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2012年4月16日 (月)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(22)

5.「自由度」の概念

筆者が自由を論じるに当たっての第二の方針として、自由という概念は、自由か自由でないかという二者択一的な思考には決して馴染むものではなく、「どのくらい自由か」という意味での程度を許容する点である。すなわち、筆者は自由の程度説を受け入れるべきと考える。

例えば日常的な事例で言えば、運転免許証を持っている人の方が、そうでない人に比べて職業選択の自由の度合いが違う。これは内容的にはf-自由だが、同じ論点はp-自由にも当てはまる。例えば船が転覆し、緊急避難の状態で、ボートに乗るために他人を押しのけてしまったとしても、その場合、自由に行動を選択できる度合いが少ないので、その責任も少ないものになる。こうした議論の道筋から見えてくるのは、自由度の概念と、責任の程度、つまり、責任度とは一部重ね合わせて理解できるということだ。ただし、このような対応関係は、あくまで回顧的な自由度と責任度の間に成り立つに過ぎないのであり、展望的な自由度については成り立たない。責任は回顧的なものだからである。

こうした自由度の概念は、行為者に内在的に、正当性を跡付けることができる。すなわち、行為者の精神的なありように沿って自由の程度が語られることの日常性を容易に指摘できる。一般に責任能力という概念のもとで問題となる心神喪失や心神耗弱に関する程度が当然ある。この点からして、自由度の概念を導入する正当性が確証できる。こうした様々な自由度はp-自由に関してだけでなく、f-自由に関しても当てはまる。

自由の問題を論じるに当たって、自由度という程度を必ず考慮していくべきだというのが、筆者の第二の戦略といえる。最初の自由の多義性は、自由に程度があるという、この事情にも誘引されて生ずる。

6.決定論の拒絶

こうした観点に立つならば、手戦闘的な自由論の問題の立て方、すなわち自由と必然は両立するか、あるいは自由と決定論は両立するか、という問いかけはミスリーディングであると言わなければならない。というのも、こうした問いかけは、自由か自由でないかといった二者択一的な立場を導入しているからである。こうした問題の立て方は自由度という概念には馴染まない。

筆者が決定論を拒絶するのは、それが自由度を扱う態勢になっていないからだけでない。決定論という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、「すべては因果的に決定されている」とする考え方で、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」ということになる。こうした理解不能の断定を含意しているからだ。ここには、過去の事象がすでに確定しているという過去理解から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまう事態が潜んでいる。これが決定論的誤謬だ。

7.犯罪行動学の生命科学的条件

自由の問題、ひいては責任の問題を、生命現象を媒介して理解していこうとする観点、すわわち、適応度、遺伝子、脳状態などによって「自由」な状態を判別したり、分析したり、といった発想で見ていく。

一つには、進化論的観点がある。コンラート・ローレンツは、進化理論的観点から、人間同士が攻撃し合ったり闘争し合ったりすることが、自然の条件の下で、淘汰を促進し、その淘汰のおかげで人間という種が保たれてきたという趣旨の議論を展開している。簡単に言ってしまえば、人間がいわば自由意思によって他者に危害を与えた時、場合によっては殺害に及んだ時、そうした自由意思をさらに根底から突き動かす原因となっているのは、進化理論的な意味での適応度なのだ、ということである。

こうした生命科学的条件に犯罪行動の原因を位置づけようとする捉え方は、現代まで綿々と続いている。精緻な議論が展開されてはいるが、生命科学的な条件に暴力行動の原因を求めるという発想の点では変わりない。こうした方向性の見方に従うと、本人の自由意思によって犯罪などを犯しても、その根底には、意志に先立ってすでに成立していた生物的な条件が因果的に作用していたのだという理解が姿を現してくる。

8.リベットの実験

9.拒否する自由

リベットは実験から、「自発的な行為につながるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現れるずっと前に脳で無意識的に起動する。これは、自由意思というものがあるとしても、自由意思が自発的な行為を起動しているのではないことを意味する」こうした結論は、我々の自由の観念に対する常識に著しく反する。我々は通常、自由に身体を動かしたり行動したりできると見なしているし、そうした行動は自分の意志によって起動されていると常識的に捉えている。しかし、リベットはそうした常識は脳状態についての事実に反すると論じている。リベットは、自由意思の意義を、意志プロセスの起動ではなく、行為遂行の誘導とか、行為遂行の拒否・中断というところに求める。

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