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2012年3月30日 (金)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(7)

8.高次シンプソンのパラドックス

分母を等しくしていわゆる「正規化」の操作を施した場合、「シンプソンの不等関係逆転」は発生しない。この場合、治療は回復の確率を高めると紛れもなく言えることになりますが、母集団によって確率の高低が変わり、そこから見取られる関係性も変わる。しかし、だからといってこのように「正規化」したものが真の確率の関係を表現していることになるうというと、そうも言えない。二つの点に問題がある。第一に、こうした「正規化」の操作は、一見単なる数字の処理にすぎず、内容的な変更を加えていないので如何なる難点もないように見えるが、実際には最初のデータの実数に手を加えてしまっている点で問題がある。例えば、最初のデータでは治療を受けた男性60人に調査したが、この調査対象を200人の男性にまで拡張した時に、調査結果が同じ割合になるかどうかということは、この時点では不明と答えた方が誠実である。そうした不明性に目をつぶって正規化してしまうというのは根拠薄弱な機能的推測憶測を加えたことになってしまう。

そして、つぎのより根本的な困難が第二の点として、同じデータを別の基準で割り振った時、そしてさらにそれを正規化したとしても、不整合な不等関係が生じる可能性が消去できないという点が指摘できる。いわば「高次のシンプソンのパラドックス」が生じうるのである。例えば性差以外の仕方で、年齢50歳未満と以上とで分割してデータを集計したときには、治療は回復の確率を逆に低めるという関係性が浮かび上がる場合もあり得る。さらに、同じデータから正規化してもしなくても、分割の仕方が違えば、異なる帰結が生じうるということである。この事態はまさしく「高次のシンプソンのパラドックス」ということができる。

こうした事態は、明らかに母集団をどう選ぶかという点、そしてどういう分割をするかという点に、確率的相関は依存しているということを示唆している。そうであるならば、差し出されたデータに確率的相関が見出されたとしても、つまりある出来事が別の出来事の確率の上昇と相関しているとしても、そこから直ちに両者の因果関係を推定するのは理論的に誤謬を犯していることに常になり得る。ここでの例で言うならば、治療を受けることが回復率を高めるということを特定のデータから見出したとしても、そこから直ちに、その治療が回復の原因となる、という結論へ至ることには、つねに誤謬の可能性が待ち受けているということである。ということは、確率的因果の着想、そしてそれに基づいたベイジアン・ネットの考え方は、そのままの形で受け取ることはできないということになる。なぜなら、母集団の取り方によって確率的相関の有り様が変化するしうるからである。

9.「条件なし確率」の困難

もともとベイジアン・ネットの考え方は「ベイズ的条件付け」に基づいており、そして「ベイズ的条件付け」は「ベイズの定理」を応用したものであり、そしてさらに「ベイズの定理」は「条件つき確率」の定義から由来するものであった。しかるに、「条件つき確率」の定義は、その形から明らかなように、「条件なし確率」を用いた比の形として導かれていた。しかし、よくよく考えてみると、「条件なし確率」などというものが意味を成すだろうか。ここでの例に沿って言うならば「私がその治療を受ける」確率はどのように算定するのだろうか。ある特定の病気に罹っている場合とか、ある特定の症状を被っている場合とかのも母集団または参照クラスが決まって初めて確率の意味が立ち上がってくる。ということは「条件なし確率」というのも、実際は「条件つき確率」であると言うべきではないだろうか。

さらに「条件つき確率」を「条件なし確率」を用いた比の形での定義することには根本的な疑念がある。「条件つき確率」が条件となる項の確率が0であっても十分に意味を成しうる。しかるに、比による定義では、確率0のものを条件項とすることは除外されていたのである。そこで、「条件つき確率」そのものをプリミティブなものとして出発点におくべきという主張も出てきた。

しかし、その場合には、問うべきことが二つある。第一に、確率的相関と因果関係をこのように切り離したとするなら、因果関係はどのように認識されるのか。第二に、確率的相関は母集団や参照クラスに依存するのは分かったとしても、ではどのような母集団に拠ることが適切な関係性の認識に結びつくのか。

10.神秘化と無限性

この二つの問いは別個ではあるけれど、確率的因果の考え方を崩した後、という点で同趣旨の問いであるので、答えも共通に与えることが可能である。

先ず第一に考えられる答えの方向性は「神秘化」の道だ。因果関係の認識はなぜか分らないが端的に与えられるのだ、適切な母集団はなぜか分らないがあるとき確定するのだ、という答えである。それは逆に言えば、因果関係など人間には認識し得ないのだ、確率は母集団に相対的であって特定の母集団が特権的に適切だということは我々には分らないのだという含みを持っている。

そして第二の答えの可能性は「無限性」の道である。先の二つの問いに対して何らかの客観性を保持したいと考えるならば、再び経験的な検証によって答えることになる。確率的相関にある因果関係とそうでない因果関係とを経験的に検証して識別できるようにしようという道筋だ。こうした道筋は、再び確率的相関性を利用するしかないことになる。①特定のいかなる条件が、②「確定的相関と連動する因果関係」を決定するかを経験的に推定していくには、①と②の間の何らかの確率的相関性・因果性を利用するしかないだろう、ということである。あるいは③特定のいかなる経験的条件が、④「ある確率的相関を解明するための適切な母集団」を確定するのかを予想するには、③と④の間の確率的相関・因果性に拠るしかないだろうということである。となると、議論の形からしてこうした入れ子構造は「無限」に背進していく。つまりは、終わりがなく、因果関係の認識は空中分解する。確率的因果そして因果的ベイジアン・ネットもまた確率的相関をめぐる「無限性」のやみへと巻き込まれていくのである。

このような事態は、因果関係というものは究極的には検証し発見するものではなくて、どこかで認識者が規範として決定して行くしか名のものであることを暗示しているのではないか。ただし、そのように規範的に決定していくときの手懸りとなるのが、確率的相関、すなわち、そのときの特定の状況下で現実に人々に対する説得性を勝ち得ている確率的相関の関係なのではなかろうか。

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