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2012年4月 2日 (月)

ジャンソン・ポロック展(4)~成熟期 革新のとき

抽象表現主義のムーブメントが盛り上がり、ポロックもその中で、充実した仕事を展開していた頃です。この展覧会の目玉でもある「インディアンレッドの地の壁面」が代表作として堂々と展示されています。慥かに、ポロックの抽象表現主義の作品は大画面で圧倒されるようにプレッシャーを感じて眺めるのが、ひとつの代表的な味わい方なのでしょう。この作品は、そのような観方に適う大作です。ポーリングとかドリッピングといったポロックに独特の技法が全面的に展開されて、その画面からは覇気とか迫力のようなものが溢れているように感じられます。それは画面を埋め尽くす絵の具の飛び散りや流れが画面から飛び出してしまうようであり、一度埋め尽くされた、その上にさらに積み重ねられ重層的な厚みあるところでは、大きな塊のようになって迫ってくるようでもあります。まずは、とにかく実物の大きさに圧倒され、画面の上に流れた絵の具が固まりのた打ち回るように凹凸をつくりゴチャゴチャでコンガラガッテカオス状態のようになっている迫力を体感してみてほしいと思います。そこで、普通ではない、非日常性のようなものを感じられるかが、ポロックの作品に親しめるか否かの境目になるのではないかと思います。

少し離れて、遠くから眺めてみると絵の具を流してできた様々な線が勝かみ合って収拾がつかなくなって、さらにそれが折り重なってというのが遠景で塊のようになって、まるで巨大な繭玉のようです。それは、例えば赤ん坊にクレヨンと画用紙を与えて、クレヨンを画用紙にこすると線を書けることを教えてあげると、よれを喜んで、絵を描くという以前にクレヨンで軌跡を線として残すこと自体を楽しみ、手当たり次第に線を引いているうちに、いつのまにか画用紙が線だらけになって、一面がクレヨンで塗られたようになってしまった、というようなものに似ています。それが、大画面でこちらに迫るようになってくると、異様な感じがしてくる。そういう幼児の遊戯性に通じるようなところと異様なところが混在している、というのがポロックのこの時期の作品の大きな魅力ではないかと思います。実際、抽象絵画としてメジャーな画家たちの作品、例えば、カンディンスキーやモンドリアン、マレーヴィチ、ロスコといった人々の緊張感あふれるような作品には見られないものです。

そこで、私には、この作品がイマイチ残念だったのは、あまりにも絡み重ねすぎて、個々の要素を打ち消し合うようになっている点です。当初、この技法を限定的に用いていた時には、個々の絵の具の軌跡を追いかけることができて、そのユニークな動きと複数の流れの絡まりが一様でなく、そのバリエーションを見ているだけで飽きないものでした。そして、限定的に扱うことで地の部分との関係や画面全体の中で、どこに絵の具を流すかとか、色合いなどでポロックという画家の意外なセンスの良さに驚いたりといった魅力が後退してしまうという結果にもなりました。

それはまた、オールオーバーというポーリングを全面展開したポロック全盛時の作品に内在する共通の課題ではなかったか、と私には思えます。というのも、絵の具を流したり、飛ばしたりする作業を画面に一様に施したという作品について、ポロックがやった場合と、他の人が真似をしてやった場合とで、明確な個性の違いがあるのでしょうか。それ以上に作品それぞれに一見でわかる違いがあるのでしょうか。このような作品が1つか2つくらいならば希少価値ということで個性が際立つかもしれませんが、沢山作成されたら、規格品の大量生産と同じようなものになってしまう可能性が大きいと思います。実際、ここで展示されている作品が、例えば「インディアンレッドの地の壁面」と「ナンバー11」が同じ大きさだったら、私は作品の違いを分別できないかもしれません。これが、当初のような限定的な使用に留まっていれば、個々の作品の違いや、ポロックならではのセンスを個性として、他の作品に対して差別化が容易にできたはずです。私が子供の頃、画用紙に水で溶いた水彩絵の具を垂らして、紙の上の絵の具の滴に対して横から息を吹きつけて絵の具を流す「吹き絵」という遊びをやったことがあります。ポロックのポーリングの技法というのは、それと同じようなものでしょう。「吹き絵」は遊びの世界で、それを作品として残すようなものでは、本来ありません。そのようなものに、従来とは全く違った意味づけをして、新たな価値を見出したのはポロックの凄い点ではあると思います。それは、しかし、その時点で終わってしまって、その後の展開を考えるというのは、大変困難だったのでしょう。

しかし、だからと言って、展開したオールオーバーの技法から、後になって限定的な使用に戻すとなると、ホロックは後退したと噂されるのが落ちでしょう。私には、その辺り事情が、ポロックをして新たな展開に踏み切らせた原因が潜んでいるように思えるのです。実際のところ、「インディアンレッドの地の壁面」の迫力には圧倒されるのですが、飽きやすくなってしまっています。

ポロックは自身の手で、オーバーオールの画面の上に敢えて幅広の帯を描いたり、画面を切り抜いておおきな空白を作ったりと工夫していますが、所詮は小手先だけのもので、根本的な解決には至っていません。

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