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2012年5月13日 (日)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(1)

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筆者はスピノザの数少ない著作の中から『知性改善論』を取り上げる。スピノザは、この未完の論文を『エチカ』の入門に仕立てようとしていたらしいからだ、と言う。といっても、解説書ではない。真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いかけから始まる。それだけでは、碌でもない私探しに堕してしまうおそれがある。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界まで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的問を、その強度そのままに、非人称の世界にまで進んでいく道。それがこの『知性改善論』である。

その冒頭で、スピノザは言う。世の人々が「最高の善」として評価しているものは、結局、富・名誉・快楽の三つに帰着する。そういうものは自己目的化すると必ずや人をダメにする。このようなことは経験から分る常識で、彼が問題にしているのは、それを知っているのにあきらめきれず、いわば中途半端にそれに引き摺られている普通一般の生き方だ。そんな中途半端なものではない「最高の喜び」が可能にからないか、ということをスピノザは本気になって考える。

「最高の喜び」を享受できる究極のXをこれから探求しようというのだから、その存在自体不確実である。他方、中途半端とは言っても富と名誉はあるということでは確実である。しかし、これには際限がない。だから真剣な哲学的探究と両立はできない。そこで、スピノザは選択する。存在は確実でも初めから最高の幸福に馴染まないと確実に分っているものを捨て、存在は不確実でもはじめから最高の幸福にふさわしいと確実に分っているものを取る。これは賭けである。保証は何もない。だがやってみるだけの価値は確実にあるとスピノザは考える。

この賭けには、思わぬ余禄がついてくる。Xを探求し出すと、捨てねばならぬと思っていた世俗的善への執着が、問題にすらならない。探求の妨げにならないと分ってくる。「これこれのためにしかじかを犠牲にする」という「ため」は目的である。ある目的遂行のために我慢しなければならないと我々は考え、それを守れないなら目的遂行は難しいと考える。こういう発想は、実際に飛び込まずに岸でうろうろしている人の考えに過ぎない。スピノザは最初のところでこのことに気づかせ、飛び込んでみれば違って見えると励ましている。

ここで、「目的」について、我々は目的があってその達成に努力するという風に考えるが、スピノザはこれに先立つ衝動があって、この衝動に駆られるからこそ、我々は目的に向かっていると思い込むと言う。とすると、我々の意識はすべてをあべこべに表象している可能性がある。『エチカ』の理論で行くと、人間は自分の意欲及び衝動を意識しているが、そのように駆る原因は知らない。それで人間は自分を自由な存在だと思い、万事を目的のために行うと表象する。そしてこの衝動こそ、我々を刻々と肯定し、我々を我々自身にしている何か、すなわち、我々の現実的本質に他ならない。目的とは衝動だが、逆に衝動とは目的のこととは言えない。つまり、スピノザの言う衝動は目的とは何の関係もない。何かある事物が、それ以外の何物でもないと存在する時、そのようにその事物が自己の有に固執しようと努める力、それを努力という。これが無くなると、その事物そのものが無くなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。こうした目的なき努力が我々にもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから、衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。また、「欲望」とは意識を伴った衝動である。つまり、それ自身としては目的なき衝動を、我々は意識の中で何かを実現しようとする欲望として、いわば誤認しながら生きている。馬を餌に向かわせる衝動は餌が目的なのではなく、馬自身に対する肯定そのものである。その意味で馬は自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。

このように見て来ると、「目的」について考えを改めねばならなくなる。我々の欲望は皆、意識を伴った同じ一つの衝動である。とすれば、欲望が欲している善、実現すべき目的なるべきものは、衝動が付与する欲望の強度として理解できる。だから、例えば、ある目的のために欲望を捨てねばならぬと言う発想は間違っていることになる。従って問題は、道徳化が言い立てるように、善なる目的のために欲望を断念するということではない。とことん欲望に忠実に最大の強度を持った善を的確にマークし、その周りに他の諸々の善がおのずと編成されていくのを見届けること、これが倫理に求められる全てである。

その最大の強度の欲望とは何か。それは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望であるとスピノザは考える。

事物の世界は自然法則に従って目的も何もなしに生起している。事物は何かの目的に向かって働いているものではないし、完全性に到達するために存在しているのでもない。だから、事物はそれ自身で見られるならよいとも悪いとも言えないし、完全とも不完全とも言えない。その意味で、価値概念は我々の頭の中にしか存在しない幻想である。我々は自分の欲望と目的の文法に支配されて意識の中に匿われていて、その外に立つことはできない。スピノザは言う。人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる。これはまさに衝動が我々にさせることであって、目的と手段という枠組みを最初から取っ払うこと等できはしない。もちろん、剥き出しの自然は我々を完全性へと向かわせることを目的に存在しているわけではない。事物そのものに備わった価値など幻想であり、価値はたかだか我々の欲望に相対的な影響に過ぎないと分かりきっていても、我々は価値や目的について語るし、また、語るべきであるとスピノザは考える。我和は衝動をおのが欲望された目的として生き、それ以外に生き方を知らない。こうして、最大教徒の欲望をもとに、「真の善」「最高善」が定義される。

つまり、「最高善」とは、自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓を享受することであり、「真の善」とい、それに到達するために手段となり得るものである。このような最高善の実現が究極の目的であり、この実現につとめることが最高の幸福である。この「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」が何なのか、そしてそれが純粋享楽を得させる「永遠無限なるもの」とどういう関係にあるのか、それが求めるべき解である。

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