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2012年4月16日 (月)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(23)

10.自由の持続性

ここまで、適応度、遺伝子、脳状態といった三つの生命科学的な様相によって「自由」の問題を論じる道筋を簡単に追いかけた。次に、この道筋に対して、先に筆者が提示した二つの戦略を突き合わせてみる。

まず、リベットの実験について検討する。リベットは、重要な点で見落としをしているが、次の二つの点で異論が生じる。一つは、行為というものを一定の時間的幅を持つものとして解すると、実験で準備電位が発生する原因というのは、実験の指示に従おうとする意図なのだと捉えることができる。その場合、意図や自由意志が運動活動を起動することはない、という帰結を導く必然性はなくなることになる。もう一つは、リベットの言うように意図とか意志というものを瞬間的なものと捉えたとして、準備電位が「無からの創造」のように突然現れるわけではなく、何か原因があるはずで、その原因は本人の意図や意志し考えられないはずだ、というものだ。

11.倒錯か洞察か

筆者のリベットの実験に対する立場はこうだ。リベットの実験が問題にしている自由は純然たる記述的事実にのっとったものであり、したがって事実に関わらないf-自由には定義的に関わりようがないことが言える。ではp-自由を適切に扱っているのか。しかし、p-自由は何か価値的な問題性あるいは逸脱が生じて、責任帰属が問題となるときに現われる責任連関型の自由である。これに対してリベットの扱っている自由は、手首や指を曲げるという行為の自由というものであり、それが責任と連関するとは言えない。つまり、リベットが扱っているのはp-自由ですらない。

そもそも自由というのは、束縛がないという一般的な意義において理解されるにしても、実際は無機的な物質には適用されず、濃密に人間的な概念であって、そうした人間的側面は規範的なありようとして機能している。したがって、そうした自由に対して、リベットのように、単に記述的事実を以て対処しようとしても、壮大な的外れに終わる危険がある。

次に言えるのは、リベットの議論は自由度の概念に対する親近性を一切持たない。彼の議論は、運動行為の起動点が意志ではなく準備電位にあるということを示唆するだけで、準備電位とが当該行為を引き起こす確率といった発想はない。その意味で、自由という問題を基本的に取り違えた倒錯ではないかという疑いを生じさせる。

リベットの自由を経験科学的にのみ解明しようとする立論は、哲学の伝統的自由論の末路であり、そこに至る倒錯の顕現であるといえる。

12.不確実性と規範性

適応度や遺伝子の様相のもとで検討を続ける。これらはリベットの場合と比べて、適応度の場合は適応度差というように確率論的なものであると捉えられる。適応度の様相の議論は遺伝子の様相の議論にも当てはまるが、それがどのように自由度に結びつくのかは明らかではない。

つまり、時制による区別に関しては、脳状態の様相と両者とも同じように純然たる記述的事実を記しているだけであり定義上f-自由には関わりえない。また、p-自由は過去の事実だけにとどまらず、責任帰属という規範的な側面も持つハイブリッドの概念である。しかし、両者には生命科学的な提示があるだけで、規範的な含意はない。従って、自由という問題、自由という語法に対しては真に届いていないと考えられる。他方で、このような議論は、生命現象に基づいて自由を論じる時には、自由にまつわる規範性が落とされてしまうという懸念であった。しかし、事実/規範という対比を厳として議論を一刀両断できるか。という議論を提起する。

つまり、事実と規範という区別は厳として存在することは確かだとしても、両者を区分ける境界線は必ずしも明瞭ではないという議論だ。事実/規範という対比は、ある種のゆらぎのもとにあると言うべきなのではないか。自由の度合いという不確実性に対して、さらにこうした事実/規範の対比それ自体にまつわる高階の不確実性にも考慮を払わなくてはならないのではないか。

そこで、章題「自由は生命現象か」に対しては、確かに自由は生命現象であるという側面を持つ、しかし、そうした側面は、つねに自由に宿る規範性を考慮しながら探求されなければならない、と。ことの本質は、生命現象にもまとわりついている、不確実性にある。そのリアリティを正面から見据えること、それが我々には求められている。

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