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2012年4月 8日 (日)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(15)

26.規範としての自然選択

これまでの議論から、生命現象に関する主題は、自然選択と遺伝的浮動という区別を明確化していこうとすることではなくもかつてビーティが記したように、生命現象の変化について確率論的な分析を可能な限り探求すると言う方向に向けられてしかるべきだねということになる。過去についての完全な記述、未来についての絶対的な予見などは、実際上だけでなく理念的・原理的にも不可能なのだということを自覚化し、完全な決定性には至らないと言うことを念頭に置きながら、なんとか精度の高い確率・偶然性の具体的な付置を目指すこと、それが合理的な主題設定でなければならない。これは生命現象が自然現象であるという側面を持つとき、順当な帰結であると思われる。自然現象は決定論的ではなく、非決定論的に生起しゆくものだからである。

ここで、筆者は、このような議論の展開にもかかわらず、単なる偶然とはどうしても思えないような生命現象があることを無視できないと言う。生命現象は自然現象であると同時に、人為現象であるという両義性を持っているのだから、その両義性ゆえに、ゆらぎゆくことを避けられない。

我々が、自然現象を観察した時に感じる非偶然性は次の二点である。

(1)「過去の確定性」に大きな支持を受けていること、つまり、すでにそうなってしまっていた、という既在感を基盤としていること、

そしてその上で

(2)我々の日常言語による語法からして「なぜならば」という原因や理由による説明が「氏」に即して直ちにできること、

筆者の指摘は、(1)と(2)の条件によって非偶然的な変化として理解されてくる、という直観レベルの理解がまず基盤にあって、そこからサイエンスとしての自然選択理論が立ち上がり得ているのではないかという、そういう事情である。

自然選択と遺伝的浮動は連続していて切り分けられないのだが、直観のレベルでは選択と浮動の区別は(1)と(2)の条件に従って為される。そして、特に(2)の条件に強調点を置いて、こうした区別は我々の言語に固着している語法の「規範性」によって為されている。アリクイの口の尖った形はアリを食べるためで「なければならない」のである。そういう風に我々は言葉を既に使ってきているのである。理解し始めた瞬間には、我々はこのような語法の規範性の中で物事を理解し、コミュニケートしているのであり、そうでない語りは、差当り文法違反なのである。こうした事情が(1)の「過去の確定性」という既在感と結びつくとき、過去の確定性・決定性という我々に根深く宿る形而上学的信念の正体が露わとなってくる。それは、そのように確定・決定されたものとして捉え「なければならない」という規範性の様態なのである。

27.決定性と偶然性の共闘

ここまで論を進めると、生命現象に関して、何故単なるランダム浮動とは異なる自然選択と言う意味での決定論的語りが、理論的な困難を持つことはすぐに分かるはずなのに、繰り返し繰り返し現れて来るのかという次第も解き明かされてくる。ます、(1)の条件があり、そこから過去の確定時の全時間への拡張と言う(理論的には錯覚の)「ブーメラン決定論」の種がまかれ、次に重ねて、(2)の条件により、規範性が織り込まれ、その限りで生命現象には「ア・プリオリ」に様相が埋め込まれていく。こうして、理論的にはどう考えているも偶然性の深遠に入り込まざるを得ないはずであるにもかかわらず、しぶとく決定論的語りが蘇生して来る。要するに、規範としての決定性、これが自然選択を遺伝的浮動と切り分ける実相なのである。

実は、「偶然性」の概念それ自体にも、決定論を呼び込んでしまう本性があったのである。もともと「偶然性」という我々の語法は、「過去の既在性」を包含している。「昨日、偶然彼に出くわした」というのは自然な語り口だが、「明日、偶然彼に出くわすだろう」というのは「偶然」と言う語の文法に反している。その点で、実は「偶然性」は、決定論を呼び起こす条件(1)を満たしているのである。けれども、偶然性は「過去の既在性」たけでなく、全く意図していなかった「意図外部性」という特徴も持っている。意図されたり予想されたりすることに対しては、「偶然に」という言葉を適用しないのは、おそらく偶然性概念のまさしく基礎文法だろう。こうした意味で、「偶然性」は、「あらかじめ決まっていた」と言うあり方から外れると言う点で、「確率」概念と結びついてきたと考えられる。つまり、「偶然性」は「過去の既在性」にもともと基盤を持つと言う限りで、無時間制あるいは未来志向性とも馴染みうる「確率」概念とは本来異なるのだけれど、「意図外部性」と言う性質をも持ち、それは「あらかじめ決まっていた」と言うあり方からの逸脱を含意する点で不確実性の様相を本質的に帯びており、それ故に「確率」概念と結託してきたのであり、そのことで「偶然性」は普遍的な概念となってきたと理解することができる。

偶然性は、決定性と異なり、つねに予想の外部にあるという事態にもともとの基盤を持ち、さらには確率と概念的に結託し、そうした結託を通じて未来にも適用されうるようになってゆく。決定論と両立し、そうでありながら決定論と離れてゆくと言う、こうした偶然性のつかず離れずの自在性こそ、自然と人為の両義性のなかでつねにゆらぎゆく、という本性を持つ生命現象と相即不離に偶然性概念が語り出されてくる所以といえる。かくして、章題の「生命現象は偶然的か」に対しては、然り、生命現象は本来的に偶然的である、しかし同時に規範性という次元で決定性と融和的に語られる瞬間もある、と。

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