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2012年4月 1日 (日)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(8)

11.対象化のアポリア

因果関係の例えば対象となる原因を認識するばあいには様々な偶然的条件に依存していると言える。そのため原因を特定する場合に必然であるとは言えない。だから確率的因果の考えを導くということに合理性があった。しかし、こうした因果関係への理論的追求を進めると、さらに根源的なアポリアがえぐり出される。対象なる原因を求める範囲をどこまで絞ることができるか、可能性のある原因候補のひとつひとつを完璧に斥けることができると言う根拠を我々は持っていない。そもそも、そうした可能性全てを検証する手立てがない。しかしないからといって、それらを完全に排除することはできない。これは要するに、因果関係を相関性に拠って推定しようとするときの、調査の単位となる相関項を対象化すると言うことには、実は、底なしの暗黒が潜在しているということである。これを「対象化のアポリア」と呼ぶ。そもそも、因果性に「必然性」が言い立てられない以上、当該の因果関係は成立しておらず、別の関係性が成立しているのだ、となる可能性が許容されているのである。そういう意味で、因果関係の探求は、本質的に、常に「対象化のアポリア」に陥る可能性に晒されている。

前項で、確率的相関性に手懸りを求めて追求していくことは無限背進に陥ることを指摘したが、そうした無限背進以前に、そもそも相関関係を調べる基となる特定の条件を同定すなわち対象化するに際して、なぜその条件が調査の対象になるのか、という点で「対象化のアポリア」という根源的な疑問が生じると言うことなのである。他の条件を対象にしてはなぜいけないか、と。

我々は、因果関係を認識する時、意識しようとなかろうと、強い束縛を受けている。その束縛を受けている。その束縛を離れて、全然別の条件を考慮して相関関係を調べ直したならば、いままで自明と思っていた因果関係が崩れ去る可能性が常にある。だとしたら、特定の区画だけの相関関係を調べて因果関係を推定しても、もっと大きな視点から調べ直したならば、その推定が崩れ去る可能性が常にあるという事態を指し示すのが「シンプソンのパラドックス」だ。実は、そうした崩壊の可能性は「シンプソンのパラドックス」以前から、経験的に因果関係を認識して行こうとする道筋に最初から抜きがたく巣食っていたと言えることが分かる。このことは逆に言うならば、こうした根源的事態を踏まえているにも拘らず、我々はぬけぬけと因果関係を認識していると思っているのならば、それは何か「神秘的」な作用によるとしか言いようがないのだということもなるだろう。「神秘化」と「無限化」という二つの応答の可能性は、もとから一つの道行きへと、「対象化のアポリア」という一つの謎へと向かっていたのである。

12.アポリアと日常性の振幅

我々は日常的に因果関係から出発し、推定しながら、生きている。それなしでは、一歩足を踏み出すことそえかなわない。一歩足を踏み出すことさえかなわない。一歩足を踏み出すことが、我々の身体の支えを提供する原因となり、次の動作の基盤を産み出す、という因果関係に我々は身を委ねているのである。これを単に「対象化のアポリア」に陥っていると、と記述するのは的を得ていない。ここで考慮すべきは、非必然的な程度説的な考え方ではないか。それは、どのような因果関係でも可能であるという「対象化のアポリア」に完全に陥っているわけでもなく、しかし、特定の因果関係を必然的な関係性として押さえ尽くしているというのでもなく、その中間の、この瞬間だけに限った形の、当座の因果的認識を我々は日常的に抱き、その都度改訂可能性を受け入れながらも、たぶん説得的だと思われる特定の因果的認識を自らピックアップしているのだ、と真相はなっているのではないか。言い換えるならば、因果関係というのは、究極的にはそれを認識する人が「これとこれが原因結果の関係だ」と決定するしかないものではありつつも、何でもかんでも構わないというのではなく、その人が生活している文脈での一定程度の公的な制限に規制されているのであり、おそらくそういうものとして少なくともその瞬間だけの実在性を保っているのだ、と思われる。実際、原因概念はもともと人と人との間で規範的な責任帰属の営みから発生してきたことを思い起こすとき、こうした理解仕方は的を得ていると思われる。

「神秘化」と「無限性」に巻き込まれ、そして規範的な実在性が確認されるという、以上のような議論の道行きは、私自身が因果性に関してこれまで展開してきた「因果的超越」から「制度的実在」へという道筋とぴったり呼応している。因果性の理解は、そうした理解実践からそれ自体を引き起こす、理解実践の外部の原因によるものであり、そしてそうした外部へと超越していくという仕組みは無限層にわたって組み込まれており、それゆえに我々は完璧な仕方で因果関係の理解へと到ることはないというのが「因果的超越」が意味する事態であった。そして、それにもかかわらず、ある瞬間のある文脈において、つまりはある制度的規制の下で、特定の因果的理解が抜き出され、それに実在性が付与されていくと言うのが「制度的実在」の意味するところであった。

「対象化のアポリア」が結局は、現在採用されている文脈に対する外部的視点をもちこんで相関項の対象化を考えていくときに出現する暗黒である限り、それは「因果的超越」という事態に対応することは間違いないし、にもかかわらず日常的な束縛の中で特定の因果関係に身を委ねて実生活を営むことが「制度的実在」に重なることも明白である。こうして、ベイジアン・ネットというきわめて学際的であり応用的な着想から問題を立ち上げても、因果性の問題は、アポリアと日常性の間の、すなわち「因果的超越」と「制度的実在」との間のダイナミックな振幅の位相へとやはり回帰して来る。これは文字通り瞬間ごとに入れ替わる「振幅」であり、必然性とか確実性とかいうものの対極をなす状態であるが、しかしそれが我々の因果関係理解の偽らざる実相・リアリティなのだということだ。こうして、「因果は確率的か」という問いに対して、答えの道筋が浮かび上がってくる。すなわち、確率ということで瞬間的かつダイナミックに確実性の度合いが振幅し変容していくことを意味し得るならば、因果関係は確率的に捉えなければならないのである、と。

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