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2012年4月 2日 (月)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(10)

7.決定論の不思議

我々は、それを「決定論」という考え方として意識しないとしても、こうした考え方を日常的に信奉して行動しているという。このように決定論の原理を人々が指示する根拠は何なのだろうか。

筆者は次のような二点を主張する。第一に、決定論が過去から未来に至るすべてのことが決定されているという命題だとするならば、それは、我々生身の人間が知り得る範囲を定義的に越えた事柄についての断言・空言であって、文字通りに捉えた場合、完全にナンセンスあるいは無根拠な命題であること、そして第二に、にもかかわらず我々が決定論を信奉してしまうように思われるカラクリは、過去の「確定性」あるいは「不変性」を全時間へと拡張してしまうという点にあるということ、このふたつである。第二の点については、我々が過去の出来事を現前化させ、過去のある時点で確定したもの見做し、その後のその出来事を現在を決定させたものと捉え返して現在へと復帰させる。そしてこの過程は過去の観点からすれば未来に関わっているので、未来に関わる決定論が限定的に現われ、そこから一般的な決定論が虚構的に導かれると論じ。それを「ブーメラン決定論」と呼ぶ。そして、この事態こそ「決定論的誤謬」に他ならないのである

8.過去性と個体性

前項の主張が的を得ているならば、一般的な決定論は過去性に引き摺られたある種の錯覚である。その点で、遺伝子決定論と構造を同じくしている。というよりむしろ、遺伝子決定論は決定論の一つなので、一般的な決定論の特質を継承している、と言うべきであろう。言い方を換えるならば、遺伝子決定論も含めて、決定論的思考と言うのは、過去性という時制に根本的に縛られている、ということである。そして実は、こうした時制束縛性というあり方こそ、物理現象と差別化された意味での生命現象に馴染む理解様式なのである。その意味で、生命現象には宿命的に決定論的思考がまとわりついてしまうのだと、あるいは「決定論的誤謬」に本来的に陥る構造になっているのだと、そう言えるかもしれない。

ここで筆者は、物理現象と違って、生命現象においてはいわば定義的に現象の「単位」つまり同一的「個体」が確定されていると言う点を指摘する。生命は一つ一つが区分けされていて、それを分割することはできない。生物は細胞やDNAという単位へ分割することはできるが、それらの構成要素は、生物の個体になり得る力を持つものであったとしても、それ自体は生物個体ではない。それに対して、物理現象の場合、同一的な個体概念は確保され得ない。例えば一つの塊の鉱物といったとしても、それは便宜上のことで、部分的にかけたり、温度や気圧が変化すれば、少なくともミクロの次元では大きく相違が生じてきてしまい、別の物質であると言いうる。この生命の確定的な個体性というのは、生命の宿命としての「死」という事態から遡及的に規定されるのである。ある生命に死が訪れた時、その生命の個体性・単体性が露わとなる。今死んでしまったこれが、ひとつの命だったのだ、と。

事態がそのようだとするならば、生命現象に関して決定論的思考が入り込みやすい理由が分ってくる。決定論と言うのは過去性に束縛されて生じる錯覚である。しかるに、基本的に、生命は「死」という既に生じた出来事によって個体化されるという機制のもとで理解されるのだと言うなら、そこに決定論と混ざり合う素地があることは疑いようがない。同じことはさしあたりは人間に特化されるが、我々人間社会では、人間一人一人の個体性が決定的に重大な前提であるが、そうした個体性は、言語的には、「誰」と言う疑問詞に対応的に姿を現す。しかるに、「誰」に対する応答は、様々なありよう、つまり名前や属性や性質などを帰属することによって為される。こうした「誰」概念の帰属に基づく構造が際立って顕在化するのは、「責任」帰属の場合である。そして、まさしく「責任」帰属とは過去への遡及的営みに他ならない。そして、これらのことは、生命現象が決定論を呼び込む態勢のもとにあることを指し示すのである。実際、「死」は、すでに生じてしまったならば、不可逆的であり決定的だし、「責任」もまた、起こってしまったことの原因であって、何らかの仕方で補償や穴埋めはできるとしても、当の事象自体は取り返しのつかないという確定性・決定性の装いにくるまれている。

逆に、こうした意味での生命現象と対比される限りでの物理現象、そしてそれを表現する法則性は基本的に可逆的である。純粋な物理現象には「死」や「責任」は無縁だからである。そして物理現象は、決定論的ではなく、非決定論的に生起するものであり、不確定性そして確率性を現象自体に包含している。

9.偶然性への道

過去の確定性から決定論に向かうのは錯覚・誤謬であって、原理的に無根拠な主張である。そこで、決定論とは異なるあり方、偶然性が介入する非決定論的な道筋である。物理現象ではこの点が成り立っている。では生命現象はどうか。生命現象も偶然的であって、非決定論が入り込むものだろうか。この点は生命現象も偶然的であって、非決定論が入り込めるか。この点では、遺伝子決定論が誤りであることは自明であるから容易に確認できるし、跡付けることもできる。例えば、精子や卵子といった「配偶子」は減数分裂によって創り出されるが、卵子の場合は2度の減数分裂により4つの娘細胞ができるが、そのうち1つだけが卵子なるときに、4つのうちどれが卵子となるかは偶然である。さらに娘細胞の23本の染色体は父方由来と母方由来の懇請であるが、どの染色体が父方か母方かは偶然である。このほかにも偶然的なものがあって、1つの個体が作る配偶子は、一個一個まったく異なり、同一のものなどない。すなわち人間について言えば、「私が作る一つ一つの配偶子のなかの、私の両親の遺伝子の混合具合は、偶然の産物である」

また、生命現象の偶然性については、「氏と育ち」の「育ち」に関わる論点からも確認することができる。生命現象を理解する時に「進化理論」を抜きにすることはできない。そして進化理論の基本概念である「適応」とは、生物個体や生物集団のもつ何らかの特徴が、特定の環境のなかで生きぬき、繁殖していくのにどのくらい適しているか、ということを示す概念である。これは「育ち」として表わされる環境と相関している。換言すれば、そのような環境との相関性の中で生命現象は理解されているのである。この「適応」は確率的な性向であって決定論的なものではない。ということはつまり、生命現象は偶然的なものとしても非決定論的に捉えられているということである。

10.決定論的偶然性

11.客観的偶然性としての傾向性

(省略)

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