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2012年3月27日 (火)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(3)

4.「知識の所有」という陥穽

第二の困難は、近世認識論祖ロックの議論と<自認1>との連関から生じる困難である。

認識論は大きく二つに分類できる。一つは、認識の主体を単なる主体として一般化し匿名的なものとして扱い、文を主題として、その真偽を論じるタイプの認識論である。この認識論が扱う知識を「没人格知識」あるいは「楽譜的知識」と呼ぶ。もう一つは、文字通り認識の主体を主題化して非匿名的つまり固有名的に扱い、「誰の知識か」ということを論じるタイプの認識論である。この認識論が扱う知識を「人格知識」あるいは「演奏的知識」と呼ぶ。

自然主義的認識論が批判しているカント認識論は「没人格知識」を主題にした認識論の典型で、カントが認識論を論じる時には認識主体の年齢、人種、時代、性別などを本質的ファクターとして考慮していなかった。しかるに、カント認識論の動機付けとなったロックの認識論は、濃密な意味で「人格知識」を主題にした認識論なのだ。というのも。ロックは「観念」を軸に知識の問題を論じたが、その「観念」は認識主体が「意識」することによって生成してくる。しかも、ロックにおいて「意識」とは「人格」を決定づけるものである。そう考えると、ロックの捉えようとしている知識とは「人格において成立して来るものと考えねばならない。さらに「人格」は所有権概念の基点でもある。とすれば、知識は「人格」が所有するものとして捉えられなければならない。これは、今日の「知的所有権」の概念に見合うような知識概念が、このような認識論の中に胚胎していたと考えられるのだ。

では、自然主義的認識論は、伝統的認識論に宿っていたこのような「人格知識」の様態を説明できるのだろうか。そこで、<自認1>の「認識は自然科学の一部である」という論点から、自然主義的認識論は「知的財産権」の問題にまともに向き合わざるを得ないことになる。現代の自然科学者たちは特許権などの知的財産権を考慮して活動しているのは明らかだからだ。このことを自然主義的認識論は応えることができるだろうか。この答えは<自認1><自認2>のずれに関係している。

このことは、自然主義的認識論を主張する哲学者自身にも自己言及的に降りかかる。自然主義的認識論を論文や発表で展開する哲学者は「自分の」議論や論文という著者性を表明していることになる。こうした著者性は知的財産権に対応するものだ。かくして、自然主義的認識論は、それを主張として展開するという自らの本体を提示することによって、「知識の所有」という陥穽にはまり、直ちに自滅し、消え去っていく、そうした必然性のもとにあるように思われる。

5.ソライティーズ・パラドックス

第三の困難は、章の冒頭であげた筆者の体験例に直接かかわって来る。すなわち、そこで述べられた「知識のほころび」とは「曖昧性」という現象に他ならない。そうした曖昧性から自然主義的認識論にとって不都合な事態が発生してしまうことが第三の困難だ。「曖昧性」とは、それを述語として作られる分のなかに、真とも偽とも言えない「境界線事例」が生じてしまう事態のことを言う。筆者の体験で言えば、確実に意識があった時刻をtとした時、時刻t+0.1s(意識を失う直前から0.1秒後)はどうかと考えると、そんな短い時間差では意識のステージが急に転回しないから、このときも意識はあったと判断する。このような論じ方を認めたとすると、時刻t+0.2sにも意識はあった。しかし、それを続けていくと永久に意識が失われなくなってしまう。それは事実に反する。これは「ソライティーズ・パラドックス」と呼ばれる。

もともと、厳密に考えるならば、知識にほころびがあるということ、つまり知識に曖昧性があるということは、それだけでは何も不都合はない。単にそれが「知識」というものの本性なのだということだけである。しかしながら、事態はそこにとどまらずに、パラドックスをもたらす。それがゆえに曖昧性を問題化していかざるを得ないのである。

ソライティーズ・パラドックスは自然主義的認識論にも、ある困難を突きつける。例えば「寒いと感じる」を含む文「寒いと感じているのを知る」を例として、自然科学的に知識を解明するということは「寒いと感じているのを知る」ことを測るための生理学的測定技術を導入するということにほかならないが、たとえそうした測定技術がどれほど精確でも、もともとの曖昧性が消滅することはなく、いつ「寒いと感じると知っている」かについては答えることはできない。要するに知識は曖昧性を本質的に含むゆえに、知識を脳の自然現象と精確かつ鮮明に対応付けることはできない、よって、知識を自然化するアイディアを楽観的に奉じることはできない。のみならず、「ソライティーズ」の発生を考慮するなら、単に対応付けができないだけでなく、自然主義的認識論は「矛盾」にさえ巻き込まれてしまう。

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