「難波田史男の15年」展(1) 東京オペラシティギャラリー
2012年3月24日(土)近代美術館でジャクソン・ポロック展を見て帰ろうと思っていたら、ふと気が向いて館内の常設展を覘いてみたら、この展覧会の存在を知り、もう終わりが近いことを知り、衝動的に発台まで足をのばした。土曜日の夕方というわりには、ポロック展に比べれば、来館者も少なく、静かに落ち着いた雰囲気の中で作品を見ることができた。
何で急に思い立ったかといえば、パンフレットの作品の何とも軽やかな浮遊感や明るさ、そして躍動する線、それであるにもかかわらず一種の繊細さ、静謐さに驚いたためです。パンフの文章の“日本の抽象絵画の開拓者である難波田龍起の次男として生まれた彼は、非凡な才能を見せつつも既成の美術教育にはなじまず、文学や音楽を糧としながら独自の表現を求めました。自己の内面を見つめ、また時代や社会の現実にも視線を向けるなかから生まれた作品は、史男の研ぎ澄まされた感性を瑞々しく伝えています。”という説明と、その作品とにギャップを感じ、興味が湧いたためです。展示はその説明文のストーリーに沿ったもので、点数としては、多かったと思います。ただし、大作というものは少なく、ほとんどが水彩やスケッチで比較的規模の小さいものが中心といえました。
難波田史男の作品は、ある意味ではワンパターンで、画用紙にインクと水彩で、シュルレアリスムのオートマティスムによって描かれたようなアンフォルムな形態が、画面に中で浮遊していて、それを繊細で躍動感のある種々の線がとりまき、水彩独特の滲みや余白を活かした画面構成で、一見、明るく、描く楽しさが溢れるような喜悦感ある画面になっています。表面的な画面の印象はヴォルスのようなアンファルマルに通じるところもありますが、油絵の重い質感がないため、画家の実存がストレートに反映されるような重苦しさは感じられません。一時期のカンディンスキーににているところがあると思います。
難波田史男の作品には、それぞれ題名が付けられていて、画面にはそれらしいものが、それらしい外形でそこここに躍動しているように見えます、抽象画に近いものだと思います。印象としては、幼児が描く作品のような写生というようなことに捉われない、自由でプリミティブな「お絵かき」のようなものに見えるのではないでしょうか。そういう外見から、純粋さとかナイーブさといった印象を持ちます。まるで子供が嬉々としてお絵かきをしている楽しさがあふれ出ているような気がして、見ていて幸せな気持ちになることができる。というのが、私が難波田の作品に接した第一印象でした。作品の題名は、最初からこれを描こうとして決められていたというよりは、作品が描かれて、それを見て便宜的につけられたような気がします。その反面、ほとんどが水彩やデッサンという事からかもしれませんが、存在感とか画面の厚みというようなものは相対的にあまり感じられない、リアルの重量感というよりはファンタジーの軽やかさとでもいうのでしょうか、そういった印象でした。
何しろ展示点数が多いので、まとめるようなことは言いにくいのですが、印象に残ったものを中心に、個々の展示されていた作品に沿って、感じたことを述べていきたいと思います。
1.自己とのたたかいの日々
2.無意識の深みから
3.コスモスへの旅
4.線と色彩の融合
5.失われた太陽
6.色彩の深まり
7.幾何学と生命の表現
8.自己と他者の物語
9.生と死の彼方へ
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