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2012年4月 5日 (木)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(12)

15.自然選択という語法

ダーウィンに始まる「自然選択」の概念は、有益な変異は保存され、有害な変異は廃棄されるという原理を言う。この場合の「選択」の主体は自然ということになる。ダーウィンは、単にある変化が生じているだけなのに、それをあえて「選ぶ」というように表現している。

これはひとつの例といえるが、自然現象を記述する時、ふたつの仕方があるように思われる。直接的な記述と、意図する主体を擬制する記述である。水や風や岩について記述する時は大抵は直接的記述になり、人間の社会的行為について記述する時にはいわば定義的に意図的主体の記述になる。しかし、生物になると両方が混じり合う。これは間違いなく、生命概念の両義性に起因する事態といえる。生命概念は、自然現象でありながら、人為現象へとときどき振れゆく。そのような「ゆらぎ」を概念自体として持っているのである。自然選択の概念も、生命現象の説明機能を果たすものとして導入されている限り、そうしたゆらぎを本質的に受け継いでいる。

16.自然選択の確率的性格

自然選択を観察する場合には、一定の時間間隔のなかでの「変化」のプロセスを見る。例えば、一つの遺伝子型や対立遺伝子が一方的に増大して、他のものが消滅していくような変化のプロセスを見た時、自然選択が生じていると捉える。この時、自然選択が起きているか否かは、例えば「成長比」という統計的にしか算定できない数値を用いる。これは、世代を経るごとに、ある割合で遺伝子Aが生じる確率が増えてくるという捉え方に他ならない。

ということは自然選択は確率的であって、そこには偶然性のプロセスが読み込まれているということだ。

17.遺伝的浮動という偶然性

エンドラーは自然選択を精緻で包括的に規定した。彼によれば、ある集団が次のabcの三つの条件が存在していることを満たし、その上1と2の事態が認められるという過程、それが自然選択に他ならないという。

a、何らかの性質や形質についての個体間の相違、すなわち「変異」

b、その形質と、後輩能力・受胎能力・繁殖力・多産性・生存力との間の一貫した関係性、すなわち「適応感度」

c、その形質に関する、両親と子孫との間で一貫した関係性、しかも共通の環境に由来する結果とは少なくとも部分的に独立の関係性、すなわち「遺伝」

1.年齢上の諸階級や生活史の諸段階において、個体発生から期待されるレベルを越えて、形質頻度分布が相違していく

2.その集団が平衡状態でないならば、その集団におけるすべての子孫の形質分布は、条件acだけの場合に期待されるレベルを越えて、すべての親系列の形質分布と予測の範囲内で異なりゆく

エンドラーによれば、遺伝的浮動とは、世代間で生じうる対立遺伝子のランダムな標本抽出過程のことであり、それの必要十分条件は、自然選択と次の二つの点で異なっている。

(1)条件bが定義的に不在である

(2)有効集団のサイズが、標本抽出でのエラーが有意であることを確実にするのに十分なほど小さくなければならない。

もちろん、自然選択と遺伝的浮動との両方が同時に作用することもあり得る。そして「進化」は、自然選択、遺伝的浮動、あるいはその両者の結果として生じうるが、自然選択や遺伝的浮動が必ず進化に結びつくとは限らないし、突然変異や移住や減数分裂などの、自然選択とも遺伝的浮動とも異なる要因によって進化が発生することもある、という。

ここで筆者が注目しているのは次の三点である。

(ⅰ)エンドラーの包括的な規定においても、集団遺伝学的な規定と同様に、自然選択は、「形質頻度分布」という言い方のもと、確率統計的に理解されていること、

(ⅱ)遺伝的浮動もまた、ランダムな標本抽出として、確率的に、つまりは偶然的な作用として、位置づけられていること、

(ⅲ)自然選択と遺伝的浮動という二つの主たる進化の動因の相違は、「適応度」の差が認められるかどうか、という点に求められていること、

18.適応度の概念

自然選択と遺伝的浮動の区別は、両者とも本質的に偶然性を伴っているので、言ってみれば偶然性についての区別である。換言すれば、両者の区別基準は「適応度」である。ここで、ジョン・ビーティの「偶然性と自然選択」において進化理論における偶然性概念の意義を検討している。

ビーティは無作為抽出のモデルを自然界に適用すると、「親の無差別な抽出」として理解できるとする。ここで「親の抽出」とは、どの個体が次の世代の親になり、各親がどれだけの数の子孫を持つのかを決定する過程のことである。それが「無差別な」と言われるのは、ある世代の個体間に認められる身体的相違が子孫を残すことに関して無関係であるときである。例えば山火事によって「親の抽出」が行われた場合、そうした抽出は、各個体の生存や繁殖の能力とは無関係なので、無差別な抽出である。こうした無差別な過程を経ながら集団が維持されていくならば、その集団の遺伝子型頻度は世代から世代へと「浮動する」と言われている。これに対して、自然選択は、無差別ではない抽出、つまり「抽出の差別的形式」であって、とりわけそれは「適応度差」に基づく差別である。ということは、自然選択と遺伝的浮動のどちらを重視するかという論争は、「適応度差による抽出」と「適応度差によらない抽出」のどちらに重きを置くかという論争なのである。

では果たして適応度とは何か。ビーティによれば、ある有機体の実際の繁殖成功の測度ということになる。つまり、実際に産んだ子孫の数がすなわち適応度だ、という捉え方である。これでは、いかなる「親の抽出」も差別的であって、自然選択だ、ということになってしまう。そのため、子孫の実際数ではない形で適応度を定義する道筋が探られる。こうして「身体的に見て産み出すよう傾向づけられている子孫数」というように適応度を規定することができる。つまり、首尾一貫するためには、自然選択の概念の核をなす適応度の概念の中に、傾向性という形での確率あるいは偶然性を組み込まなければならないということである。換言すれば、自然選択の確率的性格は適応度のこうしたあり方に起因している、ということである。

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