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2012年3月25日 (日)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(2)

第1章 知識は自然現象か─自然主義の揺らぎ

ここでは「知識は自然現象か」という問いを解明すべく、「知識のほころび」と「自然主義的認識論」との関わりに象徴されるような問題に立ち居って論じる。全体として、「自然主義的認識論」の固有性を確定した後、それが揺らいでしまうような困難を三つに絞って検討し、自然主義的認識論のプログラムの破綻あるいは空虚性・無力性を暴きつつ、しかしそれを補うためには再び自然科学的な探求が必要となるが、そうした探求はもはや当初思い描いていた自然科学という領域の輪郭を消し去ってしまうという道筋を示す。自然主義的認識論の評価をめぐる、こうした振り子のような「ゆらぎ」の様相を炙りだすのが、この章の狙いである。

1.知識のほころび

筆者は一酸化炭素中毒になりかかり、意識を失った体験から議論を始める。このときの部屋が歪みゆく光景について、認識や知識を論じる理論があるとすれば、こうした認知のあり方をも解明できなければならないはずだ。その解明を行うには、私が何時意識を失ったか、という時間情報はデータとして不可欠だ。しかし、私自身、それを書くとして認識していなかったし、認識できない。では「意識がある」状態と「意識がない」状態との間の区切りはないのか、事柄の性質として、私が認識できないならば、そうした区切りはそもそもないのだと、つまりは意識があるかないかという知識にほころびがあるのだ、というべきなのか。

とはいえ、ほころびがあり、区切りがハッキリしないといって、その都度ランダムにあるいは恣意的に「意識」の有無を決していいということにはならない。その意味で、客観性という点で、測定値が重要な手がかりになること、ならねばならないは、動かない。このことは、意識それ自体の有無だけでなく、知・情・意と伝統的に分類されてきた意識内容にも当てはまる。とりわけ知識に当てはまる。感覚的知識は脳のある部位の活動に対応しており、それを測定することで当人の知識や認知の有り様が解明される。このように脳の働きと感覚的知識が連結している。このような路線から人間の意識現象や認識について認識について論じていく立場は、哲学の文脈では、「自然化された認識論」「自然主義的認識論」と呼ばれる。これを規定すると自然主義適任時論とは、「認識論は自然科学と密接に連動しているとするいくつかの考え方のクラスター」で、クラスターとしているように、自然価格との連動性をどのレベルで捉えるか、つまり、認識論を全く自然科学の一部門に置き換えてしまうか、自然科学との一定の協調のもとで認識論を展開するという程度にするか、という点で多様性がある。

2.自然主義的認識論の固有性

クワインは「自然化された認識論」において、自身のホーリズム(我々の知識の体系には絶対の基礎などなく、知識は全体として経験の裁きに向かうとする考え方)を下敷きにしながら、近世以来の認識論はすべての認識を観察用語あるいは論理数学用語に翻訳することで基礎づけを行おうとしたが失敗した。ならば、認識論をまるごと自然科学のひとつに置き換えてしまえと主張した。

こりクワインの「自然化された認識論」のプログラムは、次の二つの論点を骨子にしている。この論点こそが自然主義的認識論の固有に主張と見なされるべきだと筆者は言う。

<自認1>「認識は自然科学の一部である」

<自認2>「認識は自然現象である」

この両者は整合しているが、同じことを意味しているわけではない。自然科学の一部として自然科学的探究の対象となり得るものは、即ち自然現象かというとも必ずしもそうは言えない。この両者を区別せず混ぜ合わせて使用しているケースがたくさんの疑問を呼び起こしている。

クワインの議論は認識の、伝統的認識論を「自然科学をセンス・データから構成しようとする」と位置付けようとする。そしてその上で基礎づけとは別の意味でホーリズムの思想を経た形での「観察文」を「最小の検証可能な集合体」として、自然化された認識論の基本対象として捉え返す。しかし、センス・データによる基礎づけ主義という括り方で伝統的認識論を捉えることは端的に事実誤認だ。これは近世認識の祖であるロックが「観念」という用語に認識論の基礎を置いた時に、「観念」がセンス・データと同じでなかったことは明らかだからである。つまり、センス・データに基づく基礎づけ主義は認識論の源流とは無縁の思想である。この「観念」自体が融通無碍な概念で、それには、「知覚」それ自体、「思考すること」、「知識」それ自体、「存在」、「単一」といったものまで含まれる。

3.制度的知識の位置づけ

しかし、自然主義的認識論が描き出す方向性は、我々のすでに常識となった見方に対応しているし、実際的な発展性・生産性もあると言える。認識についての研究に自然科学の知見を利用したり応用するというのがリサーチ・プログラムとして維持されていることに異議を唱えることはない。しかし、その事件を越え、認識は自然現象であり自然科学的にのみ探求すべきだ、という強い哲学的主張として自然主義的認識論が提示される限り多くの困難を呼び起こす。例えば、知識にまつわる規範性をどう説明するのか、認識論と自然科学のどちらが基礎になるのかという点で循環が生じるのではないか、など。筆者はこれらとは別に三つの困難を指摘する。

第一に、制度的知識を自然主義的認識論はどう位置づけることができるのか、ということだ。認識を自然現象と捉えて、自然科学的に探究する、という自然主義的認識論の着想から生じてくる素朴な疑念は我々の知識が関わる事実には自然現象でないものが多々あり、それを自然現象としてのみ扱うのは困難なのではないかというものである。これは、ジョン・サールの提起した二つの事実、「なまの事実」と「制度的事実」に深く関わっている。

クワインは「観察文」に自然主義的認識論の出発点を置いてきた。たしかに我々の知識には観察に由来するものが多い。つまり、「なまの事実」についての知識は多い。しかし、それで知識のすべてが尽くされているとは言えない。例えば

「小笠原諸島は東京都に属する」

という制度的知識に対して、どのような観察文で成立するのかを考えると、このような制度的知識の成立の次第にはいつまでも届かない。自然主義行く認識論が陥っている最大の問題は、制度とか権威というものは知識には関わらない、という無根拠な前提を無批判にかつ暗黙的に前提してしまっている点にある。それ故に、制度や権威に関わらないレベルだけで認識論を構想して、自然現象として生じている認知現象は自然現象なのだというトートロジーに陥るか、あるいは、制度や権威は理解も自然現象だと強弁して、結局は空虚な主張に堕してしまうかの、いずれかになってしまっている。

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