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2012年3月 6日 (火)

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(6)~「室内楽」

Arimotositunaigaku 室内でしょうか、テーブルに向って座っている人物がテーブル上の丸い物体を弄んでいる。背後は壁なのか、土色に塗られ、しも塗り方にムラがある、また人物の背後には正方形で囲われた青い空と雲が描かれているが、窓なのか絵画がかけられているのか、テーブル上には碁盤目が引かれていて、そのうえに丸い物体がいくつか置かれている。テーブルは遠近法と逆に描かれ、テーブルクロスで囲われているため脚の部分は隠されている。そのため、人物は上半身しか見えない。このように列記しても、何が描かれているか、判然としないでしょう。説明している私自身、何の絵なのかというメインのことが不明なので、それにしたがって画面の説明を組み立てていくことができないのです。

「花降る日」のところでは別の観点からお話ししましたが、有元利夫の作品には何が描かれているかという主張が感じられないのです。慥かに、実際の画面には人物が描かれ、テーブルが描かれ、等々があります。だから何も描かれていないとは言えないのかもしれません、しかし、これらが一つとなって画面を構成して全体として何なのかということが、意味不明と言えます。それは、私の想像力の不足ゆえなのかもしれません。

有元利夫の特徴の一つとして関係の軋轢を嫌うということを述べたことがありますが、ここでも人物とテーブル、丸い物体相互の関係をはっきりさせていません。人物とか物体とか色々なパーツを構成して画面を作るとした場合、全体として何なのかという主張をしたいものに直結するような根幹となるパーツを強調して、それ以外はそれに従属させるような構成、簡単に言えばメリハリです。これが「室内楽」にはありません。それぞれが同じような比重で画面に在る。だから、平板なので何を言いたいのか分らない。これは、他の作品のところでも平面的とか、装飾的とか、虚構的とか空虚とか言う要素をコメントしてきましたが、最終的にはここに収斂されるのではないか。

Arimotoporock ここで誤解して欲しくないのは、これを悪いとは思っていないと言うことです。全く方向性の違う絵画ですが、例えば、ジャクスン・ポロックの抽象表現主義と呼ばれる作品では、何かを描くと言うことが放棄された作品です。画面が出来てしまったのを見て、そこにン中を感じればいいというもので、有元の作品は最終的には、それに近いのではないか。ただし、有元の作品は抽象画ではなく具象画です。そこには、具象ということで何かしらの効果のようなことが意図されている、それが、他の作品のところで縷々述べてきたことです。言うなれば、彼の作品は効果の積み重ねと言ってもいいと思います。それが、有元の作品が音楽的と称されていることにつながるのではないでしょうか。

基本的に音楽には意味がありません。言葉であれば「犬」という言葉があって、そのことばは実際の犬を指しています。それが基本的な意味するということです。しかし、音楽には特定のものを指すという機能はありません。情景を描写するような音楽があっても、それは丸写しではなく、聴く人がそれらしいことを想像することを期待してのことにすぎません。音楽が感情を表現するといっても、言葉で「怒り」といっても、音楽にはそういう特定できるものがありません。そこでは、音の繋がりや繰り返し、音の重なりといった現象から、音楽を作る人、音楽を享受する人が、それぞれ勝手に想像し合うというのが単純化した音楽というもののあり方と言えます。音楽を作る人にとっては、モーツァルトが繰り返し手紙で述べているように効果の積み重ねなのです。おそらく、有元利夫の作品の魅力と言うのは、そういう点にあるのではないでしょうか。

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