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2012年4月 1日 (日)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(9)

第3章 生命現象は偶然的か─自然選択と遺伝的行動

1.生命現象の両義性

前章では、因果関係の認識を通じて、我々の認識を本来的に取り囲む不確実性を追跡した。そして、浮かび上がってきたのが、認識や知識というものがダイナミックに振幅していくさまであった。しかるに、そうしたありさまは、我々の生命体としての存在身分、刻一刻と変化してゆくありよう、それに重なり合って来るのではないか。これが、前章の末尾で示した通りだった。この見通しに沿って、ここでは、生命現象に即しながら、不確実性の源泉を探ってみたい。この場合、そうした不確実性は、認識の主体としてのあり方の揺れ動きであると同時に、生命現象を認識対象とする場合の不安定性という、二重の意義の間をも振幅していくことになるだろう。

筆者は、自然営為という伝統的区別の確認から始める。実際のところ「自然と人為」は我々の概念ネットワークの中で世界の森羅万象を切り分け、理解を達成するための区別として有効に働いている。しかし、このような多くの区別は、有効であったとしても絶対的なものではなく、区別基準は可変的だし意味も曖昧でもある。とりわけこの「自然と営為」のような大まかな区別ではそうである。自然と人為のどちらにも分類されるべきか迷うような、境界線事例などいくらでもあげることができる。例えば、最も典型的であり総括的なものとして「生命」あるいは生命現象をあげることができる。

2.DNAと遺伝子

ここでは、生命現象に関して、遺伝子決定論について検討した上で、進化理論における「自然選択」と「遺伝的浮動」という対を題材にして、「決定性」と「偶然性」という対比について考えていきたい。今日の常識では、生物あるいは生命現象は「DNA」や「遺伝子」の概念によって理解されている。まず「DNA」については、生物を構成する化合物の多くの割合は「水」が占めるが、それ以外の分子のほとんどは炭素を含む化合物、すなわち「有機化合物」である。生物を構成する主な有機化合物は、タンパク質、脂質、糖質、核酸の四種類である。このうち、核酸の中に遺伝子情報を担う「DNA」、つまり生物の構造や働きを決める設計図が配置されている。次に「遺伝子」だが、この定義は生物学者によって十人十色であるが、大まかな共通認識としては「遺伝子とは、高分子DNA分子のなかの一定の機能的部分である」というように表現できる。

3.遺伝子による語り

日常的な文脈において、老眼のような身体や健康の状態については、事実上、「遺伝」あるいは「遺伝子」の概念が強力な説明原理として日常的に機能している。糖尿病、肥満といったものも多かれ少なかれ遺伝概念によって理解されているだけでなく、慎重や髪の色等のような身体の外形的特徴の多くも遺伝概念によって説明される。このような日常的な記述や把握の中で「遺伝」あるいは「遺伝子」ということで意味されているのは、両親や先祖から受け継いだ形質という意味と、生まれつきの生物的条件という意味の二つあるように思われる。

こうした遺伝子概念による語りは決して必要十分な根拠を示す説明を志向するものではない。そうした語りはせいぜい、ある事象が生じるための必要条件が遺伝(子)的条件に求められる、という趣旨であって、遺伝(子)的条件が必ずその事象が発生することを決定づける十分な要因であることを意味しているわけではない。

4.氏と育ち

前項は当然のことで、「氏と育ち」という言葉がそのことを端的に物語っている。人を含めて生物というものは、「氏」つまり遺伝的条件のもとで、何らかの「育ち」つまり自然的・社会的環境の中で成長して来るものなのであって、どちらか一方だけが生物の有り様の決定要因となるのではない、ということである。遺伝(子)というのは、そんなに絶対的な決定要素ではないのである。

しかし、時折人々は遺伝(子)による語りに過剰に依存し、遺伝(子)を過度に決定的な要因として捉えがちになってしまう。ここに「遺伝子決定論」あるすは「遺伝子本質主義」という、明らかに誤った見方が現われる。「遺伝決定論」とは、生物に関するすべてのことはその生物の遺伝子によってあらかじめ決定されている、とするいわば自然主義的な主張である。余談だが「血統」に神聖かつ重要な意義を認めるように思考形式も、遺伝子決定論と根底的には同様な見方に由来するのではないか。人間の有り様や位置づけは生物的な条件によって絶対的に決定されている、という発想が流れており、そのような捉え方が何らかの権威の表象と結びつくことによって、単なる事実認識を超えた価値づけまでも発生してきたように思われる。このような「遺伝子決定論」をなぜ、人々は信奉してしまうのだろうか。

5.生物に関する決定論

冷静に事実を見つめるならば、おそらく、遺伝子決定論を文字通り信奉する人は存在しないだろう。そのような不合理性が自明であるにもかかわらず、ある種の文脈においてそうした不合理を一次的に忘却したり、あるは著しく過剰に遺伝子の決定力を強調するような事態に陥る人々がいる、という日常的そして学問的事実がある。

心理学研究の蓄積においては、人間は、データや経験から何かを判断したり意思決定したりする際、ある種の特徴、たちえば、「代表性」、「利用可能性」、「固着性」といった特徴に引っ張られて、偏った認識に至ってしまう。こうした性質は「認知的バイアス」とか「確証バイアス」などと総称される。

しかし、実はこうした事態はデータで示す提示仕方、強調点の置き方、に大きく依存する。

6.過去性・不確実性・自己言及性

遺伝子決定論が説得力を持ってしまう要因について、心理学的な分節とは異なる見地から三つの論点を筆者は指摘する。第一に、生物が生まれた時に既に備えている既定の条件に注目して、それが遺伝概念あるいは遺伝子的条件によってしか説明されないことに思い至るとき、我々は、遺伝子が全てを決定づけるという見方へと容易なに飛躍しがちである、という点である。ここで、筆者が着目するのは、すでに生まれた人が既定の条件として持っている性質である。そこには機能的推論は介在せず、どう説明するのか、ということだけが問題となっている。言い方を変えれば、生物について理解する時に、既定のという意味での「過去性」に注意が向けられるということである。過去に注意を向けるということ、これこそが、生命現象を理解するに際して、強力に我々を誘導する傾向性である。

第二に、既定の条件ではなく、形態や能力の可能性に関して、ある特定の否定的な特徴づけが遺伝的要因によって説明できることが極めて確からしい時、ある種のすり替えが介入し、肯定的な特徴づけも含めて全般的にも生物の有り様を遺伝あるいは遺伝子概念によって決定論的に説明できるという見方へと入り込むのではないか、という点も指摘できる。

第三に経済や社会の制度的要請によって遺伝子決定論が刷り込まれてしまう、という様相を指摘できる。例えば、バイオテクノロジー産業の利潤追求にとって、生物のすべてのありようは遺伝子によって決定されている、という遺伝子決定論の考え方は大変に都合がいいので、健康や能力に関わる研究や商品を報知・宣伝する際に、そうした考え方を意識的にか無意識的にか大衆に刷り込むという傾斜が生じてしまう。このような経済的利潤を追求していく、あるいは制度や体制を保持し擁護していく、という人々の行動志向それ自体が、遺伝子による説明を許容し得ると言うことである。このような事態を「自己言及」と呼ぶ。

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