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2012年4月10日 (火)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(17)

6.双対性

「細評価論」が古典論理的な推論を限定的にしか許容しないという性質を持っている。「モードゥス・ポネンス」に対する対応がそれを例証している。「細評価論」では古典論理直ケル妥当な付加が成立しない。

「細評価論」では各々の文の真理値評価はそれぞれの精確化に相対的なので、「A」を真とする精確化と、「B」を真とする精確化とが同一の精確化であるとは限らず、よって「A」と「B」とが真として前提されても、そこから「A&B」を導くことはできない。同じ事情が「モードゥス・ポネンス」の場合にも当てはまっていたのである。「A」と「A⊃B」が真として前提されても、それぞれを真とする精確化が同じとは限らないので、「A⊃B」を真とする精確化が「A」を偽と「B」を偽とする精確化がある場合、「モードゥス・ポネンス」は妥当でなくなる。「モードゥス・ポネンス」が妥当となるのは、あくまでも二つの前提が同一の精確化において真とされている場合だけなのである。古典論理において成り立っているとされる「付加価値」や「モードゥス・ポネンス」などは語義曖昧の誤謬を犯しているのであり、「細評価論」はそうした誤謬に陥ることのない論理システムなのだされる。「細評価論」による「ソライティーズ・パラドックス」の解決も、実のところこうした語義曖昧を暴露し整理する、という仕方で提示されたものに他ならない。

このような「細評価論」が古典論理的な論理的真理を保存しないということは「重評価論」にも当てはまる。双方は、互いに異なる真理概念を提示しているのだが、それはどちらも古典論理からの意味論的逸脱を示している。

7.存在的な曖昧性

こうした「重評価論」と「細評価論」との双対的事態を受けて、「ソライティーズ・パラドックス」に直面し、それを解消する有力な方策として「重評価論」と「細評価論」という二つのどちらを選択すべきか。双対的事態に照らすならば、どちらをよりよい解決策として抜き出すことはできない。そして、こうした事態に陥るのは曖昧性の問題と「ソライティーズ・パラドックス」を意味論的に捉えるという方向性それ自体が間違っていると指摘する議論もある。だとすると、曖昧性の問題は、むしろ世界に属することで当て、言語に属するものではない。存在論的ということになる。

筆者は「重評価論」と「細評価論」には決定的な相違があり、それは行為論的相違と呼ぶ。「重評価論」は行為として遂行し得ない真理値評価に基づく、その意味でもともとから純粋に意味論的な理論にとどまる内在的本性を持っているのに対して、「細評価論」は行為として遂行しうる真理値評価に基づいているという点である。「重評価論」は、すべての精確化を重ね合わせて真理値評価を行う考え方だが、精確化は無限数あり得るので、実際には本当に重評価することはできない。よって、理念的にのみ「超真理」の概念は導入されるに過ぎないのであり、したがってそれは世界の事実とは言いにくい。それに対して、「細評価論」は細分されたどれかの精確化にのみ照らして真理値評価をすればよいのだから、実際に遂行可能であり、少なくともそうした行為出来事として世界の事実に対応する。こうした視点から曖昧性の問題として「ソライティーズ・パラドックス」を考えていくという道筋は、現に矛盾が発生しているということを含意する。これが存在的曖昧性という問題である。

8.「真理値グラット」と確率の文法

存在的曖昧性という問題圏において「真理値グラット」を捉えようとした場合、さしあたり現に矛盾が発生していると認めることから議論を起こすのだとしたら、「真理値グラット」の考え方は少なくとも手懸りとしては本質的だ。「真理値グラット」は定義的に矛盾を認める考え方だからである。

筆者は矛盾とは未決の課題であることから、存在的曖昧性の問題を論じる際に、矛盾を主題的に導き入れることには問題ないと言う。この場合、「ソライティーズ・パラドックス」を実際に発生しているリアリティとして捉えて、そこで現に生じている矛盾を確率の用語に回収する、という方策が「真理値グラッド」の考え方をこの問題に正当に導入するのに有効ではないかと言う。「ソライティーズ・パラドックス」は、自然的及び人為的どちらの意味も含めた意味で、世界の実在的事実であり、その意味で存在的であり、それゆえ意味論的解明のみならず、あるいはそれに先立って、その因果的メカニズムについての記述的解明が為される必要がある。そのように考えた時、境界線はあるけれど気づいていないと論じる戦略や、「真理値ギャップ」アプローチに比べて、「真理値グラッド」アプローチはかなり有効な方策となる。なぜなら、境界線はあるけれど気づいていないとする見方は、文字通り我々の「気づき」の認識の事実には即しておらず、世界の実在的事実の技術的解明には寄与しないし、「真理値ギャップ」もまた、どっちつかずの、いわば懐疑的な未決状態の意であり、そのままでは、因果的効力を持たないのに対して、「真理値グラット」アプローチは、真であると断定し同時に偽であると断定する、という確定状態であり、それは明らかに因果的効力を持つと言えるからである。

こうした「真理値グラット」を、意味論的ではなく存在的に捉える時、確率の考え方は有力な基盤となり得る。なぜなら、確率とはもともともからして、ある主張とその否定との両方にそれなりの可能性を許容するという文法であるとみなせるからである。

9.傾向性確率と矛盾

このような議論はフィールドによって展開されたが、「真理値グラット」が確率と結びつく第一の例は確かになるけれど、同時にそれは、不完全許容性と矛盾許容性との双対関係に基づく議論であり、その意味で「重評価論」つまりは「真理値ギャップ」との双対性を前提にする議論である点に注意したい。しかし、「ソライティーズ・パラドックス」で発生する矛盾が実在的な事象であり、因果的働きをなしうる実際的効力を持つ、そして「真理値ギャップ」はそうした効力を持っていないが「真理値グラット」にはそうした効力がある、というコントラストあるいは非対称性を見届けることが筆者の捉え方である限り、「真理値グラット」と「真理値ギャップ」との双対性を文字通りに承認する議論をそのまま追認することはできない。

例えば、「摂氏13.5度の気温」という「寒い」の境界線事例に対して、「摂氏13.5度の気温は寒い」という事態が成立している確率を問題とすることによって、「真理値グラット」アプローチに沿った仕方で、しかしリアリティに関わる存在的曖昧性という問題圏のなかで、矛盾を導入することができると筆者は言う。

ここで言及されている確率については、存在的曖昧性を主題化するというこれまでの議論の方向性からして、客観的なものでなければならず、傾向性にとしての確率を念頭に置いている。

「ソライティーズ・パラドックス」の推論遂行のプロセスを確率概念に依拠しながら記述的に分析することで「存在的」曖昧性の問題に立ち向かう、という議論の方向性が確立して来る。そしてそうしたプロセスの確率概念の働きは、一つ一つの推論を順次「因果的」に結び付けてゆくことにあり、したがって、ここで主題となる因果性は第2章で主題化したような確率的因果であることが浮かび上がってくるだろう。

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