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2012年4月15日 (日)

「難波田史男の15年」展(4)~コスモスへの旅

Nambataaruhi  個人的なことですが、若いころにまんが家になりたいと思っていました。それなりに、作品の真似事を書いて見たりしたこともありました。しかし、そういうことをしているうちに、同じような志向の人たちと付き合うようになりました。その中には、絵を描くことが日常になっているような人がいて、日常のごく普通の所作として、まるで会話をするように手近の紙片にペンや鉛筆で何の気負いもなくサッと描いてしまうのです。本人は特に意識しているわけではなく。私が、何を描いたのかと尋ねると、はじめて本人が描いていることに気づくというようなことがありました。それを見て、勝てないと思いました。そうことや、いろいろあって、現在はしがないサラリーマンですが。

難波田史男の作品を見ていると、そういう、まるで息をするように、自然と描いてしまうような、絵といつも一緒のような人であるような感じがします。それは、これだけの多数の作品を制作し得たということが何より、その現れであると思います。そして、高校を卒業して受けた美術教育に馴染めず悩んだようなことや不安をそのまき反映したドローイングを多数残しているというように、悩んでいたり不安でいたりすることをそのまま描くというこことに結びついているのです。その間に断絶はなく、懐疑的に陥ることはなかったのではないか、と思います。というのも、本人が気が付いているのかどうか分かりませんが、そういうドローイングや作品を見ていると、だんだん上手くなっているのが、追いかけられるのです。それが、よく分かるのが、ここで展示されている「ある日の幻想」(上図)という作品ではないでしょうか。

Nambatakure 全体の色調は決して明るくはないのだけど、本当に極細であるのに輪郭のはっきりした強靭な線が、細密に描き込まれたのが(ナスカの地上絵のような構図)がダイナミックな動きを生んでいる。このような線の描き方は、この前に展示されていた作品には、あまり見られなかったもので、まずはその線の濃淡や細太でさまざまにバリエーションづけされ、極細の線が稠密にひかれたところもあれば、太い線が単独でひかれ強調されたり、それらが時に交錯し、動きを生んでいる。その上に赤い細かな点が点描のように濃淡をつけてアクセントのように散りばめられている。それが時に鈍い赤の靄のようになって、画面全体が横にひろがり、そこに浮遊しているようだ。誰かが、パウル・クレーの「ゴルゴタへの序幕」(左図)を思い起こさせると仰っていましたが、靄が広がるバックに細かな線が交錯している様は似ていると思います。しかし、クレーには、難波田の作品あるような浮遊感とか横への空間的に拡がりは感じられません。難波田の作品の方が開いた感じがします。この作品は難波田の方法がだんだん手馴れて上手くなって行くのと同時に、ある客観性を獲得していった結果だと思います。それが、見ようによっては、この展示タイトルようにコスモス(宇宙)を感じさせるのかもしれません。

そして、横長の「不詳」という10点(一部を右図)を横につなげた作品は、さらに赤を基調とした色調で、「ある日の幻想」で縦横に交錯した様々な線が、ここでは線だけとどまらず、幾何学的な図形モチーフを作り出している。それらが、さまざまなに着色され、画面を浮遊している、時に黒く着色されたモチーフが画面にアクセントを与えているが、それらは緻密に構成されたというのではなくて、そういう緊張感は感じられないが、その緩やかな感じが、逆に作者が即興的に描いたことを想像させます。そして、「ある日の幻想」で効果的に用いられた赤の点描的な靄がここではポイントをしぼって効果的に用いられています。決して明るい色調ではないのですが、即興的な感じと共に愉悦感というのか、楽しげな感じ印象を受けるものとなっています。カンディンスキーのある種の幾何学的モチーフを配置した動きを感じさせる作品を思わせるものとなっています。しかし、独特の軽さとか愉悦感は難波田の作品の方により感じられるものになっています。

Nambatafusyou10_3 ここでの展示タイトル「コスモス」は宇宙的ということだけでなく、秩序という意味もあります。これらの作品を見ていると、その前の展示作品にあった要素が整理されて、客観性を獲得したことで、画面に一種の秩序のようなものを感じられるようになっています。秩序というとモノモノしいです。古代ギリシャでは宇宙をコスモスといいましたが、その反対の意味として、混沌の意味でカオスという言葉と対比的な用い方をしていました。これは、いろいろなことに応用されました。野蛮に対する文明とか、雑音に対して調律された音楽を指したりとか、さらには人体そのものを秩序みてミクロ・コスモスと呼んだりしました。そういう意味で、難波田史男の作品はコスモスを獲得したものとなっていると思います。しかし、それは決して安定した固まったものではないのです。「不詳」の10点の連作も決して、手放しで明るいという作品ではないのです。さきほど、古代ギリシャのコスモスの話をしましたが、ニーチェは『悲劇の誕生』の中で、そのようなギリシャの明るい明晰な古典的秩序の世界をアポロン的と称しましたが、その背後には暗くカオスに満ちたディオニソス的と称する深淵が隠されていて、ギリシャ的コスモスには、カオスとの鬩ぎ合いがその背後で為されていることを指摘しました。難波田の一見、軽快で愉悦感のある世界にも同じようなせめぎ合いのドラマが隠されているのです。

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