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2012年4月 6日 (金)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(13)

19.自然選択の低確率の結果

しかし、このように適応度の規定を確率化して洗練させても、あるいはむしろそのように洗練することによってこそ、深刻な問題に直面することになる。最大のポイントは、適応度を、子孫の実数ではなく、確率的に解する場合、その値は環境と相対的にしか決めることができないという点にある。

自然選択と言っても、それを特徴づける適応度が確率的に規定される以上、選択の結果には一定のレンジがあり、確率的な分布としてしかそれは表現され得ない。だとすると、低い確率が帰せられている事態が実際に生じることも、自然選択という概念の中にもとから見こされているはずである。しかし、そのような場合、単なる偶然ではなく、適応度に基づく変化である、という自然選択の特徴は薄まってしまう。かくして、単なる偶然による変化、つまりは遺伝的浮動との境界はぼかされ自然選択といて線的浮動とは、単なる程度の違いであって、概念的な区別ではないことが暴露される。ここで、ビーティは、真に探求されるべき問題は、自然選択化遺伝的浮動かという「白か黒か」といったたぐいの問題ではなく、これこれに変化する偶然性の度合いは具体的にどのくらいかという「進化生物学における確率論的問題」を追求することだ、と結論付ける。これこそがビーティが進化理論に突き付けた哲学的主張で、「連続説」と呼ばれる。

20.決定論への揺れ戻し

確率はのっぺりと量的に連続した、グラデーションをなす数値で構成されているわけで、その間に、自然選択と遺伝的浮動というような質的で概念的な区別を設けるのは、恣意的にしない限り、難しいからである。そのため、自然選択と言う概念に特別の重要性を与えると言うダーウィニズムの立場を堅持したいならば、ビーティの示した連続説を乗り越え、なんらかの非連続性を提出しなければならない。

そこで、ミルスタインの連続説への対応は、次の二点からなる。(1)自然選択と遺伝的浮動の区別を論じる際には、「過程」と「結果」とを区別することが肝心で、選択と浮動は結果としては区別できないが、過程において区別できる、(2)そうした過程における区別のポイントは「因果的連関」に基づくのであって、選択は因果的役割を果たしているのに対して、浮動にはそうした働きはない。この二点である。(1)の点に関して、ミルスタインは、結果から過程を区分する時私が意味しているのは、時間を通じて生じる種類の変化(過程)と、ある一つの時点において生じる最終状態(結果)と言う区別である。換言するならば、長いスパンで見た時に見越される変化と、特定の時点にのみ視点を限ったときの変化、と言う区別である。この区別を導入すると。ビーティの連続説は、とりわけ「自然選択の低確率の結果」の議論は、差別的/無差別的に抽出という「過程」に関わる話に基づいていながら、ある時点で期待されていなかった「結果」を持ち出しており、「過程」と「結果」の混同を犯している、診断される。このミルスタインの議論のキーワードは、明らかに「因果的連関」である。とはいえ、ミルスタインはここでの自然選択の偶然性はあくまで自然選択理論の持つ偶然性であって、自然選択過程が決定論的かそれとも偶然的かについては不可知であると留保する。間違いなく、ミルスタインの議論の根底には、「因果的連関」の概念が持つ決定論への傾斜がある。因果性ということで、単なる偶然性ではない何か、が思い描かれている。因果的連関は長いスパンのもとで顕在化すると考えられている。

21.因果的超越のアポリア

こうした論の方向には注意すべき問題性が宿っていると筆者は指摘する。自然選択の中に因果的連関を読み込むこと自体は、ミルステインに限らず一般的なことである。自然選択の結果として淡われた形質が当該有機体の生存と繁殖成功に対してどのように因果的に貢献するか、ということについての主張をなすことなのである。この際、厳密な言葉づかいをするならば、「適応度」が因果的貢献に直ちにつねに結びつくわけではなく、「適応度」は因果的貢献を果たす形質と単に相関しているだけの場合もある。「因果的連関」と「相関」とは正確には区別されなければならない。相関する二項が、別の共通原因の共通結果である場合があるからである。いずれにせよ、自然選択を構成している因果的貢献とか因果的連関と言うのは、それ自体が確率的なものであるということ、つまりは「確率的因果」が念頭に置かれていること、と言う点だ。ということは、因果的連関を持ち込んでも、偶然性を排除することなくも、決定論的な見方へと至る道は最初から封鎖されているはずである。

ビーティがランダム浮動とも自然選択とも確定しがたいとしたのに対して、ミルスタインは長いスパンで見れば自然選択の一過程と論じたが、こうした議論はひとつの形質を取り出して単独に扱うという、いわば思考実験としての想定といえる。このような形質の独立性に対しては、因果関係を探るという場面で言えば、例えば、断続的に、あるいは隔世世代的に、他の形質と影響を及ぼし合う形質がある、という前提を取ることはなぜ最初から排除されるのか、というような疑問を投げかけることができる。このような因果的連関の可能性をアプリオリに否定することはできない。つまり、ミルステインの論点には、因果関係についての「対象化のアポリア」が暴きだした事態と対応している。このような、「対象化のアポリア」と通底する理論的可能性を前にした時、因果的連関を持ち込むことで単なる偶然性との差別化をはかり、願わくば決定論的なフレーバーを秘かに持ち込み、そのことで自然選択と遺伝的浮動とを峻別する、と言う論の立て方は表層的にする。

22.抽出エラーによる逸脱

(省略)

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