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2012年4月 1日 (日)

ジャクソン・ポロック展(3)~形成期 モダンアートへの参入

Pollock_composition_with_pouring_2 初期で展示されていた「無題 蛇の仮面のある作品」の翌年、ポロックはポーリングという手法を初めて用います。しかし、後年とは違い、限定的で慎重な姿勢でした。

「ポーリングのある構成Ⅱ」という作品を見ると、初期の具象の作品から一気に飛躍して抽象的な作品世界に入ったことが分かります。ポロックというのは、こうだという先入観からでしょうか、私には初期の具象的な作品よりも、こっちの方が遥かに親しみ易い。実際に、展示の順路で初期の作品を見てきて、この作品に辿り着いた時、吹っ切れたような爽やかさを感じたものでした。私には、題材という何かを描くという“WHAT”の要素の軛から解放されて、ポロックが伸び伸びと描くという行為を楽しんでいるように見えます。というのも、色彩の使い方が、初期の色を混ぜすぎて鈍く重苦しい色調であったり、原色を無理して使って塗り絵のような画面になっていたのと比べて、この作品では、全体としてはポロックの色調はグレーかに黒にかけての色が基調になるのでしょうけれど、そこに明るい青が上手く入り込むようになって、重苦しさを感じさせないトーンになっているのです。何物と特定できない形状で色分けされたある画面が、それだけである程度のまとまりを見せているところに、試行的なポーリングの手法で、画面上を絵の具が流れて、筆で描くことができない独特な線がアクセントとして画面を引き締めている。黒、赤、白の流れが独立しているように所々で溜めをつくりつつ不規則な屈折を繰り返す。下地に描かれた画面では、筆の塗り後の線が残り、その線との対照を起こしている。展覧会で説明では試行的となっていますが、後年の最盛期の作品に比べて、この作品は一つ一つの画面を流れる線が単純で独立しているので、それぞれの流れを単独のものとして見ることができます。そのせいか、却ってひとつひとつの線が力強く、多彩さが際立って見える結果となっているのです。

Pollockmoon これ以外にも「月の器」という作品でも、ポーリングの使用は限られていますが、全体的な黒地に絵の具が流れていくさまは、ポロックという画家の黒色に対するセンスの良さを感じさせます。この後、晩年に向けて、ポロックの作品は余計な要素を削ぎ落としていきますが、色彩の点でも、この時点のセンスのいい色彩もやがて放棄されていきますが、黒だけは残され、最後には黒のグラデーションという水墨画とか前衛書道に近いものになっていきます。

この展覧会ではポロックの作品を年代順に展示してしますが、早計かもしれませんが、それを追いかけていくと、ポロックの作品というのは、徐々に余計な要素を削ぎ落としていったように思えるのです。それは、ポロックの作品の本質が徐々に明らかになってくるように見えるのです。そして、ここで削ぎ落とされたのは何かを描くという“WHAT”の要素です。一般的に絵画というのは、肖像画とか風景画というように何かを描いているというものでしょう。初期の作品では、ポロックも家族や労働、あるいはシャーマニズムのシンボルなどを題材に描いています。その場合というのは、現実の世界だったり、想像の世界にしても、絵画の外側にまずお手本があって、それを写すというのが、絵画というものだということになると思います。だから、お手本があるということがメインで、絵画というのはそれを写す、あるいは伝えるツールということになるわけです。しかし、絵画とはそれだけではないでしょう。たとえばね幼児に絵を描かせると、何かを写すことなど、そっちのけで線を引くこと自体を遊んで楽しんでいる。その結果、絵ができてしまったというのもある。ポロックの作品というのは、それに近いのではないか、というのが、私がポロックの作品を見ていて思うことです。だから、カンディンスキーが具象画から出発して内面を表していくプロセスで徐々にものの外形を放棄していったのは、外形で表せない題材を写そうとしたからと思わせるところがあります。その理由として言えるのは、カンディンスキーは描いているのが明白だからです。ところが、ポロックは絵の具を流して、結果をそれに委ねてしまっている。そういう意味で、描かれた結果よりも、描いているプロセスの方がポロックには大切なのではないか、と思うのです。それは、陳腐な喩えかもしれませんが、音楽の抽象性を思い起こさせます。音楽で悲しさを表すことはできませんが、聞く人を悲しませることはできます。つまり、悲しさという題材をあらわすことはできない。しかし、いかに悲しませるかということはできるのです。音楽には内容というものが、もともとありません。あるのは、それを聞いた人をある状態にさせるような効果なのです。しかし、音楽を聴いている人は、だからといって、内容がないから無意味とは思わないでしょう。音楽から与えられる効果によって、何がしかの気分になって、聞く人なりに意味づけするわけです。そして、音楽において聴く人に効果を与えるのは、音楽の構成している音を対比的に扱ったり、複数の音をひとまとめのユニットにしたりする、いうなれば、音の構成によって担われる部分が大きいと思います。例えば、3つ音によるユニットを反復させることにより、乗り(リズム)を生み出すとか。ポロックの作品をそういう目でみてみると、画面上を流れる絵の具の軌跡を追いかけてみると、似たような感じを得ることができます。その流れは何本も絡み合い、交差し、所々で節目をつくっている。その線を構成要素とした関係の動きというのは、何が描かれているかというようなこととは全く関係がありません。却って、そういうものが画面にあると、お互いに邪魔に感じられるのではないかと思います。想像してみて下さい。家族を描いた上に絵の具を流せば、描かれた家族が見えにくくなってしまいます。

そういう意味で、私には何かを描くことから解放された、このことを以って、ポロックの作品の始まりと思っています。

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