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2012年4月28日 (土)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(1)

412kpfg4nl__sl500_aa300_ 序論 心のうちの言葉と、心の外のものとの区別

(一)オッカムの哲学的意図

ウィリアム・オッカムの『大論理学』は明確な神学的、哲学的意図をもって書かれた論理学書である。そのように明確な哲学的意図があると考えられる理由として、筆者は二つの理由をあげる。

一つは、『大論理学』の中で、同一のテーマを繰り返し論じている点である。そこで論じられているテーマは、ドンス・スコトゥスの共通本性と個体化の理論に対する批判、エギディゥス・ロマヌス等の「量は実体や性質から独立しそれらと実在的に別なものとして存在する」とする量独立説に対する批判、述語づけの表示態と述語づけの遂行態についての議論、そして存在と本質についての議論である。この四つのテーマは大きなテーゼにまとめることができる。ここでオッカムは一貫して<心の内の言葉と、心の外のものとの区別>という同一のテーゼを提出して従来の存在論を退けている。すなわち、人々には、心の内の普遍概念に対応するものが、心の外にも存在すると考える傾向があり、オッカムは<心の内の言葉と、心の外のものとの区別>というテーゼを提出することによって、このような立場を斥ける。

もう一つの理由は、『大論理学』の構成に見出すことができる。中世論理学の主要な分野として、代示の理論と討論における拘束の術、そして解決困難な命題いわゆる嘘つきのパラドックスについての理論の三つがある。ここでオッカムは代示の理論を重要視し、『大論理学』の議論全体において多用する。それ以外の二つの理論は重要でないとして扱いはかなり見劣りがする。これは、討論における拘束の術と嘘つきのパラドックスについての理論が論理的に重要なものではない、ということではない。しかし、<心の内の言葉と、心の外のものとの区別>というオッカムの哲学的意図からはずれており、代示の理論は大変役に立つと考えられるからである。

(二)オッカムの哲学の基本的な立場

「外界における事物はすべて個物であって、普遍であるのは人為的に制定された言語、更により本来的には、我々の心の持つ言葉・概念のみである。概念は、外界の多くの事物を表示し、代示する記号であり、それゆえ、普遍という性格を持つ」というのが、オッカムの哲学の基本的に立場である。オッカムはボエティウスに従い、語を書かれた語と話された語と知性の中に懐抱された概念である語に分類し、心の中の概念を第一義的に自然本性的とし、人為的に制定された書かれた、話された言語は第二義的にとして、知性の中に懐抱された概念のことを「心の内の言葉」と呼んでいる。ここで注意すべきは、オッカムが概念をトマス・アクィナスの形象説による「事物の似姿・類似物」としてではなく、「事物の記号」として定義している。この定義、オッカム以前の存在論の否定を含意している。オッカムは、概念が外界の事物を表示し、代示する記号であることを強調し、形象を不要であると排除することによって存在を捨て去ってしまう。例えば、足跡が人間を表示する記号であるという時、足跡と人間の間に、トマスが言うような記号であるという時、足跡と人間の間に、トマスが言うような意味での類似は存在しない。同様に、概念が外界の事物を表示し、代示する記号であるという時、概念が外界の普遍的な本性・形相の認識である必要もない。オッカムが保証するのは、我々の心の抱く概念が何らかの仕方で心の外の事物に対応し、それを表示し、それを代示するという事だけである。我々は、外界の世界の構造の本質そのものを充分に認識することはできない。オッカムは、外界の事物の本性とか、形相といった存在論について語ろうとしない。オッカムによれば、外界の事物は、概念という記号によって表示されたもの、代示されたものとしてのみ措定される。

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