻想の世界を表わしているというのではなくて、現実あるいは幻想を舞台という間接的な場に引き移して、間接的に、つまり、舞台化というヴェールをかけた世界となっている。そこでは、世界全体が書き割りのような平面的で、舞台にとって不要なものを消去したという結果としての象徴性が残った。ただし、世界全体として表わすことに比べて舞台と言うヴェールを介することによって世界の一部を切り取ることができ、それを作品とすることでさらに切り取ることができるという二重の象徴化によって、全体を表わそうとすると不可避的に表現に入り込んでしまうような要素を注意深く排除できて、蒸留した上澄みだけを掬ったような結果となる。その結果が静けさの印象となって現れたと。

一方、個々で描かれている個々の人物に個性が感じられず、キャラクター・ピースのようなパターンになっているのも、そういう点からの説明も説得力のあるものと思います。

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