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2012年4月11日 (水)

一ノ瀬正樹「確率と曖昧性の哲学」(18)

10.確率評価論─ハイブリッドの試み

「ソライティーズの因果説」が、存在的曖昧性の問題に傾斜しているとはいえ、「真理値グラット」アプローチに合致していくという、これまでの議論の流れをさらに基礎づけるため、そうした事態に見合った「真理」概念の改訂について検討する。この真理概念の描出を、今回主題的に検討した「細評価論」の着想を混ぜ合わせる、つまり「ソライティーズの因果説」と「細評価論」のハイブリッドの試みである。

存在的曖昧性についての因果的・確率的な分析は、意味論的な分析ではないので、「精確化」という場合分けの操作は使えない。しかしながら、境界線事例に対して確率的に接近していくときにも、原理的に、少なくとも二つの場合分けが常に生じてしまっている。この二つの場合分けに沿って真理概念を規定し直してゆけば、確率の文法の中に「真理値グラット」を取り込める、しかも「細評価論」の着想を利用する形で取り込める。もちろんその場合、こうした意味での「本当に真」と「本当に偽」とは、判断主体のうちにある、それぞれ異なる因果的効力をもつ傾向性として解されるわけである。要するに、「精確化」の代わりに、それぞれの「確率分布」に依拠して真理値評価を行うということである。これが筆者の提起する「ソライティーズの因果説」と「細評価論」とのハイブリッドの骨子である。これは「確率評価論」とよぶ。

「確率評価論」では「絶対に偽とは言えない」という限りでの「本当に真」と、「絶対に真とは言えない」という限りでの「本当に偽」とが、判断主体の傾向性として同時に併存している、その意味で矛盾が現実に発生している、しかし、それぞれの傾向性には0.6と0.4という因果的効力差がある、というように捉えていく立場である。この考え方は、真理概念が問題となっている以上、意味論的な含意を当然持っているが、しかし同時に、傾向性という実在的現象についての因果的分析としての認識論的な主張でもある。こうした二義構造は、もちろん、「ソライティーズの因果説」と「細評価論」とのハイブリッドという性質の繁栄にほかならない。

11.輪郭のぼやけ

「確率評価論」の意義を曖昧性という問題の全体像のなかで十全に位置付けるには、「ソライティーズの因果説」を根底から支える把握についてさらに踏み込んで検討しなければならない。それは、存在的な曖昧性の問題それ自体について掘り下げる必要がある。というのも、この存在的曖昧性という領域には、それ固有の問題性がつとに指摘されてきたもので、それへの検討なしに、「ソライティーズの因果説」として「細評価論」はその射程を測りきることはできない。その固有の問題性とは何か。その導入に当たるのが輪郭のぼやけという問題である。

輪郭がぼやけている現象や対象はいたるところに存在している。台風などはその典型だろう。どこから台風の暴風域に入るのか。どこから台風の眼なのか。そもそも台風とは一種の風や雲の集まりなのだから、風も雲もクリアカットな事物などとは到底言えない代物である以上、台風という事物はいわば本来的に輪郭がぼやけているのである。ということは、台風のぼやけた輪郭辺りの所にいる人は、「自分はいま台風の中にいる」と言うべきなのか、「自分は今台風の外にいる」と言うべきなのか迷うことになろう。そして実は、原理的に言って、同じことが通常の物理的現象や物理的対象一般に広く当てはまってしまうのである。こうした状態は、「自分はいま台風の中にいる」という事態と「自分は今台風の外にいる」という事態との、いずれも不成立なわけではない、というように捉えられると思われる。もし、不成立なわけではないということを広義に考えて成立していることと等置してみるならば、この状況はひとつの事態が成立しており、同時に成立していないというあり方をさししめしているのではないか。だとしたら、矛盾が実際の状況として実在しているということにならないか。現に発生している矛盾は、具体的にはこういうことだと言っても良いのではなかろうか。

12.曖昧な対象

そのように捉える時、存在的な曖昧性の問題が純粋に立ち上がってくる。というのも輪郭のぼやけは、境界線が曖昧であるということにほかならず、しかし同時に、その曖昧性は、台風が例となっていたことからも分るように、自然界に存在する現象や対象にダイレクトに関わる形で生じている曖昧性であると思われるからである。今日手背は曖昧性の問題は「言語的曖昧性」と「存在的曖昧性」とに区分されて論じられるのが標準的である。言語的曖昧性が曖昧な述語つまりは意味の曖昧性に関わるのに対して、存在的曖昧性は「曖昧な対象」に関わるということである。

この二つの曖昧性の区分それ自体、決して鮮明ではなくあいまいである。そして、存在的曖昧性が対象の境界や輪郭の曖昧性であり、対象がそもそも我々の言語に規定されたものである以上、言語的曖昧性と存在的曖昧性は混じり合う。

他方、言語的曖昧性の方から見ても同じことが言える。「摂氏21度は暑い」という文を肯定できるかどうか明確でない、つまりは「真」なのか「偽」なのか明確でない、として捉えるとき、そうとらえる判断主体の状態は一つの自然現象である。「ソライティーズの因果説」は、以上のような観点に立って、真理値評価をする主体の状態を傾向性と捉え、そうした傾向性を客観的確率としての傾向性に重ねつつ、ここでの因果性を確率的因果として捉えていくという道筋をてんかいしている。それは結局、言い方を換えれば、言語の意味について生じる曖昧性は、それを判断する主体の傾向性という、自然に存在する現象・輪郭の曖昧さとして捉え返せるということを意味する。つまり、言語的曖昧性もこうした意味で存在的曖昧性の問題と融合して行くはずだということである。

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