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2012年3月 2日 (金)

没後25年 有元利夫展「天空の音楽」(3)~「ロンド」

Arimotorond 有元利夫の作品のパターンとして、人物が、たいていは一人で全身か上半身が描かれていて、あまり動きのないシンプルなポーズをとっている、というのがほとんどではないかと思います。この作品はそのパターンから外れた数少ない例外といえるものです。4人の人物が輪になって手をつなぎ合っている上方を1人の人物が浮遊しているという構図です。有元利夫は複数の人物を描くのは、関係を持ち込むことになるから、一人の人物にすることにしているというようなことを書いていたようです。言っている言葉は、それなりに通じているのですが、では実際の画面の中で、例えば、この作品のように有元利夫の作品の中で例外的な作品において、有元が持ち込むのを避けていた関係性が画面に現われているか、というとどうもそうとは思えません。この「関係」ということには色々なレベルがあるので、有元利夫がどのような意味合いで、件の言葉を書いたのかは、分かりません。

実際に作品を見てみると、関係ということを嫌がるほど意識していたとは考えられません。もしかしたら、画家が注意深くその要素を排除してしまったのかもしれませんが、それにしては、他の典型的な作品と大きな雰囲気の違いはないようです。画面にある5人の人物のうち、浮遊している1人は別にして、手をつないでいる4人は、というよりは4人で一つの物体のようではありませんか。4人の人物はそのパーツのようにみえます。4人の人物の個性を描き分けているわけでもないし、役割が振り分けられているようにも見えない。それぞれの人物の違いは着ている服の色が違うくらいでしょうか。だから、それぞれを取り替えても、そこに大きな違いが生じるということはないのではないか。人間が2人以上いれば、そこに関係が生まれるというようなことを有元本人が書いていたようですが、同じものが並列されているだけならば、関係は生まれません。また、関係が生まれるような人物として生きて人物も描かれていないように見えました。

では描かれた画面の空間構成という点でみるとどうでしょうか、この作品ではドームのような中に主に5人の人物が描かれていますので、それらをどのように配置させ、構成するかというのが画面の空間構成ですが、このときそれぞれの位置関係や大きさ、ポーズ、色などの関係が生じます。有元利夫の言う関係は、そのことなのでしょうか。それにしては、典型的な有元利夫の作品では、慥かに人物は1人しか描かれていませんが、楽器だったり、家具だったりと人物以外のものも描かれていることが多い。空間構成ということを考えれば、人物も物体も同じように空間を占めることになるので、その点では同じで画面上で人物同士と同じように位置関係や諸々の関係を計算しなくてはならなくなるはずです。ということは、このような意味での関係を有元利夫は嫌がってはいないことになります。

今、関係ということで2種類に分けて考えてみましたが、これは前者が人と人との関係、後者が人と物との関係に当たります。大雑把な分類かもしれませんが、有元利夫は後者の関係を嫌がってはいないようです。人と物との関係の特徴は、端的に言えば、一方的なことです。例えば、人と楽器を取り出して考えてみると、楽器は人が手に取って音楽を奏でるために楽器として使うことによって楽器です。それ自体は、存在はしているでしょうが、人が何らかの意味づけをしてあげて、はじめて人との関係が生まれます。しかし、その逆はありません。その理由は何かといえば、人には意識があるとされているからです。これを有元利夫の画面に当てはめて考えてみると、さきほど申しましたように、空間構成上の関係として人と物を同列に扱うことは、関係とはみなしていないようです。だから、有元にとって人と物の一方的な関係は嫌がるようなものではない、と言えそうです。これに対して、人と人との関係はお互いに意識があるということから双方向的なものとなります。つまり、人は物との関係では、物を一方的に意味づけするだけのものでしたが、人との関係では相手から意味づけられる方向も加わります。人と人との関係は互いに意味づけ、意味づけられる関係です。だから、そこには対立もあれば共感もあれば、様々な様態が生まれるわけです。アイデンテティを自我同一性というように、他者との関係の中で人は自己を認識し確立させていくのは、まさにそういう関係です。有元利夫が嫌ったのは、おそらくこの人と人との関係ではないでしょうか。

Arimotopiero2  実際に、複数の人物が描かれているこの作品では、描かれている人物が独立した人格を有した存在とは見えません。というのも、手をつないでいる4人も、浮遊している1人も同じに描かれていて、かりにそれぞれが入れ替わっても気が付かないようなのです。例えば、ルネサンス以降の絵画で、人々を描いたような絵では、それぞれの人が別個の動きをし、画面の中で違った役割を与えられ、中にはその人々が織りなす関係が見るものにドラマを感じさせることもあります。有元が影響を受けたというピエロ・デ・ラ・フランチェスカの作品でも、たとえば『セニガリアの聖母』でもキリストを抱いたマリアと背後の2人女性が目は小さいのだけれど、それぞれの瞼の開き具合の差が明瞭に分るように描き分けられていて、さらに視線がどこを向いているかもはっきりとわかるので、それぞれの人が画面上で他の人にはない、その人の役割を振り当てられ、個としての存在感があるわけです。この個性的な存在を際立たせ、それらが織りなす関係がドラマとなって見る者に迫ってきます。このような要素は、この『ロンド』という作品からは排除されているようです。それぞれの人物の表情は見えず、視線を交わす様子もありません。手をつなぐ人物では手のつなぎ方も一様です。しかも、表情を表現できる顔や手を、敢えて見にくくするために小さく描いているようです。まるで、一人一人が独立した人といて描かれていないで、手をつないだ4人がまとまったひとつの物として描かれているみたいです。

それは、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカが、むしろ、そこから抜け出そうとした中世の絵画の特徴ではないかと私は思います。中世においては、絶対的存在である神によってコスモス(秩序、世界)がかたちづくられていたとして、人は神に対する関係を考えるようであった、とかなり単純化させた議論ですが、そこで描かれる絵画(もちろん中世の盛期には厳しい戒律によって偶像崇拝は禁止されていたわけですが)の人物は、個性とか固有の存在感といったものはないように見えます。それはなぜか。いくつかの要因が考えられるのでしょうけれど、そのひとつとして関係を人と人、あるいは人と物意外に神と人との関係で、いやそれだけで見たということがあるのではないか。このコスモスは神によるものとするならば、人も神によってつくられ、このコスモスに意味づけられている。いわば人と物との関係が神と人に置き換えられたようなものと言えます。複数の人がいても、その相互の関係よりもそれぞれの神との関係の方が優先される。神の前で人は、人の前での物とおなじようになる。人と人との関係のような葛藤も対立も生じない、ドラマがない代わりに静謐な世界があらわれる、というようなものです。だから、中世の絵画の人物は一様に画面のこちら側を向いていて、その後の絵画のように画面の中で互いを見合うようなことをしていない。それは、ひとつには画面からみれば向こう側にあたる神に、人々が向かっていることの表れで、画面の人物同士の関係は二の次にされているからでしょう。『ロンド』の5人の人物のうち3人は正面を向き、残りの2人は真横を向いているのは、互いを見合うことにより人と人との関係がつくられるのを避けているように見えるのは、結果として、今説明したような中世の絵画のもつ宗教的静謐さに似た、人間のドラマの生々しさから逃れることになっているように思います。

しかし、20世紀の日本で、有元には中世の絵画に求められたような信仰があったのか、あるいはそれが求められる状況にあったのか、それがないとしても、このような世界が選択されたのはどうしてなのか。そして、このような絵画の世界を魅力あるものとして捉えている私たちも、同じように絶対者である神と孤独に対峙しているか、というと、そんなことはありません。その理由を具体的に、こうだといえるものを私は持っていませんが。ひとつのヒントとして次のようなことが言えると思います。

それは、音楽のことです。同時代的というわけでもないですが、大雑把な流れとして、中世の教会で演奏された音楽は、旋律が歌うようなものは少なく、しかもそういう旋律の歌うような快さのようなことには重きがおかれず、従って作品を作る音楽家たちも独自の旋律を作ることは重視しになかったようです。だから、旋律は既にあるものを使いまわすことも日常茶飯だったようです。一方で、音楽的に力のある音楽家たちは、その旋律を題材にその一つを題材にポリフォニーの複雑で壮大な作品を構築しました。ジョスカン・デブレやラッススのような作曲家のポリフォニー音楽は複雑な構成でつくられていますが、使われているのは単純な一つの旋律です。これは、後のベートーヴェンやモーツァルトといったウィーン古典派の今でいうクラシック音楽の交響曲が力強い第1主題と対比的に優美な第2主題という二つの旋律を題材としたのに対して、単一の旋律を題材としたのは、先ほどの中世の絵画と同じように、絶対的で唯一の存在である神の秩序に類比的に単一の題材で対立も葛藤もない静謐な秩序を構築しているわけです。これに対して、今、少し言いましたが、クラシック音楽の交響曲は二つの旋律を対比的に取扱うことで、二つの旋律の間に関係が生じます。ことは、人と人との関係に類比的と見ることもできるのです。その二つの旋律が時に対立的に、時にその対立が解決されるような構造で音楽が作られます。そこで生まれるのが、人と人との関係から生まれるような緊張と融合の言わばドラマです。だから、ベートーヴェンの音楽からはジョスカン・デプレの静謐さ感じられないけれど、第9交響曲を聞き終わった後に言葉にできないような高揚した感動を覚えることがあるのです。しかし、現代では、このようなクラシック音楽は一部の好事家のものに限られ、体よく神棚に祭りあげられ、別のタイプの音楽が人々に聴かれているようです。例えば、ロックという種類の音楽はリフという単純な旋律、旋律とも言えないほどの短い単位の繰り返しが基本的な構造です。このリフがいかに聴く人々の印象に残るかということと、このリフを繰り返すことで、演奏のリズムを作り出すことで、聴く人々が感覚的に演奏に同化する、いわゆる乗りとかクルーヴといわれる現象です。これは、クラシック音楽の二つの旋律の関係のよるドラマから単一の旋律の繰り返しである中世の音楽に、一見戻ったような外観を呈しています。ただし、ここには絶対的な神の秩序は前提とされていません。だから、静謐さよりも、乗りによる力動的な感じがつよいのです。つまり、ロックではクラシック音楽の関係によるドラマが避けられ、単一の題材による中世音楽の構造に一見似ているようになりましたが、そこに違ったものが前提されている、というわけです。

それは、この有元利夫の『ロンド』にも同じことが言えるのではないかと思います。

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