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2012年4月17日 (火)

「難波田史男の15年」展(6)~失われた太陽

Nambatataiyousanka ここからは、難波田史男の様々な要素をそれぞれ展示していたようで、1968年に集中的に描かれた「太陽」をモチーフにしたシリーズが展示されていました。といっても、作品を見ただけでは、太陽というモチーフが、私には分りません。タイトルの一部に太陽の語があるので、かろうじてそうと分かる程度のものです。それは、しかし、あまりこだわる必要はないと思います。「太陽の讃歌」は原色の鮮やかさが一連の難波田の作品とは異質に見えます。

一般に抽象絵画というのは難解なもの、考えてしまうものというようなイメージが未だに残っていると思います。しかし、難波田史男の作品にはそういう感じがしません。水彩画というせいもあるのでしょうが、難波田史男の作品は、敢えてそう断らなければ、とりたてて抽象画であるとして鑑賞するということは、しないのではないかと思います。そういえば、何だか現実にはないようなフニャフニャした不思議な形がフワフワ画面を漂っているというような捉え方になるのでしょうか。それにしても、子供が描いたような無垢で素朴な、どこか懐かしいような、今風で言えば癒されるような感じを抱く、という、敢えて言えば‘下手うま’のイラストに近い捉え方をされるのではないか、と思います。それは、父親の難波田龍起もそうですが、抽象画と言えばすぐに思い出すような代表的な画家たち、カンディンスキー、クレー、モンドリアン、ポロックと言った人たちの画面は厳密に構成された人工的につくられたもので、緊張感の高いところから、どこか襟を正して勉強するというようなところが、どうしてもあります。これに対して、難波田史男の作品からはそういう作為が感じにくく、厳密なバランスとか緊張感のようなものは感じられません。自然体という事が似合うようなリラックスした感じが漂っているように感じられるのです。(ただし、そこには劇的な緊張感があるのですが)また、サイズが大きくなく、水彩画の淡い色彩ということもあるでしょう。難波田の作品を、普通の一般的な家庭の居間や玄関に飾ってあっても、違和感を起こさせるような強い主張もなく、そこにさりげなく収まってしまうのではないかと思います。むしろ、美術館で改まって向き合うというよりは、部屋に飾って時折眺めるというような方が、似合うような印象を受けます。もっと具体的な特徴を色々細かく見ていきたいと思っていたのですが、難波田史男の作品は、そういう対象ではないようなきがしてきました。

ただ、難波田史男の作品は、単に親しみ易いというだけのものにと止まらず、親しみ易いという、そのすぐ近くに先が見通せないほどの深淵が顔をのぞかせていて、通り一遍に見るだけでは味わえ尽くせないものを秘めていることも確かです。

というわけで、このあとの6~9については、ひとつひとつ書いていくのは、どうかと思います。後日、気が向いたら、追加で書き加えることがあるかもしれません。

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