吉岡英美「韓国工業化と半導体産業 世界市場におけるサムスン電子の発展」(6)
第5章 標準化活動を通じた先行優位の確立
第1節 DRAMの開発競争の展開
1990年代以降のDRAM分野では、所与のルール(標準)のもとで外部にブラックボックスになっているDRAM内部の工程技術革新(微細化を通じた高集積化)に加えて、インターフェイスのルールそのものの変更を迫る製品技術革新が新たな利益の源泉となった。他方、DRAMの高集積化製品では次世代製品が旧来の製品に置き換わる世代交代があるが、高速化製品でも世代交代が起こる。ただし、高速化製品の世代交代は、次世代製品が可視的な高集積化とは異なり、次に進むべき製品が開発段階で定まっているわけではない。そこで、将来について予測不可能な製品開発競争が現れたことは、DRAM市場における企業間競争に対して、1990年代以降にDRAM市場で先行主利益を獲得するには、予測不可能な状況の中で次世代製品として主流を占めそうなDRAMアーキテクチャに照準を定め、いち早くその市場を押さえることが決定的な鍵を握るようになった。
第2節 標準化活動を通じた先行者利益の獲得
汎用品であるDRAMは、供給企業が違っても代替可能な互換性が保証された製品である。ゆえに、新しいDRAMアーキテクチャが提案されると、それが製品化され市場に導入される3~4年ほど前の段階で、技術仕様に関して業界標準が確立される。この業界標準が決定される過程ではコンピュータの他の部品の供給企業との間で仕様を摺り合わせることが必要で、その合意形成はJEDECという業界団体で行われる。サムスン電子は1990年代以降、JEDECの標準化活動の場で積極的に発言するようになった。そこで、当初は自社の支持した方式を業界標準にすることはできなかったが、JEDECの審議で標準仕様に関する技術の方向を掴むことができるようになり、製品開発面でのキャッチアップに貢献した。そして、1990年代後半、次世代DRAMのアーキテクチャとして、サムスン電子の推していたDDRが標準仕様となり、2000年以降シェアを急拡大させることができた。
JEDECで標準仕様が最終的に決定するまでには、半年から1年以上の時間を要する。このことを前提として自社の提案した技術が標準になることを想定して製品設計に着手し、その技術が業界標準になれば、半年ほど他社に先行することができる。この半年の差によって大手のユーザー企業に最も早く次世代製品を出荷することで競合他社との競争で決定的に有利になる。
サムスン電子が日本企業との競争に勝ってDDRを標準仕様にすることができた原因を考えてみる。当時の日本企業は、次世代DRAMはコンピュータの上位機種で最初に採用された後、下位のパソコンで採用されるという展開を踏まえて開発を進めていた。そのため、重視した主要ユーザーは汎用コンピュータやサーバー企業だった。さらに日本企業は自社でもサーバー部門を抱えていたため、自社サーバーに適合しやすいものを開発していた。これに対して、サムスン電子は、そのいう社内事情の制約はなく、インテルの動向を注視し、インテル製MPUのバージョンアップに合わせた目標を設定していた。つまり、販売数量の多いパソコン向けに照準を定めて開発を進めていた。このように、サムスン電子は日本企業とは異なるユーザーをターゲットにすることにより、自らの技術をDDR標準とすることに成功した。
このようにサムスン電子の成長は、単に大きなリスクを厭わない拡張志向のみに性格づけられるものではなく、むしろ不確定な状況にあって投入資源を確実に経済成果に結び付けるための行動に支えられたものと理解される。
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