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2012年4月30日 (月)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(3)

第2章 スコトゥスの共通本性と個体化の理論に対するオッカムの批判

(一)スコトゥスの『命題集註解』における個体化の理論

ソクラテスとプラトンは、ともに人間性という共通本性を持つ点では一致しているが、しかしそれぞれ別な個物であるという点では異なっている。ではソクラテスを、プラトンではなく、まさにソクラテスならしめているものでは一体何であるか。これが、スコトゥスが『命題集註解』で論じている個物の固体化の問題である。ここで、スコトゥスは第1~第6問題まで論じているが、第1~第5問題は当時の固体化の理論の批判であり、第6問題で自説を展開している。

スコトゥスによれば、事物は自らの本性(人間であること)によって個物であるのではなく、その共通本性をこのもの、この個体へと特定化する個体的差異・個的存在性が共通本性に付加されなくはならない。この付加される固体化の原理は、否定的な原理ではなく、肯定的に定立し得るものであり、またそれはある特定の質料や量と言った付帯的な性質ではなく、個物に本質的に内在する実体的原理である。しかしそれは現実存在そのものではあり得ない。従って、スコトゥスの理論では、質料的実体である個体は、種的本質を構成する共通本性と、その共通本性を個へと特定化する個体的差異・個的存在性から成ることになる。スコトゥスは、これら共通本性と個体的差異の関係について、両者は同一のものに属する形相的に区別された二つの存在性であると述べている。さらに、すことぅかの理論の特徴は、実在的に同一のものの内に、更により原初的な区別を措定し、共通本性とそれを特定化する個体的差異との間に、実在的区別ではなく、形相的区別を立てたことである。このような、共通本性の存在性と、それを特定化する個体的差異の存在性の間に、実在的区別ではなく形相的区別を措定される理由を、スコトゥスは次のように説明している。実在的区別が成立するのは、例えばソクラテスとプラトンの場合のように、事物と事物の関係においてである。しかし、共通本性と個体的差異の関係は事物と事物の関係ではなく、同一の事物における二つの存在性の間の関係である。共通本性はいわば可能態が現実態によって現実化され完成されるごとくに、個体的差異によってこのものへと現実化される。

(二)オッカムの批判

1.スコトゥスとオッカムの論争(一)

スコトゥスの議論をオッカムは次のように批判する。たしかに、ソクラテスとプラトンは人間であるという点では一致し、他方それぞれが別な個物(あの事物とこの事物)であるという点では異なっている。しかしこの理由から、スコトゥスのように、形相的に異なる二つの存在性を同一の事物の内に措定する必要はない。むしろ、スコトゥスの議論の前提‘同じものによって、事物Aと事物Bと実在的に一致し、同時にまた実在的に異なるというということは不可能である’が間違っている。二つの別々の存在性によってではなく、各々が有する同じ一つの存在によって、ソクラテスはプラトンと種において一致し、数において異なる。即ち、オッカムによれば事物はすべて自己自身によって個体である。それゆえ、スコトゥスのように固体化の原理として個体的差異・このもの性を措定する必要はないし、同一の事物の内に、形相的に異なる二つの別々の存在性、共通本性と個体的差異・このもの性、を措定すべきではない。事物は、各々が有する自己に固有な同一の存在によって、他の事物と種において一致し、数において異なるのである。

2.スコトゥスとオッカムの論争(二)

スコトゥスによれば、ソクラテスとプラトンは、人間性という共通本性を持つことにおいて、一つのグループにまとめられる。あるいは、ソクラテスとプラトンとサルとロバは、動物性という本性を持つことにおいて、一つのグループにまとめられる。こうした共通本性を持つ一は、このものやあのものといった「数的な一」とは別であると考えられる。なぜなら、ソクラテスとプラトンとサルとロバは、このものとあのものといった数的な一においては、等しく異なっているが、しかし、ソクラテスとプラトンは、数的な一とは別なある一を有し、それによって一つのグループにまとめられるからである。スコトゥスは、このような共通本性の持つ一つを、数的な一よりも「より小さい実在的な一」と呼んでいる。つまり、ソクラテスとプラトンは、人間であることにおいて一致し類似している。それゆえ、この実在的な類似関係を成立させている根拠として、ソクラテスとプラトンの他に、これら数的に一なる個別的なものとは別に、これらに共通な、より小さい実在的な一である人間の共通本性が、心の外に存在していなくてはならない。

これに対して、オッカムは、その推論は妥当でないと主張する。ソクラテスとプラトンは、人間であることにおいて一致するのでも、ある事物において一致するのでもなく、ある事物であることによって一致するのだからである。なぜなら、ソクラテスとプラトンは、人間であることによって、即ち自らによって一致しているのだからである。それゆえ、このような論法に対しては、ソクラテスとロバよりも、ソクラテスとプラトンの方が、彼等自身によって、実在的に一致しているのであって、ある実在的な第三の存在において、ソクラテスとプラトンの方が実在的に一致しているのではない。

このようにオッカムによれば、ソクラテスとプラトンの類似を第三の存在である共通本性(例えば人間の共通本性)との間の三項関係として解すべきではない。ソクラテスとプラトンが彼らとは別な第三の存在において類似していると考えるのはおかしい。なぜなら、ソクラテスとプラトンの存在が措定されるならば、自ずと彼等の間に実在的な類似の関係が成立するからである。彼らの存在のみで十分であり、彼等以外の如何なる存在も必要でない。ソクラテスとプラトンは、彼等自身の存在によって一致しているのである。

オッカムの第二の重要な論点は、‘ソクラテスとプラトンは、スコトゥスの言うように、心の外の、多くの個物に内在する、人間という共通本性において一致するのではなく、心の中の、多くの個物を表示し、それらに述語づけられる「人間」という共通な普遍的概念において一致する’という主張である。ここにおいて、オッカムは共通本性を否定し、①普遍を心の外から心の内へ、②多くの個物に内在する普遍から、多くの個物に述語づけられる普遍へと移行させている。

つまり、個物A(例えばソクラテス)とB(例えばプラトン)との間に成立している一致や類似の関係を根拠づけているものは、数的に一である個物Aと個物Bそのものであって、それ以外の何物でもない。個物Aの存在が、自己のBに対する一致・類似の関係(1)を根拠づけ、個物Aの存在が、自己のAに対する一致・類似の関係(2)を根拠づける。個物Aと個物Bのみが存在するならば、自ずと、両者の間に一致し類似する関係が成立するのであり、それ以外の如何なる根拠も必要とされない。従ってスコトゥスの言うように、数的な一以外の<一>の存在を、一致し類似する関係を根拠づけるものとして措定する必要はない。

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