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2012年4月12日 (木)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(19)

13.多数問題と1001匹猫

だとすれば、もともと言語的曖昧性に関して提起されていた「ソライティーズ・パラドックス」が存在的曖昧性に発生して来ることは想像に難くない。けれども、存在的曖昧性、つまりは曖昧な対象の問題は、言語的曖昧性の問題とそっくりまったく同じというわけではない。存在的曖昧性に固有の問題も提起されてきたのである。ここで二つのパズルを取り上げて考える。

一つ目のパズルは、アンガーが提起した「多数問題」である。アンガーは「雲」という曖昧な対象の例からこのパズルを導入する。雲は、遠くから見ると輪郭がはっきりしているように見える場合でも、近づいて見ればそれは小さな水滴の集まりなので、中心から離れてゆくと、それぞれの水滴が雲の内側にあるのか外側にあるのかはっきりしなくなる。それゆえ、ほぼ間違いなく雲の内側にあると言える水滴の集合に、そうしたハッキリしない辺りの水滴のそれぞれを一つずつ加えてできる多数の集合は、みな等しく、まさしくその雲である、と見なされる資格がある。しかるにそうなると、ここには一つの雲ではなく、多数の雲が存在するということになる。他方で、それらの集合のどれか一つを雲ではないと捉えるとすると、他の集合もみな等しく雲ではないと捉えなければならないことになる。ということは雲は存在しないということになる。では、一体果たしてどのように一つの雲が存在するということが言いうるのか。これが「多数問題」である。

これをどう解決するかは、濃密にどのような存在論を採用するかに依存している。しかし、筆者は、範囲を限った「ソライティーズ・パラドックス」の一つのヴァージョンとして構成し直すことができるだろう。

14.エバンズの議論

曖昧な対象についての「多数問題」の射程がすべて「ソライティーズ・パラドックス」に還元されてしまい、問題性という点でも言語的曖昧性と同化してしまうと直ちには言えない。以上の議論の流れから明らかなように、「多数問題」は結果的に対象・現象の同一性という問題系を曖昧性をめぐる論争をもたらしたのであり、それは「ソライティーズ・パラドックス」についての意味論的論争とは差当り異なる系統の問題提起であった。そして、まさしくこうした「同一性」を自覚的に主題化することによって、曖昧な対象の問題に固有な第二のパズルが現れるのである。ギャレス・エバンズにより提出されたそれは、まず、世界そのものが曖昧性という性質を本来的に持ちうること、そして、同一性言明にはそうした世界の曖昧性のゆえに確定的な真理値である「真」や「偽」を持たない言明があること、この二つの論点が仮定的に導入される。そして、それに二つの論点を組み合わせると、世界のなかには同一性が不確定な諸対象が存在するという考え方が導かれるが、それは果たして整合的な考え方なのだろうか、と問題が立てられる。

15.ポスト・エバンズ

エバンズの議論は提出された直後から多様な観点からの反論や問題点の指摘が頻出した。まず確認できるのは、エバンズの議論の結論それ自体が端的に間違っているという反応だ。

16.「真理値グラット」再び

エバンズの議論に対して抱く素朴な疑問の一つは、そもそも果たして(1)と(5)は矛盾しているのか、というものであろう。(1)は要するに「a=bは確定的に真理値を持たない」と読めるので、それは「a=bは真とは言えない」ということを含意していると思われる。しかるに、その含意はまさしく(5)そのものではないか。だとしたら、(5)はむしろ(1)からの自然な帰結であって、両者に矛盾はないとみえるのである。こうした反応を促す背景には「不確定性」というものを「真でも偽でもない」という「真理値ギャップ」として捉えるという考え方が潜在している。こうした傾向は、言語的曖昧性の問題そして「ソライティーズ・パラドックス」に対する対処としてかなり有力だと思われる「重評価論」が「真理値ギャップ」の立場に立っている、という事情にも呼応していると思われる。

エバンズの議論の(1)と(5)とが矛盾していないように感じられるという直観を導く捉え方として、(1)を「a=bは真でもあるし偽でもある」とする捉え方である。このような真理値のあり方は、「真理値ギャップ」に対して「真理値グラット」と呼ばれる。もし、「真理値グラット」の立場を採用するならば、(1)と(5)とは矛盾せずスムーズに整合する。なぜなら、その立場では、(1)が「a=bは真であるし偽でもある」である以上、そこから(5)「a=bは偽である」は自然に導出されるからである。かくして「真理値グラット」の立場が、エバンズの呪縛から脱却する有力な突破口になり得ることが見込まれる。

実際、こうした「真理値グラット」の捉え方は、曖昧な事態の実在性という論点とも符合する。現象や対象の輪郭のぼやけという事態は我々にリアルな因果的影響を及ぼす。しかるに、「真理値ギャップ」の捉え方は「真でもないし偽でもない」というようにネガティブなもので、実在として因果的効力を持つようなポジティブな事態とは結びつかない。これに対して「真理値グラット」の立場ならば「真でもあるし偽でもある」という肯定的な理解仕方なので、実在的な因果的効力を説明し得ることが見込まれる。

このように論を展開して来ると、「多数問題」に対しても一つの解決が生まれてくる。「多数問題」は正確には「多数か無かの問題」と呼ぶべきディレンマのパズルなのであった。けれども、「真理値グラット」の立場を採るならば、これはディレンマではないことが導かれる。例えば「雲」でも、輪郭のぼやけという点で、それらはまさしくいろいろ多数の互いに異なるあり方を同時に持ち合わせている対象なのであって、そうした肯定的な意味で、もともとから「多数」なのである。「多数問題」はこうした迂回した仕方で「真理値グラット」の考え方を志向していたのであり、そこに「多数問題」の意義があったのではなかろうか。

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