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2012年4月29日 (日)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(2)

第1部 存在について

第1節 14世紀におけるesseessentiaに関する議論

(一)エギディウス・ロマヌスの説

『存在(エッセ)と本質(エッセンチア)の諸定理』の第5定理の中で、エギディウス・ロマヌスは述べている。

まず、エギディウスは、可感的なものから可知的なものへ、質量的な事物から非質量的なものに向かい、人間にふさわしい探求の仕方に従い考察を進める。第一に質料的な事物の生成において質量と形相の複合が認められ、両者が実在的に異なるのと丁度同じように、質料的な事物の創造においても本質(エッセンチア)と存在(エッセ)の複合が認められ、両者が実在的に異なる。さらに非質料的分離実体(天使)においてもエッセンチアとエッセの複合が認められ、両者が実在的に同一でないことを主張する。創造において被造物は全て、他者から存在を受け取るのだから。存在の原因である神においてのみが、存在と本質は同一である。すなわち、形相と質料の現実態であり完成態であるのと同様に、エッセはエッセンチアの現実態であり完成態である。創造は、創造者である神によって、存在(エッセ)という現実態と完成態が。被造物のエッセンチアに刻印づけられることによって行われる。従って、実在的に区別された形相と質料の複合を認めなければ生成という事を説明できないのと同じように、実在的に区別されたエッセとエッセンチアの複合を認めなければ創造ということを説明できない。ただし、エッセとエッセンチアが実在的に区別されるからといって、エッセがエッセンチアなしに自存することはあり得ないし、またその逆もあり得ない。

被造物の本性は自らの存在(エッセ)ではなく、自らのエッセと実在的に異なり区別されたものであることは三つの道によって示されることができる。第一の道は、被造物の本性は存在することも、存在しないことも可能であるのであるのだから、エッセに対して可能態においてある。それゆえ、被造物の本質(エッセンチア)と存在(エッセ)は実在的に区別される。第二の道は、もし、仮に非質料的分離実体(天使)の本性・本質(エッセンチア)が存在(エッセ)そのものであるとしたら、分離実体は質料という下位のものからも、エッセという上位のものからの制限を受けないものであることになるであろう。その場合には、分離実体のエッセは他から受け取られたものでも、分有されたものでもないことになるからである。しかし、このことは被造物の本性に反することである。それゆえ、分離実体(天使)の本性・本質(エッセンチア)は存在(エッセ)と同一であることはありえない。物体的事物の場合も同様である。第三の道は、もし仮に被造物の本性・本質(エッセンチア)が自らの存在(エッセ)であるとしたら、被造物のエッセンチアは何ものも分有せず、全く単純なものであることになるであろう。このことは、被造物に反する。それ故、分離実体(天使)のエッセンチアはエッセと同一であることはあり得ない。従って、エギディウス・ロマヌスの説によれば、エッセンチアとエッセの実在的区別を否定することは創造という事実を否定することであり、もし創造という事を認めるならば、すべての被造物は、実在的に異なるエッセンチアとエッセという二つのものの複合体であることを認めなければならない。

(二)エギディウス・ロマヌスの説に対するオッカムの批判

1.存在(エッセ)と本質(エッセンチア)の複合に関して

エギディウス・ロマヌスは、事物の内に二通りの複合を認める。一つは、事物の生成において見出される形相と質料の複合であり、ここにおいて質料は形相に対して、可能態が現実態に対するごとき関係にある。いま一つの複合は、事物の創造において見出される、被造物の本質(エッセンチア)と存在(エッセ)の複合であり、ここにおいては、エッセを受け取るエッセンチアはエッセに対して、可能態が現実態に対する如き関係にある。

このようなエギディウス・ロマヌスが措定する、エッセンチアとエッセの複合に対して批判を加える。オッカムは、外界に独立して存在するものとしては性質と実体(形相と質料と両者の複合体である事物)しか認めない。それゆえ、もしエギディウス・ロマヌスの説のように、もし存在(エッセ)と本質(エッセンチア)が異なった二つのものであり、エッセンチアが存在(エッセ)に対して、可能態─現実態という関係にあり、それらが複合して自体的に一なる事物を形成するとすれば、エッセンチアは質料であり、エッセは形相であることになるであろうが、これは馬鹿げている、あるいは、エッセンチアとエッセが複合して付帯的に一なる事物を形成するとすれば、エッセはエッセンチアに外部からつけ加わる付帯的性質であることになるであろう。これは不合理である。

2.存在(エッセ)と本質(エッセンチア)との間に実在的区別を措定すべき理油に関して

なぜ、エギディウス・ロマヌスは、被造物における存在(エッセ)と本質(エッセンチア)との間に実在的区別を主張したのだろうか。その理由は、①神が被造物を創造したのであるから、神は第一の原因であり、これに対して被造物は他者によって原因され、第一原因に依存し従属するものである。②被造物の本質は可能態においてあり、神からエッセが流入し、エッセンチアに刻印付けられるという仕方で、被造物はエッセを分有し、他者である神からエッセを受け取るから、それゆえに「神においてはエッセンチアとエッセは実在的に同じものであるが、被造物においてはエッセンチアとエッセは実在的に同じものではない」と主張した。

これに対して、オッカムは①の主張は認めるものの、主張②を否認する。それは、存在が存在するものに述語づけられ、それが他のものに依存していることを表示しない場合は、存在は単一な第一の原因を意味表示する。しかし、存在が第一の原因以外のものに述語付けられる場合には、第一の原因に依存し、従属して存在するものを意味表示する。そのため、エッセとエッセンチアとの間の実在的区別を否定することは可能であると説明する。

3.‘それによってものが在るところのもの’と‘在るところのもの’との区別

トマス・アクィナスは、この両者を区別することによって存在(エッセ)と存在を受け取ることによって存在する実体の相違を説明しようとする。トマスは、これを二つの論拠から説明しようとする。①‘在るところのもの’は、存在することの基体であるが、存在そのものは存在することの基体ではない。②存在(エッセ)という現実態を分有することによって、‘在るところのもの’は現実的に存在する。それゆえ、‘それによってものが在るところのもの’であるエッセと‘在るところのもの’は区別されねばならない。さらにトマスは、両者の区別は、単一なもの(神)の場合には概念における相違であるが、形相と質料から成る複合実体の場合には実在的な相違であることを指摘している。

これに対して、オッカムは‘それによってものが在るところのもの’と‘在るところのもの’との区別を、トマスとは別の仕方で解釈すべきと提示する。すなわち、両者の区別はトマスのように、存在(エッセ)と、それによって存在するところの被造物との実在的な区別として解されるべきではない。むしろ、‘それによってものが在るところのもの’とはエッセではなく、神である。それゆえ、‘それによってものが在るところのもの’と‘在るところのもの’との実在的区別は、神と、神によって存在する被造物との実在的区別であると理解されるべきである。

4.言葉の側の区分と、心の外のものの側の区分について

エギディウス・ロマヌスは、‘被造物の本性は存在することも、存在しないことも可能であるのだから、本性は存在(エッセ)に対して可能態においてあり、被造物の本性とエッセは実在的に異なる。’と主張する。すなわち、被造物のエッセンチアは存在することも、存在しないことも可能であり、エッセや非存在に対して中立である。然るに、AがBであることも、ないことも可能であるということは、A≠Bということである。何物も自分自身に対して可能態において在ることはないからである。それゆえ、エッセンチアとエッセは実在的に区別される。

これに対して、オッカムは①エッセンチアとエッセは実在的に異なる二つのものではなく、ものとしては同一であり、従って「エッセンチア」「エッセ」という二つの語は全く同一のものを表示している。②ただし、「エッセンチア」と「エッセ」とでは表示の仕方が異なることを主張する。ここにおいて、オッカムは心の外のものの側の区分を、言葉の側の区分の問題に転換させようとしている。

ここで、走るもの─走行─走るという例をもちいて、トマスとオッカムの違いを考える。トマスは「走ること」と「走行」は形相を表示し、それぞれが異なるものを表示するとしている。それゆえ、「走ることは走る」とか「走行は走る」と言う事はできないのである。トマスのように考えれば、そのように言うことができない原因は、心の外のものの側にあることなる。「走ること」「走行」と「走るもの」は実在的に異なった二つのものを表示しているからである。つまり、一つの事物の内に、存在(エッセ)と本質(エッセンチア)という実在的に相互に区別された二つのものがある。存在は神から与えられる存在するという現実態を表示しているのに対して、本質、あるところのもの、は存在するという現実態を受け取り分有する基体を表示しており、それぞれ異なるものを表示する。それゆえ我々は、存在することは存在するとは言うことができない。

これに対して、オッカムは実在的な区別を否定し、走るもの─走行─走るという具象語と抽象語は同義語であって、同一のものを表示すると主張する。この場合、「走ることは走る」とか「走行は走る」と言う事はできないのは、心の外のものに原因があるのではない。「はしること」、「走行」と「走るもの」は全く同一のものを表示しているのだからである。ではなぜ、そういうことができないかといえば、「走るもの」という具象語と、「走ること」という抽象語は同一のものを表示するが、その表示の仕方が異なるからである。存在するもの─本質(エッセンチア)─存在(エッセ)においても同様である。エッセンチアとエッセは心の外の相互に区別された二つのものではなく、一つのものであり、本質と存在はその文法的論理的表示の働きが異なるが、同一のものを表示する同義語なのである。

こうしたオッカムの主張が、序論で述べた‘言葉の側のことと、心の外のものを明確に区別する’という彼の哲学的意図によるものである。オッカムによれば、人々は走るもの─走行─走る、存在するもの─本質(エッセンチア)─存在(エッセ)という具象語と抽象語を現実に有していることから、これら具象語と抽象語に対応し、これら二通りの語の成立を根拠づける何らかの実在的に異なる二通りのものが外界の事物の側にあると考えられることによって誤りを犯しているという。

このように本質(エッセンチア)と存在(エッセ)は実在的に異なる二つのものではなく、ものとしては同一であり「本質」「存在」という二つの語は全く同一のものを表示している。とオッカムは言う。そしてさらに主張する。本質(エッセンチア)と存在(エッセ)は同一のものであるのだから、本質が存在する時には存在もあり、本質が存在しない時に存在もないのであり、エッセンチアがエッセや非存在に対して中立であることはない。

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