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2012年4月14日 (土)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(21)

第5章 自由は生命現象か─時間差と自由度の導入

1.自由をめぐる錯綜

自由というものは恐ろしく多義的であり、自由を論じる領域の両義性をももたらしている。

前章末でも述べたとおり、自由とは大まかに言って「束縛されていない」ということだ、というように要約することできる。このような要約は、束縛という概念が因果性を暗示する点からして、自由の概念と因果性の問題との深いつながりを示唆するする意味で、大いに意義はある。さらに言えば、自由は、定義的に、記述的な意義だけでは尽くせない、規範的含意を有しているとも要約することができる。

しかし、そのように自由を大まかに要約できると言っても、まず、どういう意味で束縛されていないのかはっきりしない。規範性についても同様だ。

2.p-自由とf-自由

このような状況に対して筆者は二つの方針をもって臨むとしている。第一は、自由について論じる時、過去時制における自由の記述にまつわる問題圏(p-自由)と、現在時制そして未来時制における自由の記述にまつわる問題圏(f-自由)を区別する、要するに、自由という現象に対して時制差による二種を区別する、という方針である。

こうした時制差による二区分を設けることの根拠の一つは、p-自由は責任の概念あるいは少なくとも行為帰属の働きと本質的に結びついていて、そこには事実問題と規範との両方が要素として絡み合っているのに対して、f-自由は、責任概念との結合はなく、本当に事実問題としてのf-自由が成り立っていることは不可知で、基本的に規範の問題という対比が認められる。

また、それぞれの自由はパラドキシカルな特性を持つ。p-自由は定義的に過去の行為や出来事に関わっているが故に、当然ながら、事実として現時点においてはp-自由が帰属される事柄を操作することはできない。また、f-自由については、事実問題として、それが成り立っているかどうかは定義的に検証不能である。

3.二つの条件文

この根源的な問いに対して、筆者は二つのタイプの解答を提示する。

第一に、自由の問題は、事実記述的な側面だけではなく、規範的な側面を導入することによって再構成すべき問題である。したがって仮に事実として自由が成立していないという論点を認めたてしても、それだけでは自由は幻想であるであることは導けない。

第二に、p-自由とf-自由のいずれに関しても、それらは、現実世界の事実事象にシンプルに対応するだけの条件なし文ではなく、条件文の形式で定式化されなければならない、したがって、現実世界の事実に対応していないことが自由の不成立の根拠にはならない。

こうした検討を通じて、p-自由とf-自由の区別のもう一つの重要な根拠が露わとなってくる。さきのp-自由は責任帰属に関わるがf-自由はそうでないという差異から、二つの自由の区分は「反事実的条件文」と「直説法条件文」との相違にも対応している。

4.遺脱・責任そして権利

p-自由は、定義的に「あなたがこれこれの行為をなしたとき、あなたは自由だった」というような自由のことであることから、当該行為に関して何らかの価値的な問題性が発生したので、それが自由かどうかが問われている、という背景事情を含意している。いってみるならば、p-自由は「逸脱起因性」を持っているのである。すなわち、p-自由は、日常的であって価値的な問題性が発生しないような行為、たとえば日常のありふれた行為は、自由という問題を論じる対象にはならない。ここには、確かに、どこがp-自由を適用できるのかどうかの境界線となるのか、という点で曖昧性がある。けれども、逸脱起因性の構造には紛れがない。そうした価値的問題性と絡むことが、p-自由が規範的な文脈の中で立ち現れて来るという事情と即応している。同時に、p-自由は、同時に、すでに事実として生じた行為や出来事に関わるという意味で、事実やデータを素材として持ってもいる。つまり、p-自由は、事実的な側面と規範的な側面とのハイブリッドとして成り立っている自由なのである。

これに対して、f-自由とは、「あなたは自由にどこにでも行けます」と言われるときに現われる自由であり、事実として本当になしうるのかどうかは分からない。このf-自由は、p-自由とは根本的に違って、責任概念との連関性を持たないし、決着した事実やデータなどをその本体として有してもいない。その際、f-自由の主体は、帰属先は何なりか。p-自由の場合は、帰属の対象としての行為あるいは行為者が自由の帰属主体であった。これに対してf-自由の場合は、許可あるいは可能性という意味での規範性のもとで、そうした規範を実行できる能力を持つ人格が自由の帰属先となる。そうした能力の本体は、権利の概念と融合していくはずだ。つまりは、p-自由がいわゆる責任基底的倫理を志向しているのに対して、f-自由は権利規定的倫理へと融合し、ひいては究極的には徳倫理へと結びつきうる。

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