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2012年4月 7日 (土)

野田余示展「絵画のかたち/絵画の姿」

2012年3月22日(木)国立新美術館

Nodatnran セミナーがあって都心に出かけた。終わったのが午後5時前。折角、都心にでる数少ない機会なので。何か展覧会でもと思って、探してみたら、平日の美術館というのは遅くても6時、早いところは5時に閉館になってしまう。それでは、会社員は見るなということなのか、とちょっと思った。たまたま、国立新美術館は閉館が6時だけれど、入場は5時30分まで間に合うので、思いついて行ってみた。国立新美術館には、これまで行ったことがなかったので、美術展だけでなく、美術館も見に行こう。と思ったけれど、いくつかの企画展を併行してやっていたり、初めてなので勝手がわからず、思わず時間がかかってしまい、出展数も多かったので、肝心の作品は駆け足で眺めることになってしまった。

たいていの場合、とくに予習するわけではないけれど、だいたいのイメージのようなものを抱いて、美術展に臨むのだけど、今回は、何の予備知識も用意もなく、行き当たりばったりできてしまったせいか。展示されている作品との接点が掴めずにいた。結局、それが最後まで続くことになってしまった。

抽象画ということになるのだろう。大画面のキャンバスに一定のバターンで板切れなどを貼り付け立体感を出などの工夫が、なされアクリルで着色された作品が、WORKSの題名で並べられている。「分からない」という呟きが喉元まで出掛かっている。

展覧会パンフレットを見ると、絵画の本質を問い続けてきた、ありました。それは、私がここに展示されている作品に接点を見つけることができず、じっと居心地の悪い思いをしてきたことと関係があるかもしれません。ここで、誤解して欲しくないのですが、このようなことを書いているのは、全く私の側の事情によるものなので、展示されている野田さんの作品の価値を貶めるような気持ちは全くないことは、ご了解願います。というのも、相前後して見たジャクスン・ポロック展での、ポロックの作品は「絵画」としてすんなり見ることができたのに対して、野田さんの作品は、「絵画」として何かしら落ち着きの悪さを感じたためです。具体的にどこがどうと指摘するのか、これから考えていきたいと思いますが。その前に、展覧パンフにあったような「絵画の本質を問い続け」るということを野田さんが行っているのが真実だとしたら、そこには、野田さん自身が「絵画」というものとしっくり折り合いがついていないのではないか、と言うことを感じました。

「絵画の本質」を問うということは、絵画というものは何か、これがないと絵画と言うものが成り立たない、そのこれを見つけ、本当に必要なのかということを再検証することだと思います。でも、普通はそのようなことをすることはないでしょう。卑近な例で考えてみましょう。「人生とは何か」という普遍的な問がありますが、往々にして、このような問いを問うのは、若者と言われる、これから社会生活に本格的に参加する直前の人間が、未だ実際に経験もしていないのに、社会生活に対する期待と不安の中で問われることが一般的です。社会生活を営んでいる、いわゆる大人は、そういう問いを問いかけることは、一般にはありません。もし、大人でそういう問いを真剣に問うような人は、例えば人生に挫折したというような、それまでの生き方を否定されるような経験から人生の意味を問われることを強いられたような人々ではないかと思います。別の例でいれば、今、サッカーの試合に出てゴールを入れた人は、「何のために、サッカーをやっているのか」というような疑問は湧いてこないでしょうけれど、スランプ状態にあってレギュラーメンバーから外され、ベンチで仲間の活躍している姿を焦りの中で見ている人には、そういう疑問が湧いてきているかもしれません。つまり、本質を問うということが行われるのは、自分自身と問われる対象との間に何か障害が生じたような場合に、痛切に浮かび上がってくるものの、普段は、そういう問いは隠されていて問われることはないと言うことです。

そこで、この野田さんがずっと「絵画の本質」を問い続けてきたということは、「絵画」との間に何かの障害があるのではないか、と思いました。それで、展示されている作品を見て回って気が付いたことは、作品がほとんど売れてないのではないか、ということです。展覧会のラベルというのは通常、展示番号、作品名、素材(キャンバスとか油彩というようなこと)、製作年代、とどこに所蔵されているか、と言うことが一般的に記入されていますが、ほとんどの作品で所蔵先が空白になっていました。数多くの作品が展示されていましたが、そのほとんどです。作品が売れていないということは、人々にひろく受け入れられていないことにもなります。(両者は絶対的なイコールではないですが)実際のところ、野田さんの作品が売れているのかどうかというのは、私には、分らないので、これは不正確で、無責任な物言いかもしれません。しかし、展示されているのは、一般の家の室内には飾れない大きな作品で、公共的な場所や美術館のようなところにしか飾るスペースが考えられないで、私が思うような、公共的な場所で求められるようなニーズを満たしているとは思えません。

だから、野田さんが問うている「絵画の本質」を問うということは、野田さん自身の表現の可能性を広げるという面以外にも、作品を受け入れる側にも、従来の常識的な絵画観から抜け出せば、ここで展示されている作品をもっと受け入れられる(売れる)のではないか、という見る側への問いかけがあるように思えます。これは、芸術の世界の住人ではない、卑俗な世界で、毎日、生活のために足掻いている人間の一つの感じ方です。

それか、「絵画の本質」を問うということに対してですが、それに対する作品を通しての答えというのか、その行為に対しての疑問として、「なぜ絵画でなければならないか」が分らないということです。一般的に絵画でやられないこと、例えば板等を画面に貼り付けて立体的にしたりして、絵画の可能性を広げるといっても、別にそれが敢えて絵画であるする必要がどこにあるのか、例えば、日本には昔から彩色した浮彫という工芸があります。日光東照宮に行けば、素晴らしいものが沢山見られます。野田さんの作品も、そういうものとして扱えばいいことで、何も絵画であることにしがみつく必要がどこにあるのか。作品を見る限りでは、私にはそれが分かりませんでした。また、キャンバスに切り抜いたキャンバスを貼り付けるような行為にしても、貼り絵とか切り絵というものと何が違うのか。むしろ、そういうことを意識して行っていることを敢えて絵画の可能性を開くということで、絵画であることから離れたいという志向性を感じたのです。

そして、一番重要なことだと私には思うのですが、「絵画の本質」を問うときの本質というのは、これがないと絵画が絵画ではなくなってしまう、というものが本質であると思うのですが、そのようなこれだけは絵画に絶対なくてはならない、というものが展示されている作品からは分らなかったのでした。つまり、可能性を問う原点にあるものです。抽象というのは引っ張り出すとか抜き出すという意味合いがあります。つまり、具体的な個々のものから、個々の違いを超越して共通しているものを抽出して、それを本質とする行為です。その結果現われたのが抽象というものです。単に形がないとか言うのではなくて、個々の形という違いを超越しているから形よりも本質的なものを表わしていると考えていいはずです。それが、野田さんの作品からは感じることができなかった。

それで、最初のところに戻りますが、私の率直な「分らない」という感想は、実は、「これは絵画ではない」という意味合いのものです。展覧会パンフには、分らないという前に感じてみましょうとガイドが書かれていましたが、それは、作品が「絵画」であるという前提というのか、描く人と鑑賞する人が共通のフィールドに立った上で、初めて感じるという行為が有効性を発揮するわけで、その共通のフィールドに立てない人にとっては、独りよがりにしか映りません。

印刷された展覧会パンフレットには作品を写真印刷してものが数点載せられていますが、そこで見られる形態や羅列パターン等は、どちらかといえば私にも、受け入れやすいはずのものだっただけに、実物をみたら、そうではなかった、というのが非常に残念でした。

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