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2012年4月20日 (金)

吉岡英美「韓国工業化と半導体産業 世界市場におけるサムスン電子の発展」(3)

第3章 技術キャッチアップのメカニズム

第1節 半導体技術の分類

第2節 半導体企業と製造装置企業の分業関係の進展

1970年代までの半導体企業はプロセス技術の開発に関わる全ての領域を完全に掌握していた。要素技術は製造装置により具体化されるため、その開発は製造装置開発と密接に結びついている。1980年代初めまでは、専ら半導体企業が要素技術の原理となる物理・化学モデルのアイデアを出していたため、要素技術の開発はもちろん製造装置の設計まで半導体企業の側で行われていた。新しい要素技術を開発し、それを装置化しても、その装置を用いて量産を始めるためには製造装置を使いこなすノウハウが必要で、このノウハウとは端的に言えば、最適にプロセス条件の設定である。このプロセス条件は歩留まりや品質に直接かかわるものであり、いわば半導体企業の競争力を決定づける要素である。従って、1970年代まで半導体企業の競争力は自社の持つ要素技術やノウハウの社外流出を回避するため、製造装置企業には装置搬入以外のことに一切触れさせなかった。

ところが1980年代以降、DRAMの世代で言えば64K/256K世代から、半導体企業と共同で製造装置の評価や研究開発を行うという形で、製造装置企業が要素技術の開発に関わり始めた。さらに、1990年代に入ると最先端の製造装置も製造装置企業がある程度までプロセス条件を最適化して一定水準の処理結果(プロセス性)を保証したうえで、つまり製造装置を使いこなすための基本的なノウハウを含めて製造装置を販売するようになった、一方、1990年代以降、半導体企業から製造装置企業へのプロセス・エンジニアや装置設計エンジニアの転職が増えており、エンジニアの移動によっても要素技術のシフトが進んだ。

その結果、2000年代以降、製造装置企業が要素技術を組み合わせてモジュールの形で製造装置を提供する方向に向かいつつある。このように要素技術開発における製造装置企業の役割がますます大きくなるにつれて、半導体企業の側では極端な場合、個別の要素技術やプロセス条件の最適化は製造装置企業に任せて、自らは個別の製造装置を組み合わせる際の最適化、すなわちインテグレーション技術に注力するも可能と言われるようになった。

第3節 半導体企業から製造装置企業への要素技術のシフト

半導体の製造技術の面では1960年代までに基本的な技術体系が確立し、その後も微細化を推進するために個々の要素技術では大きな変革が求められた。ところが1980年代初めには個別の要素技術に、現在でも根幹となる基本的な技術方式が登場して以来、利用される物理学の法則・化学的現象という点で根本的な変化は起こっていない。そのため、個々の要素技術のレベルアップを図り製造装置を進化させることが要素技術の開発課題となった。半導体企業では他社に先駆けて次世代製品を開発し市場に投入することが、より重要になり、製品開発のスピードアップが不可欠になり、開発過程を迅速化する手段として、製造装置の評価を手始めに製造装置企業に関与させ、共同作業を通じて要素技術に関する情報が伝えられるようになった。製造装置企業は、半導体企業と共同で製造装置の改造を繰り返す中で、プロセス条件に関する情報を入手し要素技術の原理を理解するとともに、次第に改善の提案さえ行うようになった。ただし、このような製造装置企業は一部の大手に限られていた。その結果、個別の製造装置市場では寡占化が進んだ。そして、1990年代に入ると半導体企業は基本的なプロセス条件の最適化さえも製造装置企業に依拠できるようになった。

このような半導体企業が、要素技術の開発に製造装置企業を関与させるようになった他の理由は、半導体企業が設計技術やインテグレーション技術の開発に注力しようとしたためである。この背景には、1980年代半ば以降の電子機器部門と半導体部門の生き残り戦略が関係していた。電子機器部門は、当時の円高不況の中で、海外企業との差別化を図るため、電子機器の心臓部である半導体に赤価値を凝縮しようとした。これを契機に半導体部門はでは電は機器部門から要求される品種が膨大になった。一方半導体部門ではDRAMに偏重からDRAMを中心に据えながらもマイコンやASICにも事業を広げようとしていた。このように他の開発領域に経営資源を振り向けることが戦略的にとられていた。

さらに、DRAMの景気対策として、潜在的な余剰人員を抱え込まないために製造装置の自動化を志向した。人間がマニュアルを見ながら行っていた操作を製造装置に自動化させるには、開発段階からの製造装置企業との協力が不可欠であった。こうした自動化の過程でエンジニアやオペレータに体化されていたノウハウの装置化が進んだ。自動化なより製造装置が高度化・複雑化すると、半導体企業の側だけで製造装置のメンテナンスを行うことが困難になり、製造装置企業がメンテナンスやサポートも提供するようになった。

第4節 DRAM市場の競争に与えた影響

1980年代までの半導体企業は、チップの高集積化に必要な要素技術を開発し、それが体化された製造装置を使いこなすためのノウハウを確立するという一連の過程を自ら行うことなくして半導体製品を開発・生産することはできなかった。しかし。1980年代以降、半導体企業の要請を受けて製造装置企業が要素技術開発に加わることとなった結果、基本的なプロセス技術に関する情報が、参考資料と言う形で製造装置企業から流れる結果となった。

このことは、国内の技術基盤のないままに参入しようとする後発企業にとっては、自ら要素技術のアイディアを創出せずとも既存の製造装置を調達すれば製造に必要な技術・ノウハウの多くを獲得できるようになったことを意味している。そのうえ、個別の製造装置市場で寡占化が進んだということは、調達すべき製造装置の選択肢がかなりの程度まで絞り込まれていることを示している。ただし、共同開発された製造装置は、通常、他の半導体企業へのマーケティングが一定期間制限されるため、後発企業には一世代遅れの陳腐化した製造装置が販売されるのが一般的であった・それでも一世代前の製造装置はデバッグを経て製造装置の完成度がかなり高まっていることから、先行企業で同じ製造装置が導入された時点と比べて量産ラインの立ち上げ期間が短縮された。この結果、独自技術を持たない後発企業でも旧世代品を中心にDRAM市場に参入できるようになった。

さらに、1990年代になると、最先端の製造装置でも後発企業は、それを使いこなすノウハウを含めて入手することが可能になった。これは半導体不況とバブル崩壊の影響で半導体企業が製造装置企業のマーケティング活動を制約できなくなったことが原因といえる。

一方では、DRAM市場における競争の焦点も、需要の牽引役が汎用コンピュータからパソコンに交代することにより、寡占構造が崩れ品質データを基準にDRAM供給者が少数のDRAM需要者に絞り込まれる状況が一変し、それまで日本企業の成長を支えてきた前提条件が揺らぐこととなった。このような中で、製造装置企業が要素技術を保有することになり、半導体企業は必要な要素技術のすべてを社内で一から開発するよりも、製造装置企業が既に持っている要素技術を利用できるなら既存の製造装置を購入した方が得策だということなる。そのため、半導体企業の間での技術能力の差が縮小し、日本企業の差別化が図れなくなっていた。さらに、製造装置企業が基本的なプロセス条件を提示してくれるようになったため、半導体企業の競争においてノウハウの高さが決め手でなくなり、性能と生産性の高い製造装置をタイミングよく導入することがより重要になっていった。こうしてDRAM市場では、1990年代以降、コスト競争が前面に現われることとなった。

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