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2012年5月

2012年5月30日 (水)

あるIR担当者の雑感(65)~株主総会の報告事項って変だと思わない?

私の勤め先は中小企業なので、事務職はいくつもの業務を兼務でやっています。私も、IRだけでなく株主総会に関することもやっています。だから、今の時期は決算、説明会、株主総会と続けて大きなイベントが続きます。そのため、話題がたまにIRとも関係が薄いところにも飛んで行ってしまったりします。

今回の表題を見て、何のことか?と思う人もいるかもしれません。株主になったことがある人なら定時株主総会の時期、多くの会社は毎年6月に株主総会の招集通知が送られてきます。その表紙、あるいは次のページに招集通知として、株主総会の日時や場所とともに会議の目的事項が印刷されています。会議の目的事項とは、いわゆる議題です。何のために会議を開くかというと何かを決めるためです。だから議題が目的ということになります。そして、招集通知を見てみると、会議の目的が決議事項と報告事項に分かれています。決議事項は議題です。では、報告事項というのは、とくに決めるわけではない、報告ですから、単に説明があって、それを聞くだけです。出席者は議事に参加するのではなくて、単なる聴衆にとどまります。で、何を報告するかというと「第○期 事業報告の内容、連結計算書類の内容並びに会計監査人及び監査役会の連結計算書類結果報告の件」とかいうことが印刷されています。言うなれば決算報告です。

と、ここまで説明を読んで、一般的な会議のイメージでちょっと違うと感じられた方もいらっしゃると思います。町内会でもクラブでも、国会もそうですが、たいていは、団体の総会というような会議の場合、一番大事な議題というのは、ほとんど全部で、年次の予算と決算の承認なのです。みんなのお金をどのように運営していくか、また、この1年間の運営の結果はどうであったか、ということはその団体の活動にとっていちばん基本中の基本です。それを参加者全員、あるいは代表が集まって議論して、その決議に従って、係が実際に運営していくわけです。それが株式会社の総会では報告されるだけで終わってしまう。これは、会社に対する権利者である株主から見れば、一番大事な議論から除け者にされていることになっているわけです。法律で、そう決まっているので、どの会社でもそうしていますが、一般常識から考えておかしいと思いませんか。

とくに、会社の不祥事が最近も大きい事件が起こって、コーポレート・ガバナンスという横文字がよくマスコミを賑わしているようなときです。企業は社外取締役をいれろだの、経営陣の専横を抑えなければならないだの、株主を向いた経営がされていないだの、色々な議論が為されていますが、そもそも、株主が会社の事業の一番基本的な事項である、予算や決算の決定から除外されているのは、おかしいと思いませんか。例えば、国会で予算や決算の委員会というのは国会議員にとって一番の花形で、これを単に報告だけで済ますなどということになったら、官僚の好き放題を許すのかという議論になると思います。これに対して、投資をしている株主が、その投資先経営者に一番基本的な事項を任せきりにして、議論から閉め出されてしまっている。

これは、経営者の側から言えば、株主が決算の否認という伝家の宝刀を持っていないわけですから、こんなに安心できることはありません。不祥事のあった大会社の株主総会で質問や追求が為されて議論が荒れることがあっても、最終的には決算や予算は報告されているわけです。もし、これが決議事項であったら、決算や予算が承認されない限り事業を進めることができないはずです。たとえば、最近の国会は予算の成立が遅れますが、そうすると公共事業等は実行できないのです。だから、株主総会が何時間かかっても、怒号にあふれても、経営はそれとは無関係に動いているのです。

しかし、これは歴史を遡ると最初からそうだったわけではないのです。今でも未公開の小さな会社では株主総会で決算承認が議題となっているのです。もともとは株式を公開している大会社の株主総会でも、決算承認は総会の基本的な決議事項でした。それが、今から30年以上前のことです。当時、総会屋とよばれる人たちが跳梁跋扈していました。彼らは企業を相手に色々に仕掛けをして稼いでいましたが、その代表的なものが株主総会を成立させ無くしてしまうといって、企業を恐喝するのです。そのとき、一番使われたのが決算承認の決議でした。要するに決算とは会社の1年間の事業活動の結果が数字となって現れたことなので、不祥事や会社のことを何でも質問できるし、追求できるのです。それに対して、納得できないから決算は承認できないという方向に総会の議論を持って行ってしまうのです。これは、会社の経営者にとって頭が痛いことだし、一般の株主にとっても迷惑なことでした。総会屋が株主総会を荒らすのは会社の問題点を指摘して企業活動を改善させていこうという目的ではなくて、経営者を困らせて後で金銭を脅し取ることが目的なのですから。それで、正当な企業活動に支障をきたすことがあっては、株主にとっても不利益です。そういう建前から、実際には経営者がやりにくくてしょうがないので、なんとか株主総会から決算承認を除外させようとして、報告事項という変なものが出てきたわけです。だから、旧商法の条文では、決算承認は原則として総会の決議事項とされていたのです。それに対して特例法という特別法をつくり、一定の手続きをへて総会で報告されれば、総会で決算承認を受けなくてもいいということになったのです。そうなれば、それは経営者にとって都合のいいことなので、すべての会社が右へ倣えでみんなやりました。そして、いつしか世帯交代により、それを当然と思う人々が現れた、というのが現在につながっている。

私は企業の側の担当者であるので、決算が報告事項であるのはありがたい限りですが、多くの担当者はありがたいとも思わずに、そのことに疑いすら抱いていません。最近の株主総会はIRの考え方を入れて、株主の質問に丁寧に答え、開かれた総会を目指す、ということになっています。が、株主の基本的な権利を認めないで、結果の決まった総会で、いくら質問に丁寧に答えても、本気で株主に向き合っているのか、と問われて、何と答えるでしょうか。また、コーポレート・ガバナンスという名目で色々な議論が行われていますが、株主が自分で会社の決算を承認する、といういうなれば一番正統的なことが議論の俎上に乗らないというのは、何か釈然としないです。そもそも論というのが、企業とはどういうものかという本質論では、なからず触れてくる議論だと思いますが。

2012年5月29日 (火)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(10)

6.永遠

スピノザの倫理は一言で言うと「強さ」の倫理である。「強い人間」は、勇気と鷹揚さでもって許してやるだけの器量がある。一切が「自然」の本性から出てくると考えられるので、不愉快なことも恨んだり気に病んだりしない。そして他人のためにでなく自分の大いなる欲望のために、憎しみ・怒り・ねたみ・嘲笑・高慢といった有害な感情を遠ざけることに努める。そういう人間はいつもできる限り正しく行おうとするが、誰かに言われてでなく自分の愉しみでそうするのである。

事物を必然的なものと見るようになれば、自ずと神を愛するようになる。しかし、スピノザの神は人格神ではない。そんな神をどうやって愛せるのか。

全ての事物は必然的であると知るとき、我々は自分が感情の原因を勘違いしていたことに気づき、感情に振り回されることがそれだけ少なくなる。それとともに、幹事用は受動的であることを止め、能動フェイズに移行し、精神は自分の力に自信と喜びを感じる。ところで、「神への愛」は愛し返しを求めない無償の愛である。なぜなら、神は人間のように感情へと刺激されることはない。無償と言っても、既に喜びが与えられている。キリスト教の愛はあの世での報酬を約束している(例えば、天国と地獄)。これは裏を返せば、愛の酬いの約束が反古になるならば、好き勝手にしてもかまわないという話になってくる。これに対して、スピノザの「神への愛」は、褒美目当てとは無縁で、今正しく行う自分の強さに喜びを得ているなら、悩まなくも神を愛していることになっている。

このあと、スピノザは「永遠」と「至福」について語る。

「『永遠』とは、永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限りでの、存在そのものと解する」

永遠なるもの、「神」を定義すると、そこから必然的に、神の存在が出てき、すべての事物の存在が出てくる。これが自己原因と内在原因ということだった。事物の現実は一つしかない、ということと、神がすべてである、ということとが、ほかには何もない、という必然性において一致している。たしかに必然性というものは時間では説明できない。永遠というと、我々は始めも終わりもない無限の時間と考えがちだが、必然性には以前も以後もない。だから、必然的にかく存在すると考えられる限り、事物の現実がいまこんなふうにあるそのことが「永遠」である。スピノザが「必然的に出てくると考えられる限りでの存在」と言っているのは、つねに「いまここに」という仕方でしか指すことのできない現実的でリアルな存在のことである。スピノザの永遠は、無限に長く存在し続けることでもフリーズした無時間世界でもない。いまそこに現実に存在していることが永遠なのである。

スピノザは認識のモードを三つに区別している。

第一種認識(意見もしくは表象的認識) 主観的な経験知

第二種認識(理性的認識)  一般法則の形での必然性

第三種認識(直観知)

個物の認識。私というものはこの世にただ一人しかいない、それは神が唯一であるということと別なことではない。こういう必然性を、この私に即して直観し、いまここにこうしている私がリアルタイムに永遠であることを直観する。そういう認識モード。「この私」は間違いなくこの世にひとりしか存在しない。未来永劫誰も私に代わることができないので、これは時間に関係なく必然的な真理、私というものの永遠真理である。私は、自分がそれであるところのその永遠真理を、いわば内側からじかに生きている。あなたはあなたであり私はこの私であって入れ替えはきかない。これは時間に関係なく真理だから、その永遠なる観念がそれぞれ神の絶対的な真理空間の中に必然的になければからない。もしそうでなかったら、あなたがあなたとして、私が私としてここに存在しているはがはないのである。スピノザはここから決定的な一歩を踏み出す。精神とは、現実に存在する身体の観念のことであった。とすれば、「身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念」は、永遠の相にもとに見られた精神自身のことであるということになる。

自分自身を二つの仕方で考えることができ、それに応じて世界も二つの仕方で見えてくる。

(1)一つは第一種の認識で、記憶や予測から自分像をつくりあげて、結局、世間的人間のひとりとして人生を送る。これは私が私であるという必然性も、その必然性がどこから来るかも知らないまま死んでしまうことになる.

(2)もう一つは第三種の認識で、自分自身を永遠の相のもとに考える。自分はこの世にひとりしかいないという必然性と、現実が一つでありそれは神であるという必然性とが同じ必然性だということを、証明の中で理解する。『エチカ』はさらに、いまそんなふうに理解できてしまうのは、汝が神の永遠なる無限知性の一部分であるからだ、という証明に進む。もし汝の知性が神の永遠なる思考様態の一部分でなかったなら、これら一連の証明を理解できているはずがない。これは証明している自分が証明されているという特異な必然性経験だ。実際に、我々はこうした二つの認識モードを混在させて生きている。それでも、混在の比率を変えていくことはできる。

今ここで既に永遠なのだから死のうがどうなろうが大丈夫。これは最強無敵の認識であって、最高の安心をもたらす。

「我々は第三種の認識において認識するすべてのことを愉しみ、しかもその原因としての神の観念がこれに伴う。」

そのわけは、第三種の認識は、神の本質によって存在を含むようなものとして自分を考えているからである。愛の定義により、原因としての神の観念を伴う喜びは神への愛に他ならない。

スピノザは人間の根源的不安が「自分を認めてほしい、いや認めさせてやる」という欲望からやって来ることをよく知っていた。しかしそれもお終いである。事物を永遠の相のもとに認識する人は、自分を絶対的に肯定する愛を世界にも自分にも監視セル。自分というものが唯一であることと神が唯一であることは簗時比類なき必然性で結ばれているという、目の眩むような栄誉を感じる。「栄光」という語はこういう映え映えとした「ほまれ」の意味である。聖書に散見する「神に栄光」という表現は間違っていないとスピノザは言う。神と同じ栄光に包まれ、永遠に大丈夫。この晴れがましくも絶対的な安心が、「至福」あるいは「自由」と呼ばれるもの、かねて使用道の求めてきた最高の幸福に他ならない。

もし完全な人間本姓というものがあるとしたら、それは「精神が全自然と有する一体的結びつきを知ること」だとスピノザは「企て」で予告していた。

今その全容が、見たこともない光景として我々の目の前にある。我々が日々見慣れている現実と寸分違わないらに、永遠の相のもとに進行する光景である。

2012年5月27日 (日)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (5)~肖像画

Mireportrait さまざまな、場面に作られているが、ミレーと言う画家は、本質的に肖像画家であったように思う。そして、実際に肖像画家として売れっ子となり成功したわけだが、ここで展示されている作品を見ていると、その理由も分る気もする。まず作品として立派であること。多分、モデルの特徴を上手くとらえて似ているものであること。巧みにモデルの美点を生かして依頼主であるモデルにも満足感を与えたであろうこと。そして、単なる肖像であることを越えて、ラファエル前派の特徴である物語を想起させるような場面や動きが描かれた人物に生き生きした生命感を与え、今にも動き出しそうな絵にリアリティを感じさせるようになっている。例えば、ここにある子供の画などは、敢えて寝顔を描いているが本人が目の前に居るような気にさせる。また、3人の婦人がテーブルでカード遊びをする作品などは、それぞれの特徴を服装やポーズ、座る位置などで巧みに表現している。おそらく、これらの肖像画は、依頼者の住居に一室に飾られ、依頼者本人が亡くなった後も、その人の思い出として代々飾られているのであろう。だから、市場に出回ったり、展覧会に出品されるものは少ないのではないか。しかし、ミレイという画家の本領は有名な『オフィーリア』のような作品ではなく、数多描かれた肖像画にあったように思う。しかも、王侯貴族ではなく、当時勃興していたブルジョワを主な対象とした、その趣味や文化に沿いながらも、唯美主義やラファエル前派の影響を受け世紀末の作り物めいた作品を丁寧に作り続けた。そして、顧客層がブルジョワということで、商品として絵画を扱った。それは、顧客のニーズというものを考慮してマーケティング的な志向を持ち、商品の品質を揃えるため大胆な試みをして時代に取り残されることは避けながらも過激になって人々から浮いてしまわないような節度は保つというバランス感覚を持っていた。つまり、マルクスが『資本論』の最初で商品の抽象性として説明していたような、商品の価値は、作り手の苦労や商品の品質などといった商品に内在する価値によるのではなく、市場で交換されるときに交換されるものとして与えられるものの価値によって量られるものだ、ということが絵画にも当てはまるようになっていた。それをミレイという画家は意識的にか無意識のうちにか消化していたと思う。それが、この画家が成功した原点もあるし、反面では限界でもあったと思う。Miregirl

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(9)

(2)神と世界を許してやること

「人間の出来ることはきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。従って我々は、我々の外にある事物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するような出来事に遭遇しても、我々は自分の義務を果たしたこと、我々の有する力はそれを避けうるとこるまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部であってその秩序に従わねばならないこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう」

ここにあるのは、「必然」というものへの一種の愛、そしてそこからくる絶対的な安心である。実際、我々は何かを真理として理解しようとするとき、必然的にこうであって別な風ではあり得ないという事柄以外に何を欲しているというのか。我々の不安や恐れは、そういう事柄以外のもの、我々がそれを生み出す原因の秩序を知らず、必ず出てくるとか出てこないとか言えない限りのもの、とスピノザは言う。だが、ことが起こってしまったなら、原因の秩序から必然的に出てきたと考えるのが道理といえる。起こらないこともあり得たと想定してみても、起こったことの理解がそれでどうなるわけでもない。起こることは私がどう想像しようと必然的に起こる。そう覚悟を決めると、期待と怖れに振り回されることは止む。

(3)人間を許してやること

不愉快なことが起こるとき、我々は排斥すべきものとして不愉快の原因を憎む。憎しみとは「外部の原因の観念をともなった悲しみに他ならない」活動力が低下しつつあるのである。我々は自分の行動を意識しながら、その行動へと決定している諸原因を知らない。そのために自分は何からも決定されない「自由な存在」だと誤って信じている。そして他人も同類だと思っているので、他人は彼自身から決定されたわざとやるものと信じ、不愉快をその他人のせいにしてしまう。さらに、我々には「感情の模倣」というメカニズムがあって、自分に似た存在、つまり他人の感情を思い浮かべただけで、自動的にその感情に染まってしまう習性がある。他人の憎しみを思い浮かべただけで同じ感情が刺激され、自分も憎むようになっている。「自由意志」の幻想と「感情の模倣」。この二つが組み合わさって、許せないでいる。このような感情は、みな悲しみの一種なので、他人を許せない間、我々の自己肯定力は低下していく一方である。

これに対して、スピノザは、無理に人間を許そう、愛そうなどとしないで、自分の感情を自然現象として理解することか必要という。私が悲しみとして経験している身体変状には、私が思い浮かべているよりも遥かに多くの原因がある。私の脳裏に刻まれた痕跡のネットワークである記憶が、連想と感情の模倣を誘導し、他人を都合の良いターゲットとして浮かび上がらせている公算が大きい。しかし、そもそも他人は、私と同じく自由原因などではなく、彼も自分の行動は意識しているがその原因は知らない。このように理解すると、理解は十全な観念による理性の能動だった。だから、感情は受動であることを止める。自分感情を説明できているぶん、実はもう他人を許している。

これは、他人のために許してやるのではない。自分自身のために許すのである。無力のしるしでしかない否定的な感情から自分自身を救いだし喜びと欲望だけから大いなる自己肯定へと向かうために、同時に、そこに向かっている証拠として「人間」を許すのである。

(4)社会を許してやること

スピノザの倫理は徹底して自己肯定を原理にしている。これを追求することは、他人を蹴落とし自己の利益ばかりを追求するエゴイズムにならないか。スピノザによれば、個体Aと個体Bがあるとする。Aの現実的本質はAの自己肯定に役立つあらゆることをAにさせ。Bの現実的本質もまたBの自己肯定に役立つあらゆることをBにさせる。AもBも同じ属性の様態なのだから、共通するものを持っているはずだ。ならばAの自己肯定に役立つことが、同時にBの自己肯定に役立つことでもある。この共通をベースにABが結合すれば、互いに有益である。我々は、生き物や事物とも一致する。しかし、このように一致の中で一番有益なのが人間、それも理性に導かれる限りにおける人間である。というのも、理性的な人間は人間本姓にとって役立つことしかしないから、そういう者同士が一致しやすい。

「神あるいは自然」の認識に携わる限り、二人が対立することはありえない。神あるいは自然の認識は自己肯定の徳に従う人々の「最高の善」である。この善を享楽する人間同士は必然的に一致し、互いに有益であろう。た゜から徳に従う人々は他人もそうなってほしいと必然的に思う。

人間は本当に自己の利益を追求すねなら、その限りで互いを最も大切にし、互いに最も多く感謝するであろう。従って、皆がまっとうに自己の利益を追求する分には基本的に何の問題もない。

以上、4つの点について見てきた。4つの点から許すというのは、現状肯定にすぎないと訝る向きもあろう。しかし、そうではない。

自己肯定の衝動は欲望としてしか意識されない。従って、哲学がなしうることはこの目的を「完全」な理想像としてはっきりさせ、「最高の欲望」に形を与えることに尽きる。従って現状を、その理想像から遠ざかっている分「不完全」だと評価するのは構わないし、当然なのである。ただ、我々から見て不完全でも、事物は現に何かができていることに変わりはない。事物の力能はいつも及ぶところまで及んでいる。それが分らないで、人は何を改善しようというのか。スピノザによれば、「完全」「不完全」とは事物そのものに宿る性質ではなく、もともと我々が同じ種類の事物を比較する時の「思考の様態」に過ぎない。真理についても、「神あるいは自然」の中ですべては真実なるものとして生じている。その点では一切はいつも等しく完全で、いかなる点においても欠けるところはない。我々が自分の衝動関心から比較するから「完全」とか「不完全」とか言っているだけなのだ。スピノザは、誰に対しても完全であるような「命令」はしなかった。たしかに、我々の評価基準から見て完全であることは望ましい。その判断は正しい。だからそうなるために、あるいはそうなってもらうために、ありったけの知恵を絞る。しかし「神あるいは自然」は、人間の願いを叶えるために存在しているのでも働いているのでもないことを忘れてはならない。事物は我々が思う完全なものになるために存在しているわけではない。それ自身で見られれば、存在する以上どんなものその都度完全である。だから、「神あるいは自然」を認識するように万人を義務付ける命令など存在しない。もしそういう認識が若干の人々にアクセスできるなら、それは望外の恩寵なのだ。

2012年5月26日 (土)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(8)

5.倫理

すべては神の本性飲む必然性から出てきて真理空間の実質を成している。我々は文字通りその一部である。その結果として、スピノザは、神にも人間にも「自由な意志」は存在しないという。スピノザは独立して働くメンタルな能力を認めない。個々の観念に含まれている肯定と否定の作用が即、意志の作用であって、「すべての意志作用は観念そのものに他ならない」意志の主体などなくても観念は観念だけでやっていける─物体が物体だけでやっていけるように。だから神にも人間にも自由な意志は存在しない。とは言っても、自由意志が存在しないと証明によって理解しても、一般には納得しにくいだろう。スピノザは、この自由意志の否定が、実生活のためにいかに有用であるかを強調している・それはつぎの点から言える。

(1)この説は、安らぎと最高の幸福を教え、正しい生き方がおのずとできるようになる効果をもたらす。(自分を許してやること)

(2)この説は、運命に振り回されない力を与えてくれる。(神と世界を許してやること)

(3)この説は、人々との社会生活に寄与する。(人間を許してやること)

(4)この説は、共同社会のために寄与する。(社会を許してやること)

このように自由意志の否定は生き方に関わり、ある種の許しとして理解できる。以下で、それぞれの点を個別に見ていく。

(1)自分を許してやること

自分を素直に愛することは意外と無図解しもので、「自分が大事」というのは利己的に見える。しかし、自分を肯定できるときほど幸福なことはない。スピノザは、それをごまかすところから道徳の嘘が始まると考える。「何人も自分以外の者のために自己の有を維持しようと努めはしない(第4部定理25)」

事物にはすべて、神の属性がある一定の仕方で表現される様態だった。そういうものに自己を否定するいわれはない。どの事物も、存在する限りは真理空間の中に結論されて出てきた肯定である。一般に、事物は皆それぞれに、それ自身の肯定であり、それをキャンセルしようとする一切に抵抗する。スピノザはこの抵抗力をコナトゥス(努力)と呼んでいる。そのものがそのものであること(自己の有)を肯定するのに役立つ全ての事柄をそのものにさせているのがコナトゥスである。その意味でコナトゥスはその事物の現実的な本質にほかならない。人間もまた。ある無限定な持続のあいだ自己の有に固執しようと努め、かつこの努力を意識している。自己肯定の衝動は我々の現実的な本質そのものである。この衝動をごまかしたら、我々は決して徳にも幸福にも行き着かないとスピノザは言う。

問題はそれをどうやって実現するかである。自己肯定はパフォーマンスを通じて実現される。デカルトは、精神が身体を自由意志で操縦している時人間は能動していると考えた。実感にはぴったりくるが、非物体的な精神と物体的な身体がどうやって作用しあうのか、メカニズムしては分らない。これに対して、スピノザは並行論なので、精神の決意と身体の決定とは同じパフォーマンスの異なる表現にすぎないと考える。精神が能動的なら身体も能動的で、能動の鍵は、自動車の走りと同様、パフォーマンスがどれだけ我々の現実的本性だけで説明できるかにある。共通なものの概念については、我々の身体の観念(精神)になっている神の志向が単独で帰結できる。それゆえ十全に知覚されるのだった。とすれば、そういう認識、つまり「理性」は、今の定義からして我々の能動である。すると、我々のやっていることは、理性的に物事を考えてやっている部分に限れば心身両面で同時に能動的で、そうでない残りの何パーセントかは心身両面で同時に受動的だということになる。こうしてスピノザは、身体を蔑視するやみくもな精神主義から逃れることができた。このように能動と受動は割合の問題なので、その比率に従い自己肯定のスケールを考えることができる。たしかに我々は全面的に決定された自然の一部に過ぎない。しかし、自分の本性の必然性だけで理解されるようなパフォーマンスに関しては、自分がやっているんだと感じ、その自分に自信を持つ。それが正しい意味での自由だとスピノザは説明する。このことは同時に、我々の感情の落ち込みと高揚を説明する。感情は活動力のバロメーターである。能動的になるとき、我々は喜びを感じ、よろこばしいものを良いと思う。とすれば、喜ぶこと、つまり自信に満ちた自己肯定の方が断然よい。そして、喜びや満足が理性的な認識から生じていて、目先の快楽や自惚れでなければもっと良い。我々が「神あるいは自然」の認識まで至り、自分のコナトゥスを神の無限の自己肯定の一部として身一つに感じられるようになったら、それは最高の「魂の平安」、安心の極致だ。「よいもの」を求める欲望は、求めるべきものの認識がしっかりすればするほど強度を増し、コンスタントになる。「目的は衝動である」目的がハッキリすれば禁欲するまでもない。逆に「最高の欲望」が他のすべての欲望を統御する基準になる。それゆえ、道徳的な迷信が何と言おうと私は私自身に全面的な自己肯定を許してやるべきである。

2012年5月24日 (木)

あるIR担当者の雑感(64)~アナリスト・レポートを書いてもらえる幸せ

私の勤め先の会社は3月決算なので、先週、決算短信を発表しました。この1年間は、スタート時点が震災や津波の大被害や原発関係等で、東半分は大混乱の状態からで、その後、円高が続いたり、総理が替わったり、欧州で金融危機になったり、タイの洪水で日本企業の操業が止まったりと、大事故や災害がこれでもかと言うほどに押し寄せた1年でした。そんな中で、産業向けの制御装置を作っている小さなメーカーが、よくも増収増益になったというものでした。それだけに、体力や気力、使い果たした感があって、次の1年は強気になかなか成れませんでした。大企業なら一気呵成に、ここぞとばかりにイケイケ状態になるのでしょうけれど。短信の業績予想は、傍からみればコンサバ、とか弱気とかいわれそうな数値しか打ち出せませんでした。でも、社内のみんな耐えて、頑張ってました。その姿を見ていると、これ以上…とはなかなか言い辛い。正直、もうこれ以上は…って思っていました。

説明会では、コンサバとか言われるのは、ある程度覚悟して。

で、先日、あるアナリストが私の勤め先についてレポートを書いてくれました。私の勤め先は、ここで何度も書いている通り、地味な中小企業なので、レポートはなかなか書いてもらえず、有名な大企業が決算発表のあとレポートが出されるのを羨ましく見ていたものでした。それが今回は、指を咥えて物欲しそうに眺めている側から、レポートを書いてもらえる側になりました。何よりも、決算を発表した後、それについて反応が返ってくるのは、何よりも、発表した手応えを感じることが出来るわけです。多分、大企業の担当者は当たり前のように思っているかもしれませんが、その返ってくるということが、如何にありがたいか、ということなのです。何でもそうなのですが、勢い込んで何かを表現しようとしたときに、それを聞いてくれる人がいるというだけで、意気込みが全然変わってくるものなのです。それを、今回、実感として味わいました。IRは企業と市場とのコミュニケーションなどと理想をいくら言ったところで、一方的に発表するだけでは空しいのです。こうやって、決算に反応してくれるということで、一方通行ではなくなっているわけです。

そして、内容を見てみると、私は会社の内部にいる人間なので、客観的に会社を見ようとしても、どうしてもできません。しかし、レポートを読むと限られた紙面のなかでコンパクトに手際よく書かれていて、こういう会社だというイメージが明確に分るのです。きっと、このレポートで初めて私の勤め先のことに触れる人も、一定のイメージを掴むことが出来るでしょう。私などはなかなか会社のことを手際よく説明することが出来なくて、悩んでいるのですが、ここまで鮮やかにやられてしまうと、脱帽以外にはありません。

そして、アナリストが独自に業績の予想をしてくれているのですが、これが、見事なまでに、会社のコンサバを嗜めるような強気の数字でした。しかし、アナリストも記名で書いているわけで、読む人には責任があるところで、会社発表の数字かなり離れた数字をあげるというのは、ある意味、とても勇気がいることのはずです。そこで、このような地味な会社に縁もゆかりもないのに、敢えてそのようなリスクを犯して、数字を突きつけてくるように見えました。それだけ、私の勤め先を評価してくれているということで、IR担当者としては、背中を押されたような気分です。こう言うのも何ですが、沢山のレポートを書いてもらえる大企業には、そこまでの有難味を感じるということは少ないでしょうし、多くの中小企業はレポートを書いてもらうことが出来ず、このような経験すらできない状態にあります。そのような中で、このような経験をさせてもらえた、というのは、そうあることではないのではないかと思います。今回、レポートを読んで、元気をもらったような気分です。社内に向けても、我々のことを期待して見てくれている人がいる、もうちょっと頑張ってみよう、と言える気になりました。

そういう意味では、レポートというのは、そもそも投資家のために書かれるものなのでしょうけれど、本当はIR担当者をはじめとした企業の人間が恩恵を受けているのかもしれないと思いました。だから、いくつもレポートを書いてもらっている会社は強いのだ、と思いました。私の勤め先も、いつかはそういう会社にしたい、そう願っています。

今回は、ベタなものになってしまいました。前回は辛辣で、今回はベタで、最近、情緒不安定です。

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(7)

無限知性の全体は真なる観念の連鎖でできているが、局所を取って「身体の観念」だけで見ると、そこで情報不足や情報切れが生じている。我々の位置にいる神の思考は、前提が欠落して残った結論だけを見ている。これはカモの中にどうやってローカルな主観性が出て来るかの説明になっている。このような状態でどうやって客観的な認識を持てるのか、スピノザは次のように説明している。主観性は局所性ゆえの情報不足や情報切れに由来する。そこで、局所性の影響を受けない何かを考えればよいことになる。例えば物質空間の一部を占めているとか、何らかの運動状態にあるとかいった、すべての事物に共通な特性があるとする。共通なのだから、それを抜きにしては神はいかなる事物の観念も生み出さないし、したがってまたいかなる身体変状の観念も結論しない。無限知性のすべての観念は、いわばこうした共通なものの単一色を帯びて生成しているだろう。ならば人間精神も、この単一色の知覚なしには何も知覚できないはずである。それゆえ、「すべての事物に共通であり、そして等しく部分の中にもあるものは、十全にしか考えられることはできない(定理38)」

「この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。なぜなら、すべての物体はいくつかの点において一致し、そしてこれらの点は、すべての人から十全にあるいは明晰判明に知覚されねばならぬからである。」

我々の身体と、日頃それを刺戟するのを常とする特定の物体との共通なものも、やはり十全に知覚されるとスピノザは言う。身体変状の観念を分析してそういう共通点を含んでいるところだけを取り出すと、そこだけは単独の身体の観念で十分に結論される・。いいでいう共通な所には情報不足や情報切れがない。つまり、つまり身体Aの観念=精神になっている神の思考は単独で共通なところを十全に理解できるようになっている。

例えば、このように考えることができる。器用ツウなものが何もないなら、刺激したりされたりすることもあり得ない。刺激しされるということはある種の共同作業と見ることができる。我々は椅子に座る。椅子は我々を座らせる。座るという我々の身体変状は座らせることのできる椅子の本性なしには理解することはできない。我々の身体と椅子は「座り」とでも言うべき中間相を共通なものとして共有している。我々はどんな形のどんな材質のものなら座れるか、椅子の方でも、どんな身体なら座らせるに耐えられるかを知っている。我々は、日々、多くの事物とそういう特定の共通なものを共有していて、色々なことができるようになっている。このような事物たちと共有する数々の局面で、我々は日々接する事物を理解する。事物の特性は抽象的なイメージではない。身体と何かを共有する限りで、リアルなものだ。このように自明で安定した構造が知覚されなければ、実験も観察もあったものではないだろう。我々の客観的な認識のベースにはそのような自明な「共通のもの」がある。

このように、我々は日常の経験の中にいても、客観的で一般的な概念を持つことができる。スピノザはそれを「共通概念」と呼んで、主観的な認識モードから区別する。我々の思考は、このモードに関する限り、真理空間に直に触れている。真からは真しか出てこないから、我々は共通概念をベースに「理性」を発展させることができる。すべての事物の観念には、共通の原因たる「神あるいは自然」の認識が基礎定数のように含まれている。

人間は実体ではない。もし実体でないのなら何ものかの様態であると言い切らねばならない。スピノザはその線で行き着くところまで行った。我々は未だに、人間には知性や意志、感覚といったメンタルな能力が備わって思考しているのだと言っているわけだが、スピノザにとって、そんな独立した能力は存在しない。無限知性の中で身体の観念になっている神の思考がその局所で知覚を生じていて、それに十全なものであれば非十全なものもあるというだけである。だから、我々の持つ明晰判明な観念が真である保証を、デカルトのようにその観念の外に求める必要はない。そして、これが『知性改善論』の求めていた説明であった。この世界に真理があるとすれば、世界はこうなっていなければならない。

2012年5月23日 (水)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(6)

では、その観念がその人間の「精神」だ、とはどういうことか。一般に思考の世界では、死せ浮説の真なる観念Qを理解し・結論しているのは、その事物の近接原因の思考Pである、ということになる。ところですべての思考は例外なく神が思考属性で様態化したものだった。それゆえ、スピノザ的に言うと、観念Pになっている神が観念Qを理解し・その観念Qの対象をそれとして知覚している、ということになる。そうなると、「身体の観念」が精神のように何かを理解したり知覚したりしても不思議ではない。ここで、スピノザは「考える実体」を消去していると言える。思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考しているという構図だ。

この構図とは、こう考える。まず、無限に多くの事物の「秩序と連結」がある。身体が下位の諸部分の協同パターンにスーパービーンするように、事物は他の事物を近接原因としてこの世に出てき、同時にさらに別な事物の近接原因になっている。それと同じ秩序と連結で事物の観念が生成されている。そこでは、それぞれの観念が対象事物の近接原因の認識を含む。そして、それぞれの観念は、まさにその近接原因の思考になっている神によって理解され・結論される。観念Rは観念Qによって、観念Qは観念Pによって、というように。スピノザが「無限知性」と呼んでいるものは、このようなものだ。無限知性は無限に多くの観念の連鎖からできており、そのどの部分を取っても前提→結論のような繋がり方をしている。だから神はどの連結部でも、帰結観念を前提観念の位置で理解し、そり観念対象を知覚している。実際には連鎖はこんな直線ではなくて、事物の秩序と連結と同じように枝分かれしたり合流したり、相当複雑なことになっている。その全体が一挙に、無限知性として出てきていると、スピノザは考える。スピノザの神はこんな風に観念連鎖の細部に偏在し、いたるところで知覚を生じている。

すると、我々が何かを知覚しているということは、無限知性の細部で生じているそうした局所的な近くの一部であろうと見当がつく。我々は、自分でも知らないうちに神の中に生成している身体の観念であり、それが自らその直接の前提になっているような何らかの帰結を知覚している。何を知覚しているかというと、それは「身体の変状」であろう、とスピノザは言う。

我々の身体Aが他の物体Bから刺激されて変状aを自らの内に生じる。そして、このaの認識は身体Aと物体Bの両方の認識に依存しかつこれを含む。「身体Aの観念」になっている神の思考は「物体Bの観念」になっている神の思考と一緒になって「身体Aの変状aの観念」を理解しているわけであるとすれば、身体Aの観念に局限しても、その位置で、変状aについて非十全ながら何らかの知覚が生じているだろう。言い換えると、身体Aの観念が自分の身体に生じている滋養対aを知覚していることになるだろう。それが我々の精神である。神の無限知性の中に生成している「身体の観念」、それが我々が魂だとか精神だとか言っているものの正体である。

この段階で、デカルトの心身合一という問題が解決されてしまったのが分かる。身体と精神の間の不可解な結合を想定しなくても、説明できることになる。

ここで、我々が常時自分のリアルな身体感覚を持っているという事実が説明された。次に、我々が台風の進路を予測できたりするのはなぜかという認識の問題である。

結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含むものだ。例えば、球の観念には球を理解するために半円の回転という手がかりが含まれている。そうでなければ球の作図を我々は思いつかなかった。同様に、身体変状の観念にも、その原因、すなわち身体と刺激に対する物体の両本性の手がかりが含まれて暗示されている。「人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる(定理16の系1)」身体刺激を通じて我々が物体的事物をリアルに知覚するという事実がこれで説明されたことになる。これに観念の観念による二重化が生じ、「知覚している」ということ自体が知覚される。これにより、精神は身体の変状の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。悩ましくも身体に取り憑かれた自己意識があるという事実がこれで説明されたことになる。ここで、なぜ精神は身体変状の観念に案に含まれた手がかりばかりに頼っているのだろうか。それは、結果としての事物の観念を理解しているのはそり近接原因の観念になっている神の思考だ。だから「身体の観念=精神」を理解しているのは身体の近接原因の観念、すなわち身体をスーパービーンさせる下位レベルの諸個体すべての観念になっている神の思考である。つまり精神自身は自分の身体を刺戟する物体についても理解しない。それを理解しているのは、その物体をスーパービーンさせる下位レベルの諸個体すべての観念になっている思考である。要するに、精神は身体変状を説明する客観的な原因は何も理解せずに、ひたすらその暗示だけを結果の中に見ているわけである。

2012年5月21日 (月)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(5)

4.人間

「人間」とは何か。スピノザは「神あるいは自然の属性が一定の仕方で表現される様態である」という。

スピノザの師匠筋にあたるデカルトは、人間の精神を一個の「実体」と考えた。そこには思考と延長の区別が含まれ、それが二つの難問を残すことになった。一つ目は「観念」の問題で、表現が対象物と一致する時真なる観念と言えるのだが、デカルトのいう「観念」はあくまで「私の精神」の思考様態なので、主観的な思いが思考の外にあるものと一致できない。もう一つの問題は、「心身合一」で、人間は精神と身体が一つになってできているが、思考と延長には共通点がないので、精神と身体が一つになっているという状態を考えることができない。図らずも、『エチカ』第2部は、この答えになっていると考えられる。

スピノザによれば、精神と言う存在があってそれがものを考えている、というのではなく精神などなくても、端的に、考えがある、ということになる。問題は「真なる観念」そのものであって、誰が考えようと(人間であろうと、神であろうと)同じ真なる観念だ。だから、観念を真にする対象との一致は精神の能力によってでなく、観念そのもののあり方によって説明しなければならない。具体的には、こうなる。同じものが、対象とその観念と両方の位置で表現されている、そう考えればよい。言い換えると、同じ事物が、真なる観念の中に対象化されてあるあり方と、事物自身の属性のもとで表現されるあり方、その両方のあり方をしている、考える。つまり、別々のものを精神がどう合致させるかという発想の逆を行って、事物は二つの属性のもとに二重に存在するのだから、一致するのは当然だ、と考える。

『エチカ』第2部は、この構造を説明する。神は無限に多くの属性を持っていて、そのそれぞれの属性で「我は永遠無限なる唯一実体なり」と告げているのだった。同じ実体がすべての属性のもとで表現されているのだから、「思考する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それがときにはこの属性、また時にはかの属性のもとに理解されるだけ」である。すると、実体にいわば貼り付いている様態についても同じことが言える。「延長の様態とその様態の観念とは同一の事物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」、ただそれだけのことである。

例えば、台風を考えてみる。個々の台風は「台風18号」と名付けられるように、一つの個体である。その間、台風を台風として存在させ・作用させている無数の物理的な原因があるのは間違いない。我々は到底その原因を全て辿ることはできないが、自然の方では全て辿りきって現に台風を存在させている。そして原因があるということは、なぜその台風が存在しているかの説明がある、と言うことである。たとえ、我々には無理でも、自然の方では説明が尽くされていて、台風の存在が現に結論されている。この結論、これが現実に存在する台風についての「真なる観念」である。自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。つまり、「観念の対象となっている事物は、観念が思考の属性から出てくるのと同一の必然性を持って、それ自身の属性から出て行き、かつ結論される。」(定理6)つまり、有名な「並行論」だ。

こうなっていれば、真なる観念が対象と一致しなければならないのは当然ことだ。神が制作者でないことも、はっきりする。台風を生じさせる神の力能と台風を知る神の力能とは厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということはない。神は絶対的に無限な存在だから、思考と延長以外にも互いに並行する無限な属性は無限に多くある。

結局、同じ事物Xが全属性にわたって同一の秩序と連結で、しかも属性ごとに異なる仕方で表現され、そのうちの一つの表現形式がたまたま思考であるということになる。思考属性は「何かについての思考になっている」ことだから、Xのすべての表現について観念を生み出しているだろう。しかし、正確には、観念も思考の世界の事物である。観念そのものについても「これはしかじかの観念である」という観念が生成していなければならない。これが求められていた構造であった。思考属性だけ突出して見えるが、それは思考属性が「何かについての考えになっている」という性質なのでしかたがない。延長属性が「物質的広がりになっている」という性質であるのが仕方がないのと同じである。この図式の中で、思考属性の無限様態、すなわち「無限知性」はすべての事物についての真なる考えでできており、無限知性の中にその真なる観念がないような事物は一つとしてない。全体としてそういう構造になっている。これを「真理空間」と呼ぶ。すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。

人間が真理を知り得るなら、この真理空間を説明しなければならなんない。人間も台風と同じである。Aさんの身体があるなら、その真なる観念も無限知性の中にある。問題は、この「身体の観念」が人間の「精神」だとスピノザが言っていることである。つまり、人間の身体は台風と同じく延長の有限な様態であり、他の様態から区別できる「個物」ないし「個体」である、ということだ。大気中の様々な粒子が局所において協同し、すべてが同時にひとつの結果の原因のようにふるまい始める時、そこに台風がある。同じように、様々な個体が一定の協同関係に入るとき、そこに私の身体がある。一般に、下位レベルで物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している。同じことはそれら下位レベルの構成諸部分のそれぞれにも言えるので、それらの部分なっている個物も皆、さらに下位のレベルの諸部分の協同パターンの上にスーパービーンしている。と続き、こうしてスピノザは、物質延長の全面が無数の階層を持った無限に多くの個体特性で覆われていると考える。無限知性の中にある「人間身体の観念」もしかじかの人間のこのような個体特性を内容としていると考えられる。

2012年5月20日 (日)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (4)~エステル

Mireestel 写真の発明によって、肖像画という画家の大きな生計の道が従来のままでは、成り立たなくなったときに、画家は生き残りを賭けて何をしたか。ということがこの作品よく現われていると思う。また、ミレイと言う画家がそのようなニーズを如何に的確にとらえ、巧みに応えていったかも分かる。『マリアナ』の所でも書きましたが、写真に出来ないことに特化することによって、差別化し絵画の有利性を強調するというのがそれです。現代のマーケティング戦略そのもので、私がそのような目で見てしまっているからのか、それほど、ミレイの戦略性、別の言葉で言えば政治性は際立っている。

エステルというのは聖書にでてくる古代の女性で、バビロン捕囚の後のころのユダヤの女性でペルシャ王の後宮に入り、王妃となってハマンによるユダヤ人虐殺から同胞を守るため、意を決してアハシュエロス王の部屋に入る場面を描いている。召されずに王に会見することは禁じられているため、エステルにとっては生死を賭けた行為であったことを活写している。

しかし、この女性の顔をよく見てほしい、およそユダヤ人には見えない。典型的なイギリス人の顔をしている。それもそのはずで、実際の実在する女性を描いている。いうなれば古代のエステルに扮した肖像画を描いているのである。写真にはできない、絵画の独自性として、具体的にここで行われているのはフィクションを描くことである。そのために空間構成や、舞台設定、小物の配置、本人の扮装などを人工的に作り上げる。これは、単にあるものを写すだけの写真にはできないことで、しかも、画面全体をそれらしくリアルに見せるために描き方で様々な工夫をしている。さらに肖像画の特性として、誰が描かれているかを明らかにするためにポーズも現実には難しい恰好をさせている。この場合も、王の部屋に入ろうとする動きと、肖像である顔が分らねばならない。それを無理のない形で画面に収める工夫と、エステルの物語性を画面に持ち込む工夫と、さらには、大理石の柱石を舞台とするというような写真では作ることが難しい画面を作っている。また、『オフィーリア』では様々な花や『マリアナ』では婚約指輪や床や卓上の落ち葉といった小物の配置に象徴性を持たせて、物語を想起させる効果を上げさせている。ここでは、髪飾りを外させ、敢えて結っていた髪を解いて、性的な隠喩と官能性を表わしたりと、様々に深読みできる記号を巧みに配置している。

また、画面での空間構成がブルジョワの居間に飾られるのに見合うようなコンパクトに構成されている。大広間ではなく、実際に生活される家屋の適度の広さの室内にちょうど収まるように、この作品では空間の一部を切り取ったような形にしていて、壁に人物が相対しているような構図のため奥行が省略できるように工夫している。さらに、白、黄色、青という原色を対立的に使い、装飾的効果をあげて、人工的な空間を作り出している。これは、当時のウォルター・ペイターやオスカー・ワイルド等による唯美主義的な芸術運動の影響とも言われている。官能的で豪奢な、ときに時代的性格が曖昧になるという特徴は、この作品にも当てはまるのではないか。同じような時代の影響をうけ、平面的な場面づくりで共通する、ロセッティの『見よ、われは主のはした女なり』やホイッスラーの『白のシンフォニー』と見比べると、ミレーの特徴が際立ってくる。例えば、ロセッティの作品が白い壁やシーツ等で全体を白を基調にして清楚な雰囲気の中で金髪や赤い小道具を部分的に目立たせているのに対して、ミレイは大理石の柱と壁で白を基調にしつつもカーテンの青とエステルが纏う黄色が平等に拮抗するように描かれていることで緊張感を与え、場面の緊迫感を高めている。さらにややもすれば、ロセッティが細部を強調するあまり全体のバランスを欠いてしまう印象があるのに対して、ミレイは全体とのバランスを考えている。一方、ホイッスラーの作品は白を基調にして清楚で静的な作品になっているのに対して、ミレイは平面的な空間でも人物に動きを与え、それを感じさせない。これを見てみると、ロセッティやホイッスラーは部分にこだわる傾向があるのに対して、ミレイは常にバランスを考えている。その点が、ミレイの作品のどれもが収まりはいいけれど、突出した強烈な個性の噴出がないという印象に通じると思う。

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(4)

「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのか永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する。(定義6)

A実体はA属性に関するすべてのリアリティ(事物性)を尽くしている。同様にB属性についてはB実体というように。これらA属性、B属性、C属性…を全部持っている実体Xを考えてみると、その実体Xはおよそありうるすべてのリアリティを尽くしていることになる。その実体Xが「神」である。つまり、「属性」とは、実体であることを察知できる具体的手がかりのことだ。そして、属性ごとに実体がどのようなものであるか分る。実体はどの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われた。であれば、どの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われるような実体Xを考えればいい。

とすれば、「神」をこのように定義しておけば、我々はすべての事物性を尽くすもの、すなわち「在ることのすべて」について説明する定理を導くことができる。これまで、属性ごとに表現されていた実体のリアリティを無限に反復・重畳し尽くしている究極のXで、実体と分る無限なるすべての顔を持つ唯一者、それが「神」なのである。

そして、「神」の存在の証明もおこなっているが、実にシンプルで、「実体の本性には存在することが属する」(定理7)ということから、実体が存在しないすれば矛盾する。ところで、神は実体である。よって「神、あるいはおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体は必然的に存在する」(定理11)というものだ。現実が間違いなくあるのなら、間違いなく存在するとか考えられないようなものでそれを説明すればよい、というものだ。これなら無神論者も同意するかもしれない。

現実は一つしかない。現実は唯一で、どこまで行ってもこれと別の現実なるものはない。「何かが存在する」と言うことと並んで『エチカ』が説明しようとしているのは、この唯一性である。

「神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない」。実際に神以外に実体が存在するとすれば、それは神の無限にある属性のどれかと同じ属性でなければならない(神は全ての属性を持っているから)。ところが同じ属性の二つの実体は存在し得ない。ゆえに神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない。ここから系として、「神は唯一である」が出てくる。「唯一」というのは、一つ二つとカウントする時の「一つ」ではない。他を絶するという意味での「唯一」である。

これで、何かがあるという時の「ある」の全域が確定されたことになる。「すべて在るものは神の内に在る、そして神なしには何ものも在りえずまた考えられない」つまり、様々な現実は全て、神の「様態」ということになる。

「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態に他ならない。」(定理25の系)様態とは定義によって実体の変状のことだった。だから個々の現実は私を含めて、神の属性ごとに変状したものだ、ということになる。当時の一般的な考え方では、世界は神がつくったということになっていた。しかし、スピノザでは「つくる」という言葉が完全に消えている。神は作らないし、事物に様態化し変状する。

つまり、神とその様態の関係も、このように考えればよい。神を神にしている本質は無限に多くの属性で表現される。つまり、おのおのの属性が「これが実体だ」と告げるまだから、属性が神的実体の実質的な定義にあたる。すると、それらの属性から無限に多くの特性が必然的に出てくるはずだ。それらの特性はみな、もちろん神において在り、神なしには在ることも考えることもできない。定義からしてそれは神の様態のことである。だから、様態は神的実体によって「つくり出される」のではなくて、神的実体の本質から、ちょうど幾何学的に特性が帰結するように「出てくる」。

「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、(言い換えればおよそ無限の知性に入ってきうるすべてのものが)出てこなければならない」(定理16)

これが神の様態化に当たる。神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではなく、神自身が幾何学なのだ。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。

「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身の身によって活動に決定されるものは「自由である」と言われる」(第1部定義7)

こうしてひとり神のみが自己原因であることになる。このようなスピノザの神は制作しないので、外から働く「超越的原因」ではない。あらゆるものの本質と存在そして動きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在的原因」である。いわゆる「汎神論」だ。

神を神であるようにしている本質は永遠で無限である。それを表現する属性から出てくる様態も永遠で無限なものでなければならない。しかし、神の無数にある属性のうち、我々人間に知られているのは「延長」と「思考」の二点である。延長属性ではまず、運動と停止、という根本規則が出てくる。いつでもどこでもおよそ物理的なものすべてに及ぶという意味で、それはたしかに無限な態様である(直接無限様態)。そしてここから物理的な無限宇宙の全体が出てくる。(間接無限様態)ここで、属性は神の本質を表現するものだったから、思考属性でも同じプロセスでなければならない。我々人間の知っている思考属性はすべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。そこでまず出てくるのが物理法則の理解(直接的無限様態)、そしてそこから変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接的無限様態)が必然的に出てくる。スピノザが「無限な知性」と呼んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことである。

2012年5月16日 (水)

あるIR担当者の雑感(63)~信託銀行って本気で仕事しているの?

私の勤め先では、自己株買いをやってきて、その結果保有自己株数が大きくなってしまいました。実は、筆頭株主が自己株なのです。消却をという意見もありますが、取敢えずは帳簿上は保有していても消却したと同じ扱いなので、そのままにしてあります。財務担当役員は、この対策に頭を痛めているようで、先日、従業員持株ESOPというスキームをやることに決めました。一応、取締役会で導入の決議をしてリリースまでしました。

このスキームに対しては、担当者個人としては疑問を持っていますが、勤め先のことなので、これ自体については言うことはしません。ただし、この目的として従業員持株会の活性化ということが挙げられます。従業員持株会を活性化させたいというのは、その会社の従業員が会社の株を積極的に買おうとしないということで、従業員から見て会社に魅力を感じていないということになるわけで、IR担当者としては、反省すべき課題であることに間違いありません。だから、本筋から言えば、従業員にとっても株を買いたいと思えるような会社、経営にすることが、本来から言えば会社としてすべきことと言えます。

さて、前置きはこのくらいにして、この従業員持株ESOPはすでに上場会社が数社やっていて、証券会社や銀行、そして信託銀行がこのスキームを開発し導入させていて、今回は、数社の競合があって結果的に信託銀行に依頼することになりました。その信託銀行は大手の信託銀行で、私の勤め先の会社では企業年金や株式事務の代行を長年にわたって委託しているところです。だいたいこのようなスキームは、実際のところ、どこの競合会社のものを取って見ても、どこも似たり寄ったりで、大きな違いはなく、選定の決め手になったのは手数料が一番安いところでした。いわゆる、受注をめぐり値引き合戦となり、一番安くしたところに発注してというわけです。どこかで、似たような状況を色々なところで見ているような気がします。

それで、その後、私も、事務上の実務に関わるので、その信託銀行の担当者と話をする機会がありました。その時に、驚き、呆れたので、今日は、そのことを書きます。彼らは、本気で仕事をしているのか。

先ず第一に、営業担当者と話した時のことです。売込みは役員に直接行われたので、私は関わっていません。取り敢えずスキームの説明をしてくれましたが、先ずその担当者が内容を理解していないことは、説明の口調で分りました。マニュアルの言葉を暗記しているだけのことは明白で、自分の言葉で話していませんでした。まあ、一応複雑なスキームなので仕方ないかもしれないと思いながら、それが、私の勤め先の会社にとって、どのようなメリットがあって、どのようなリスクがあるのか。その担当者は、説明できませんでした。勿論黙っていたわけでなく、そのスキームのメリットやリスクというものは、説明してくれました。セールス・マニュアルに書かれてある一般的なものに限っては暗記している説明はしてくれました。しかし、それ以上のこと。つまりは、その信託銀行は20年以上に亘って株式事務の事務代行をやっていて、私の勤め先の会社の株主構成の特徴やその変遷、これまでの会社の資本政策やその効果を全部見てきているはずで、現時点での会社の特徴や課題、そして、いままでの経緯などを全て把握しているはずです。そのような情報を基に、他の会社ではない、私の勤め先の会社が、どうしてこのスキームを導入することを薦めるのか、それに具体的にどのようなメリットが見込まれるのか、例えば、単純に、買った自己株を売るわけですから単純な収支を出せるはずです。リスクに関しても具体的な話ができるはずです。しかし、担当者は話すことが出来ませんでした。そればかりでなく、私の質問の意味が理解できないようでした。つまり、担当している顧客である会社のことを何も知らないから、そういう発想が出てこないようです。もし、担当している顧客のことを知ろうとする人なら、そもそもESOPのようないかがわしいものを売りつけようとは考えないだろうし、仮にセールスした場合でも、これ単独ではなくて、資本政策の視点から、ESOPと絡めていくつかの施策を複合的に実行していくように、スキームを紹介していくと思います。

私の勤め先はメーカーで、市場での競争になった場合価格競争に巻き込まれないように、付加価値をつけることに必死になっているのですが、この信託銀行の担当者は付加価値をつけるのに絶対的に有利な環境にあるのに、それを無視して価格競争で買ったことに嬉々としているように見えました。私から見ると、本気で仕事をしているように見えません。この人はただ与えられた動作を指示通りにやっているだけで、昔の言葉で言えば、ブルーカラーのワークをしているにすぎません。たぶん、この人は一生懸命やっているつもりなのだと思います。

次に、第2の点です。この事務に関して、事務担当者である私を含めて何人かの担当が、信託銀行の担当者から事務手続きの説明を受けました。説明は、もう何社も売り込んだ経験があるせいか、流暢な説明でした。そして、質問の時間になると、担当者が回答できないということが頻出しました。私の勤め先は小さな会社なので、事務部門の要員は少なく、一人でいくつもの業務を兼任します。だから深い知識はないものの、多岐にわたって業務を経験しているのが特徴です。例えば、このスキームの場合、株式にかかる会社法や金商法上の事務手続きや税務、税務といっても会社としての法人税や従業員個人の所得税、あるいは給与計算とセットで考えれば源泉徴収や年末調整、社会保険と関係してきます。それらについて、複数の分野にまたがる質問に対しては、まったく答えられないのでした。かれらは、それぞれの専門分野にたいしては、回答マニュアルがあって答えられるのですが、現場は各々の会社に特有の手法等があり、その現場の実務上の事情から出てくる質問には対応できないようでした。ても、現場の実務担当者にいわせれば、実際に現場でやるに当たって一番聞きたいことなのです。結局、現場で考えるしかなかった、というのが実感です。

たんに、この2点だけを取ってみても、顧客のことを考えて仕事をしているのか、と尋ねてみたくなります。たまたま、私が接した、この信託銀行の人がそうだったからといって、全部がそうだとは限りません。ただし、私が何人かあった人たちは、みな本気で仕事をやっているようには見えませんでした。

これは、単なる言いがかりでしかないのか、私には客観的にどうだとは言えません。しかし、失望したことは確かですし、このような人たちと、一緒に仕事をしたいとは思いません。また、私がこのようなことを書いているからといって、これは自分にも当てはまるところがあると多少の自己懐疑を含めてかいているので、このようなことに対して、自分のことを棚上げして、こういうのは嘆かわしいなどと安易に共感してしまうひととも、一緒に仕事をしたくない。なんか、こんなことを書いていると、私が嫌な奴であることを、自ら公言しているようですね。

2012年5月15日 (火)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(3)

3.神あるいは自然

『エチカ』についての説明に入る。知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられており、知性はそのことを知るのにこの観念以外、何もいらない。事態がこのようになっているためには、世界はどうなっていなければならないか。これが『エチカ』の解くべき問いである。つまり、スピノザは現に若干の真理に到達している我々の精神のようなものがこの世に存在するには、世界はどうなっていなければならないのか、と問う。この問いに対して、スピノザは大方、次のように答えようとしている。

真なる思考は、それが真であるためには、思考されている事柄と一致していなければならない。逆に、現実の中にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはない。とすれば、自らの必然性だけで全現実をあますことなく生み出している存在Xがあって、このXが同時に、自らが生み出しているというそのことを同じ必然性で思考している、と考えればよいのではないか。そうすれば、思考と存在が完璧に一致する絶対的な真理空間がそのXとともに与えられるだろう。この真理空間の中に無いような真理はないのだから、我々の真なる思考も、その真理空間の何らかの一部分を占めているに違いない。こう考えれば、ばらばらな存在の我々が、知性においては全員同じ真理に到達すると言う、ちょっとありそうもない事態の説明もつく。

そこで、『エチカ』がしなければならないことは次のことである。

(1)それ自身の有(かくあること)以外の何ものも説明のために必要としないX(神=自然?)について、概念を形成すること

(2)我々の知性YをそのXによって説明すること

(3)そういう説明から我々自身について何が言えるようになるか、見届けること

そして、『エチカ』の構成はつぎのとおり。

第1部  神について                                                     →(1)

第2部  精神の本性及び起源について                                        →(2)

第3部  感情の起源および本性について                       →(3)

第4部  人間の隷属あるいは感情の力について                           →(3)

第5部  知性の力能あるいは人間的自由について          →(3)

ここでは、まず「神あるいは自然」を追う。スピノザにとって「神あるいは自然」とは、何ゆえに働きをなすかという理由と何ゆえに存在するかという理由が同じで、その存在と同様に、その活動に何の原理も目的も持たない、とにかく何かがある。その何だか分らんがとにかく在るもの=「実有」の概念を突き詰めたものだ。ここでの「神」は公理から演繹されて、いわばどうしても出てしまう、ある種避けがたい論理的帰結でしかない。

『エチカ』は説明の体系として出来ている。理解できなければ説明ではない。理解は 半円が回転→球 というように理由ないし原因によって与えられ、その→の必然性が真理の規範である。だから、途切れない→だけで全部できているような説明が望ましい。そのお手本がユークリッドの『幾何学原論』である。ユークリッドの幾何学は、真と思われるすべての命題を「定理」として導き出せるような一個の公理理論である。「理論」は、点とか直線といった主要タームの「定義」と、「二点を通る直線は一つしか引けない」というような「公理」から成る。これら「定義」と「公理」から「定理」を演繹する手続きが「証明」と呼ばれる。証明は矢印の連鎖でできている。このように公理化された理論は、証明機械と考えてもよい。そして、『エチカ』も一個の証明機械と見なすことができる。そこから定理として演繹されてくる命題が、図形ではなく実在に関する命題であるという違いがあるだけだ。このように見ていくと『エチカ』の書き方が、ある種の仮説的実験であることが分かる。

『エチカ』では「神」は出発点ではなく、定理として導かれる。順序としては、まず実体の内実が明らかになって、実体が神と一致すると言う定理がでてくる。

まず、「実体」の定義はこうだ。

「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義3)

「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5)

この二つの定義により、何かが存在するなら、それは「実体」か「様態」か、そのいずれかで尽きることになる。これだけでは抽象的なので、これはたしかに実体だと分かる具体的手懸りを「属性」として定義する。

「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4)

例えば、リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性のようなものが「属性」、そして、同じリンゴでもいろいろ色つやが変わるので、それを「様態」というように使うことができる。このような定義と公理のセットのうちいくつかから、「実体」についての定理が導かれる。

(1)唯一性─もしこの世に「実体」が存在するなら、それはその類において唯一でなければならない。

複数のものを区別する具体的な手がかりは、定義からして属性の違いか様態の違いしかない。ところが四遺体は定義によりそれ自身では考えられないので、先ずどの実体かが決まらないと違いを云々する意味がない。今の問題はどの実体化と言うことだから、区別の手がかりは属性の違いしか残らない。ゆえに「自然の内には同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在し得ない」(定理5)A属性の実体は一つしかないし、B属性の実体は一つしかない。つまり、実体は何であれ、その類において居並ぶものなき唯一者であり、A属性・B属性といった属性はどれもが唯一性のしるしだ、ということになる。

(2)自己原因と永遠性─もし「実体」なるものが存在するなら、それは自分で゛分を存在させている、つまり「自己原因」でなければならない。

A属性とB属性を持つ実体があるとする。属性は定義からして他のものなしにそれ自身で独立に知覚される。すると、A属性とB属性はそれぞれ別個にそれ自身で考えられねばならない。当然属性の違うA実体とB実体の間に共通点はない。共通点が全くなく断絶している以上、A実体をB実体から説明することはできない。とすれば、A実体やB実体のようなものが存在するなら、それはどれも他の実体から生み出されないで存在している、つまり自己自身で存在している「自己原因」である、ということになる。さらに、必然性を含むということは。時間で説明できない存在だと言うことである。このような必然的な存在のことをスピノザは「永遠」と名付ける。

(3)無限性の証明─実体はみな必然的に無限でなければならない。

A属性を持つ実体があったとする。A実体が有限であるためには、何か他のものによって限界付けられねばならない。属性が違うと無関係になってしまうので、限界付けるものは同じA属性でなければならないだろう。するとそれはまた、必然的にそれ自身で存在するようなA実体であることになってしまう。だが同じ属性で二つの実体はありえない。ゆえに、実体を限界付けるものとはそもそも考えられず、「あらゆる実体は必然的に無限である」(定義8)

このように見てみると、「実体」と名付けられたものは、必然的にその類において唯一であり、自己原因的であり、永遠かつ無限でということになる。それは神ではないか。

そこで、次に「神」を定義する。

2012年5月14日 (月)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (3)~マリアナ

Miremariana テニスンがシェイクスピアの『尺には尺を』から引用して詠んだ『マリアナ』という詩を基に製作されたものだと言う。マリアナは難破により持参金を失ったため婚約者アンジェロに捨てられ、堀で囲まれた館で孤独な生活を送る女性で、アンジェロへの想いを断ち切れずにいる。

『オフィーリア』にせよ、『大工の家のキリスト』にせよ、この『マリアナ』にせよ、物語の一部を切り取ったような作品で、ミレイには、実際の物語に依拠していなくても、物語を連想させるような作品が多い。それは、時代のニーズというものもあったのではないかと思う。ミレイという画家は、後に確固たる地位を築き、賞賛をうけた成功者となったから、というわけではないけれど、時代を見る目というものがあったのではないかと思う。それが、いい意味でも悪い意味でもミレイの作品に特徴となって現れているのではないか。ミレイの頃の時代を、画家の生活に関連する点から考えてみると、次のようなことが言えるのではないかと思う。一番大きな点は、時代を支配する階級がそれまでの貴族階級から新興のブルジョワに代わったということではないかと思う。両者の違いを少し見ていくと、画家のあり方にたいする影響が大きいことが、具体的に想像できるのではないか。まず、大きな違いとしてブルジョワは職業に就いていたり、事業を起こしたりして自らの生活を自分稼ぎで成り立たせているのに対して、貴族は自分で稼がないということだ。つまり、貴族はブルジョワの基準でみれば始終余暇だということ、だから美術や音楽に玄人はだしで高い見識を持っていたりする。しかも、今でいう芸術家は音楽家も画家も貴族のお抱えの使用人だったケースが多い。有名な作曲家のハイドンはハンガリーの貴族エステルハージ家のお抱え楽団の楽長として多数の交響曲を作曲している。その一方で、貴族は一般庶民を支配し、貢納により生活していくために、それを民衆に納得させる必要があった。豪華な宮殿や華麗な衣装、あるいは儀式といったものは単なる贅沢ではなくて、民衆に対して圧倒的な優位を示す実際的な機能があったと言われている。そのために、装飾も不可欠で、絵画もその一部して機能を果たしていと言える。だから、貴族にとっては生存のために、画家に注文をつけ描かせていた。これに対して、画家は貴族の注文に忠実に応える職人、つまり、卓抜した技能が強く要求されたと思う。これに対して、ブルジョワは自分の職業を持ち、自分で生活の糧を稼ぐ人々であった。彼らが絵画を見るのは、主に余暇としてであって、貴族のように私生活を豪華に見せる必要もなかった。しかし、日中の大半の時間を仕事に費やすため、貴族のように芸術を嗜む時間の余裕はなかったはずだ。だから、当然素人のレベルに留まる。だから、画家は貴族の使用人して身分を保証され、うけた注文にたいしては高い技能で応え、それを評価されるということで、ある程度技能に専念できた。しかし、ブルジョワを画家を使用人として雇うことなく、注文できる見識もない。高い技能を評価することもない。となると、画家としても、貴族に対するような職人では通用しなくなる。この場合には、ブルジョワに分りやすく、余暇のニーズに応えるような作品を作って示してあげることが肝要になってくる。だから、職人に徹しているだけではだめで、企画力の比重が高くなってくる。

そして、第2の特徴として、ブルジョワが社会を担うことにより、消費社会が出現し、市場が生まれたということだ。市場でやり取りされるは、もちろん商品であり、絵画も商品としての性格を帯びることになる。市場でやり取りされる商品の特徴とは何かという、価値の抽象性とでもいうことだ。絵画というのは多大な手間と労苦によって製作される。これまでは、貴族はそういうことを理解し評価してくれたわけで、それはその絵画固有の価値ということになる。しかし、市場ではそういう苦労から切り離され、それに取引でいくらの値段が付けられるかによって価値が量られる。絵画の価値は市場で決められる、これを交換価値という、つまり、市場で需要と供給があって交換される際に価値が決められる。だから、いくら高い技能で製作された絵画であっても売れないものは価値が低いものと看做されてしまう。だから、製作する側では、いかに高い価値をつけてもらえるかは売れるという要素の比重が高くなる。そこで重要になるのは、どういう題材を扱うとかいうような企画力である。

3番目の特徴として、絵画だけに関わるだが、写真の発明ということが挙げられる。今まで、画家が苦労して時間をかけて描いていた風景や肖像を写真は一瞬にして写してしまう。しかも、本物そっくりに。時間と、写実という点で絵画は写真に敵わない。つまり、強力なライバルが出現してきた。実際、実力の差は明白なので、正面から競争したのでは絵画に勝ち目はない。そこで、写真にはできないことを、絵画の特徴を生かして生き残りを賭けて行かなくてはならない。そこでも、重要となるのは企画力ではないか。そういうことが、ミレイの当時の絵画をとりまく状況としてあったと考えられる。

そう考えた時に、ミレイの作品を見ていると、今から見ても、これまで説明してきたことに上手く対処しているなあと感心してしまう。

とまあ、ここまで書いたけれど、これだけでは空疎に聞こえる。実際の作品で、それがどのように現れているかが分らないといけない。

まず、この絵の典拠している物語の主人公であるマリアナと言う女性のポーズが、動作の途中を切り取ったものであること。このことが、当時の写真では、技術的に難しかったダイナミックな動きを画面に与えている。閉じ込められたような動きのない室内で、このような動きの途中を切り取ることで、マリアナという女性を生き生きとして描き、静的な室内環境と対照的に描き出すことによって、彼女の閉じ込められたような境遇と、そのなかで煩悶するような物語を想像させる。そこで、注目すべきはマリアナの動き、ポーズだ。腰に手を当てて、少しのけぞるような、背伸びをするようなところにある。腰に手を当てて、背中と尻をこちらに向けのけ反るようなポーズは、歌舞伎の『京鹿の子娘道成寺』の中でも見せ場に同じようなポーズがあるけれど、ひとつのクライマックスとして、意中の男性に想いを馳せ悶々とする様が現れている。例えば、亡くなった先代の中村歌右衛門の踊りは、ここで極限までのけ反ることでアクロバチックな見せ場と、少女の想いの深さを業として表現していた。これに対して、ミレイの画面では手が当てられた腰の豊かさが強調されるように大きめに描かれていて、成熟した女性であることを示している。それだけに、想う男性から遠ざけられ悶々とするにも、ほんの少し性的なニュアンスが匂う。それが豊かな腰を強調し、さらにのけ反りながら、こころもち腰が揺れるようなS字のカーブを描いていることに現われている。さらに、衣服が比較的身体にピッタリと貼り付くようで身体の線、女性の身体の曲線がなぞられる様に描かれている。それは、直接ヌード画像を描くのではなく、想像を掻き立てさせることにより、エロスを感じさせるとも言える。それは、物語が埋め込まれていることで、さらに想像を促す。一方で、直接ヌード画像が描かれているわけではないので、体面を大切にするビクトリア期のブルジョワにとって、周囲を憚ることなくこの画面に魅入ることが叶うことになる。というわけで、この作品は、ブルジョワの小市民性の中で隠された欲望のニーズに無意識のうちに応えることになっている。そのあたりの点が、ミレイの作品が当時は受け容れられ、画家が亡くなると忘れ去られたことと大きく関係しているのではないかと思う。

2012年5月13日 (日)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(2)

2.真理

目標が定まったなら、当然探求の方法が必要となる。ここで、スピノザが言う「方法」は彼独特といっていいもので、哲学の体系構築の方法というよりは、哲学へ向かう道、あるいは道そのものの探求と発見の過程だと考えた方が良い。その探求は、スピノザの場合、知性自身の浄化のプロセスの一つとなっている。

古来、哲学は真理を獲得するための学問方法を熱心に論じてきた。ちゃんとした方法が発見されれば、真理について確かなことをいうことができる。しかし、そんなやり方では真理は見つからないと、スピノザは言う。例えば、方法Mで真理が獲得できていると確かに言えるための方法Mがなくてはならず、そしてこの方法Mがそういうことを確かに言えるための方法Mがなくてはならず…というふうに無限に続く。これでは決して真理の認識に到達しないであろうと。

最初の「ちゃんとした方法が発見されるまで真理について確かなことは何も言えない」という最初の仮定に間違いがある。とすれば、ちゃんとした方法に差し当たって我々は真理を確かに知っているとしなければならない。それゆえ、スピノザは、こう言う。真なる観念の存在が、真と言えるための規範を方法に与えるのであって、その逆ではない。真理を真理と言わしめる規範はすでにそこにある。だから、この規範解明が、そしてそれだけが方法に具体的な実質を与える。方法は、真理から自生する。スピノザは、この規範の解明を進めていく。

「真理」とは何か。スピノザは「真」と言う言葉の使い方から話を始めている。「真」と言う言葉は事物の性質ではなく、もともと語りについて言われる言葉である。語られることがそのとおり実際に起こったのならそれは本当の話、すなわち真であり、もし起こらなかったら偽、これがもともとの意味であった。つまり、「真」と言われうるのは、事実と一致するからである。スピノザは、このような対象との一致を観念が真であるための「外的標識」と名指す。しかし、これだけでは不十分だ。実際には観念は一致する対象が存在しなくても真になれるし、反対に、一致しているからといって直ちに真だというわけでもない。とすれば、真であると言えるための標識は、思考の外のあるものとの関係ではなく、むしろ思考そのものの内にある。スピノザはそういう内部にある何かリアルな標識を「内的標識」と名付ける。

『知性改善論』の「虚構された観念」の分析が内的標識の解明に充てられている。スピノザは、虚構がどのような事柄について可能なのか、その限界をはっきりさせる。不可能なものを考えようとすると必ず矛盾をきたすようなものは虚構できない。また、必然的なもの、つまり別様であり得ると決して考えられないものは虚構できない。すると、虚構は、思考対象が不可能とも必然的とも知られていない間だけ生じうる。だから、虚構が生じうるとしたら、それは「可能なもの」についてでしかない。ここから、真なる思考を絵空事から区別するリアルな何か、「内的標識」が明らかになる。それは語られている事柄の必然性にほかならない。このことを知るために、思考はその思考自身以外に何も必要としない、それに事実との一致(外的標識)はいらない。むしろ事態は逆で、こういう必然性を我々の思考が知っているからこそ、一見偶然的に見える経験的事実についても何ほどか確かなことが言えるのである。ここから「偽なる観念」が何であるかも分ってくる。事柄の不可能性が、気づかれていない場合、それが偽なる観念である。だから、虚偽を矯正するには虚構を矯正するのと同じ規範を以ってすればよい。偽なる思考は自分では虚偽だと気付かないが、真なる思考によって勘違いは解消する、こうして、真なる観念が、探求の従うべき規範を与えてくれる。

(1)存在について。必然的としか考えられない事柄については絵空事はあり得ない。従って、もし存在しないと考えることが本質に矛盾するようなものが在れば、それは必然的に存在していなければならない。

(2)本質について。「樹木がしゃべる」のような事物の本質に関する絵空事は、はっきりしない観念の合成からしか生じない。必然的に別な風にあり得ないとしらけるごく単純な事物の観念から合成してそのようにことが言えるかどうかを調べることにより真偽が分かる。

(3)これらを一言で言うと、自然を認識すればするほど、それたけで我々は勝手な想像がむずかしくなる、ということである。それゆえ、「できるだけ抽象的な進み方を避けて、できるだけ早く自然の第一の要素から、言い換えれば自然の源泉と根源とから出発する」こと。これが重要である。

この(3)の「自然の源泉と根源」を理解するためには、知性が何をしているかを考えることが必要だ。概念とは何かについての思考であり、それ自体で見ると一種の「感じ」だとスピノザは言っている。これまで、真なる観念がある種の必然性の知覚だと言うことを見てきたが、この必然性の思考はどこで感じられているだろうか。

例えば、「半円が回転すると球が生じる」という命題は、「半円が回転する」という原因のところは、スピノザが言うには、好き勝手な虚構・想定である。半円がどうしても回転しないといけない必然性はない。こういう原因の虚構は非常に単純な観念からできているので、この虚構自体をベな風に勘違いする余地はない。だから結果を間違いなく導くことができる。すなわち必然的に球が生じる。これが球の真なる概念である。この必然性は、語られている事物である球を対象として成立させる必然性である。この必然性を感じているということが、語られている事物について真なる観念をもっており、そのことを知っているということだ。だから、この必然性が「内的標識」である。スピノザは、これを知性が実はそれ自身で充足した巨大な事物思考の一部分であるという可能性を示している。それは、我々が一切の事物をあるがままに知覚しているある巨大な思考する存在の局所的な一部分である、ということだ。もしそうだとしたら、我々が真偽を区別して感じる知性を持っているという事実も説明できる。そういう巨大な思考のあるものが全部そろった完全な概念として我々の精神を構成しているとき、我々は真なる観念の原因と結果の必然性を感じており、巨大な思考のあるものが部分的にだけ我々の精神を構成している時、我々は必然性の感じを失って非十全な観念を感じている。これが「自然の源泉と根源」だ。

知性とは何か。それは事物の持っている必然性を志向の必然性として感じる何かである。単純な事柄については、何の前提もなしにいきなり、真なる観念を持っていると知っている。物事を必然として捉える。必然と言うのは、将来も別様ではあり得ないと言うことだから、「永遠の相」のもとに捉えるということである。それは、必然性を捉えるためにさまざまな近接原因を想定する自由度を持っている。それがアクセス可能な完全概念には内容の大きさに様々なものがあり、その概念は自然の源泉と根源を表現する概念である。

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(1)

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筆者はスピノザの数少ない著作の中から『知性改善論』を取り上げる。スピノザは、この未完の論文を『エチカ』の入門に仕立てようとしていたらしいからだ、と言う。といっても、解説書ではない。真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いかけから始まる。それだけでは、碌でもない私探しに堕してしまうおそれがある。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界まで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的問を、その強度そのままに、非人称の世界にまで進んでいく道。それがこの『知性改善論』である。

その冒頭で、スピノザは言う。世の人々が「最高の善」として評価しているものは、結局、富・名誉・快楽の三つに帰着する。そういうものは自己目的化すると必ずや人をダメにする。このようなことは経験から分る常識で、彼が問題にしているのは、それを知っているのにあきらめきれず、いわば中途半端にそれに引き摺られている普通一般の生き方だ。そんな中途半端なものではない「最高の喜び」が可能にからないか、ということをスピノザは本気になって考える。

「最高の喜び」を享受できる究極のXをこれから探求しようというのだから、その存在自体不確実である。他方、中途半端とは言っても富と名誉はあるということでは確実である。しかし、これには際限がない。だから真剣な哲学的探究と両立はできない。そこで、スピノザは選択する。存在は確実でも初めから最高の幸福に馴染まないと確実に分っているものを捨て、存在は不確実でもはじめから最高の幸福にふさわしいと確実に分っているものを取る。これは賭けである。保証は何もない。だがやってみるだけの価値は確実にあるとスピノザは考える。

この賭けには、思わぬ余禄がついてくる。Xを探求し出すと、捨てねばならぬと思っていた世俗的善への執着が、問題にすらならない。探求の妨げにならないと分ってくる。「これこれのためにしかじかを犠牲にする」という「ため」は目的である。ある目的遂行のために我慢しなければならないと我々は考え、それを守れないなら目的遂行は難しいと考える。こういう発想は、実際に飛び込まずに岸でうろうろしている人の考えに過ぎない。スピノザは最初のところでこのことに気づかせ、飛び込んでみれば違って見えると励ましている。

ここで、「目的」について、我々は目的があってその達成に努力するという風に考えるが、スピノザはこれに先立つ衝動があって、この衝動に駆られるからこそ、我々は目的に向かっていると思い込むと言う。とすると、我々の意識はすべてをあべこべに表象している可能性がある。『エチカ』の理論で行くと、人間は自分の意欲及び衝動を意識しているが、そのように駆る原因は知らない。それで人間は自分を自由な存在だと思い、万事を目的のために行うと表象する。そしてこの衝動こそ、我々を刻々と肯定し、我々を我々自身にしている何か、すなわち、我々の現実的本質に他ならない。目的とは衝動だが、逆に衝動とは目的のこととは言えない。つまり、スピノザの言う衝動は目的とは何の関係もない。何かある事物が、それ以外の何物でもないと存在する時、そのようにその事物が自己の有に固執しようと努める力、それを努力という。これが無くなると、その事物そのものが無くなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。こうした目的なき努力が我々にもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから、衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。また、「欲望」とは意識を伴った衝動である。つまり、それ自身としては目的なき衝動を、我々は意識の中で何かを実現しようとする欲望として、いわば誤認しながら生きている。馬を餌に向かわせる衝動は餌が目的なのではなく、馬自身に対する肯定そのものである。その意味で馬は自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。

このように見て来ると、「目的」について考えを改めねばならなくなる。我々の欲望は皆、意識を伴った同じ一つの衝動である。とすれば、欲望が欲している善、実現すべき目的なるべきものは、衝動が付与する欲望の強度として理解できる。だから、例えば、ある目的のために欲望を捨てねばならぬと言う発想は間違っていることになる。従って問題は、道徳化が言い立てるように、善なる目的のために欲望を断念するということではない。とことん欲望に忠実に最大の強度を持った善を的確にマークし、その周りに他の諸々の善がおのずと編成されていくのを見届けること、これが倫理に求められる全てである。

その最大の強度の欲望とは何か。それは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望であるとスピノザは考える。

事物の世界は自然法則に従って目的も何もなしに生起している。事物は何かの目的に向かって働いているものではないし、完全性に到達するために存在しているのでもない。だから、事物はそれ自身で見られるならよいとも悪いとも言えないし、完全とも不完全とも言えない。その意味で、価値概念は我々の頭の中にしか存在しない幻想である。我々は自分の欲望と目的の文法に支配されて意識の中に匿われていて、その外に立つことはできない。スピノザは言う。人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる。これはまさに衝動が我々にさせることであって、目的と手段という枠組みを最初から取っ払うこと等できはしない。もちろん、剥き出しの自然は我々を完全性へと向かわせることを目的に存在しているわけではない。事物そのものに備わった価値など幻想であり、価値はたかだか我々の欲望に相対的な影響に過ぎないと分かりきっていても、我々は価値や目的について語るし、また、語るべきであるとスピノザは考える。我和は衝動をおのが欲望された目的として生き、それ以外に生き方を知らない。こうして、最大教徒の欲望をもとに、「真の善」「最高善」が定義される。

つまり、「最高善」とは、自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓を享受することであり、「真の善」とい、それに到達するために手段となり得るものである。このような最高善の実現が究極の目的であり、この実現につとめることが最高の幸福である。この「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」が何なのか、そしてそれが純粋享楽を得させる「永遠無限なるもの」とどういう関係にあるのか、それが求めるべき解である。

2012年5月11日 (金)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(4)

第4章 『神学・政治論』の孤独

『神学・政治論』が発表されると、無神論の書としてさんざんに非難された。論難者はリベラルな共和派のデカルト主義者であるランベルト・ファン・フェルトホイゼンからだった。フェルトホイゼンが『神学・政治論』に見たのはある種の欺瞞だった。スピノザは宗教を肯定するように見せかけながら、その実、宗教を捨てている。かれはそう感じた。フェルトホイゼンが言うには、スピノザの言う「神」は一切を不可避的な自然法則の必然性に拠って生じるような神で、ほとんど宇宙と同じようなものである。すべては必然で最後の審判の余地などどこにもない。また、教義の内容ではなく文法が大切ならば、異教徒に神や預言者がいても構わないことになる。フェルトホイゼンは「聖書は真理を教えていないし教える必要もない」というテーゼに引っ掛かっている。

スピノザは、古代の神政国家がうまくいっていた秘密は、欺瞞や策略ではなく無知にあると見ていた。モーセや預言者たちは、常に人民の潜在的暴力にさらされていたと言える。預言者たちは正義への誠実な思いだけを担保に、外の力に曝されながら、自らの言説の正しさの確信を得たのだった。預言者たちは無知で構わなかったし、事実無知だった。だからこそ、群衆の力に曝されながら彼らが無知によってなしえたことを心に留めよ、スピノザは言っているように見える。

統治が上手くいっていた当初のヘブライ人たちは、原因をしらず、自分たちに奇跡が起こったと信じた。古代ヘブライ人は自然の業はすべて神の業と信じていたから、彼らに起こったことは神の業であり、自然の法則によって起こった。そして、迷信は統治が緩み、上手くいくべき国家が危機に瀕する時に、人々が不安に駆られ神々に犠牲や請願を捧げるようになるという。宗教はこのような迷信への対処とスピノザは考えていた。このような制度としての宗教が失敗する時、迷信が蔓延るのだ。

つまり、スピノザは信者が信じるようには宗教を信じてはいない。つまり、真理性という点では全く信じていない。フェルトホイゼンはそれを欺瞞的だと言った。スピノザが宗教を信じていたというのは、心理を知る者は真理を語らぬ宗教を受け入れ、無知なる信仰を受け入れる。他者のために、そして自らの存在維持のために。神学・政治論的な全状況の中で群衆の力に曝されながら、いわば無限に遠くから「自己自身を愛するように隣人を愛する」っていうことだった。だが、こんなことを理解する人はスピノザ以外、誰もいなかった。

2012年5月10日 (木)

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (2)~両親の家のキリスト(大工の仕事場)

ミレイ初の宗教画として、発表され、当時の権威から激しく批判されたという。

Mireidaiku 大工である父親の仕事場で幼いイエス(画面中央)が手に釘を刺してしまうところを父親と聖アンナ(画面中央奥)が目にする。これは、後の磔刑になって掌に釘を打ち付けられることを暗示しているのか。幼い洗礼者ヨハネが水を持ってくる(画面右)。多分、後のキリストに洗礼を施すことを暗示しているのか。そして、中央では聖母マリアと幼いキリストが向い合い、跪く聖母の苦悶に満ちた仕種は、彼が祝福の手を挙げたときに聖母が不吉なものの予兆を嗅ぎ取ったことを意味するという。そして、当時の人々が批判したのは、この聖母が聖母のイメージとは程遠い、予兆に苦悶する憔悴しきった表情を浮かべていることで、聖なるものを理想化しないのは堕落したものと受け取られたためという。

後世から、この批判は的外れなどというのは後出しじゃんけんのようでフェアではないだろう。しかし、比較として、ムリーリョの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」を見ると、バロック期のスペインのこの作品が似たような題材を扱っているが、こっちは理想化されていると見えるだろうか。そもそも、理想化というけれど、永遠の理想というのは理念としてあるように仮想している。しかし、実際にこのような絵画で理想的な女性を形にするという場合、時代の風俗の影響による変遷にさらされているのではないかと思う。もっと下世話な美女ということになれば、時代や地域によって、実際のこういう顔というのが違ってくるのではないか。

仮に、ミレイのこの「両親の家のキリスト」を中世の修道院や寺院に飾るとしたら、そういう批判が出てきても納得できるでしょう。ここでは俗世間の欲望や葛藤から自由になって、清澄な雰囲気の中で一心に神に仕える場というわけですから。普通に生活する信者もキリスト教徒たる者、それを理想として実践していかなければならないのでしょうが、実生活では、そのようなことを言っていれば、現実の生活はままならなくなってしまう。そこで、実践的には建前と本音、オモテとウラの使い分けということが起こる。修道院とか寺院と言うのは、神に仕える場ですから、生活者が実践する建前の本音の建て前の部分だけで生活しているような、プライベートを切り捨てた全部おおやけのような世界です。そこでは、個人的な感情というのは、建前に対する本音の部分に基づくものなので抑えられる。その姿が中世の天使や聖人を描いた表情のない顔に表われているように思う。それが、人間的な表情を浮かべる、ミレイのマリアが理想化されていないと評価される理由の一つというのなら、納得性はあると思う。また、支配階級としての国王や貴族の城や邸宅の中の礼拝所に飾る場合でも、おおやけ中心に生活がつくられ、ほとんどがオープンにされている世界では、教会に準じたものとして、表情豊かなマリアを描いた絵画というのは、違和感があるのは納得できると思う。

しかし、当時の新興階級として勃興してきたブルジョワの家やアパートの室内に飾る場合を考えてみると。ちょうどこのころから私生活、いわゆるプライバシーというものが市民社会の家庭生活の成立とともに発生してきた。それ以前の君主や聖職者というのは全てがおおやけで、その生活はオープンにされていた。そうすることで支配の正当化を図ってきたと言える。例えば、フランスのベルサイユ宮殿では国王の服装は皆からみられ、食事も何を食べているか公衆の面前で摂られていた。これに対して、ブルジョワの食事は家族、あるいは親しい友人といった比較的内輪で非公開で行われた。そのため、住まいというものも、君主の城や宮殿、あるいは寺院のような原則として公開を前提にしたものではなくて、原則的に非公開な閉じたものと言えた。そのような室内で飾られる絵として、建前の世界向けに書かれたものがフィットするだろうか。プライベートな生活と言うのは、他人に見せたくない部分を多分に含んでいるもので、そこに人間的に懊悩なんかを超越した悟りきったような聖像があっても、浮いてしまうのではないかと思う。そこでニーズに応えようと言う試みとして、このミレイの「両親の家のキリスト」を見てよいのではないかと思う。

この作品を見て、第一印象として聖家族という神々しさ、というよりは家族としての親しみ易さの方を感じるのではないか。それは、まず大工の仕事場という生活感にあると思う。それは、ブルジョワというのが仕事をする、働く勤勉さというのが倫理のベースになっているからだ。大工の父親が仕事をしている周りを子供が遊びまわり母親が見守る、というのはブルジョワの家庭生活を肯定することになる。イエス・キリストというのはそういうところから出てきたというわけ。そして、その仕事場にいる家族は、普通の生活する人間と変わらないという描かれ方。このことが、君主や僧侶という普通とは違う生活をしている人から見れば、理想化されていないと映ったのだろう。だからこそ、描かれた人々に人間的な表情が必要だったと思う。

そして、もうひとつ、マリアにしろキリストにしろ、描かれた表情は単に釘による傷を痛がる子供、それを気遣う母親というだけにとどまっていないこと。ここにこの作品を批判する人々とは違う基準での理想化が行われている。しかも、それをブルジョワの家庭では理解していたのではないか、と思われることが挙げられる。マリアの深刻な表情は、単なる子供のけがを心配する母親といには、表情が重すぎる。これは、後に人類の罪を背負い十字架にかけられ、今と同じように掌に釘を打ちつけられるキリストの運命をそこに感じての表情として描き込まれているのではないか。一方キリストにしても、単にけがを母親に慰めてもらっている、にとどまらず、母親に対して慈悲深い表情を浮かべているようにも見える。つまり、当時のブルジョワの教養と信仰に対する態度がそこに反映し、画家の意図は理解されていたと思われるし、その程度まで描き込まれることに対する需要があったのではないか。つまり、単に普通の家族を描いたのではなくて、宗教的な信仰に結びつく需要も高かった。それは、ヴィクトリア調といわれるような風俗、後世からみれば取り澄ましたような道徳をやけに強調する風潮からは、ブルジョワの自負と貴族等の旧支配階級に対する対抗意識が当然あるわけです。そこでは、ある面でのエリート意識のようなものはあったはずであり、そういう人々にとって、ミレイのこの作品を見るには、ある程度の予備知識が必要不可欠という、ただし、それほど難しいことを求めているわけではないというのは、ブルジョワのエリート意識をくすぐるものであったのではないか。

そしてまた、大工と言うブルーカラーの庶民層の人々を描いているわれには、貧乏臭さとか、汚らしさのようなものはない。どちらかと言うと古代の無垢な時代というように居間に飾っても、そういう点で室内の雰囲気を壊すものでもない。

そして、描かれている人物に表情があるということは、観る側の人間にとっては、感情移入ということができ、それだけ画面の人物にリアリティや親近感を、より感じられるのではないか。例えば、マリアの表情というのは、背後にあるストーリーも分りやすいし、一種の紋切り型として、同情というような感情移入ができるのではないか。ちょうど、ハリウッド映画のヒロインに対するような形で。

それを、ミレイが意識しているかどうかは、分らない。しかし、この時代の画家は顧客としてブルジョワが有力になってきていたはずだし、何よりも絵を顧客に売らない限りは、画家の生活の糧は得られなかったはずだから。

2012年5月 9日 (水)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(3)

第3章 文法とその外部

これまでのところで、スピノザは、人が敬虔かどうかはその人が神の隣人愛の命令に服しているかどうかぎ決まるということだった。その後、敬虔か不敬虔かという問題は、何をすればその義務に反することになるか、という問題に帰着する。思考の自由が不敬虔を招くというのなら、義務違反となるそのリミットを明確にすればよい。そこで、スピノザは敬虔の文法を明確にさせる作業を進めているのである。

敬虔の文法は「正義と愛をなせ」という命令を語り方として含むのだった。これを教えないのは聖書ではない。「隣人を自分自身のように愛せ」は、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」ということだ。スピノザは、他人の権利を守るにはどうしたらいいか、神への服従の論理的な必要条件を問う。それがなければこの命令の実行もなくなり、この命令が実行されるところでは必ずそれがあるというような、今度は実行上の条件が問題となる。

スピノザは続ける。まず、各人の個々の善意には期待できない。人間本姓が自然の仕様としてそうなっている。問題は、そういう人間だがそれでも、「正義と愛をなせ」という神の命令を実行できるための条件として何が必要かということだ。それに対しては、ある強大な第三者が最高権力を以って君臨し、守るべき権利を法として宣言し、全員にこれを守らせる。そのことで保証を与えるのである。神の命令が無効とされてしまわないように、敬虔の文法は必然的にこういう最高権力の「最高」を構成する論理をふくまねばならない。「社会契約」として、スピノザはこれを扱う。「正義と愛をなせ」と教える限り、聖書も服従の必要条件としての最高権力の構成について語らざるを得ない。さもないと神の命令は宙に浮く。社会契約に相当するものが聖書にもある。「出エジプト記」でモーゼに率いられたヘブライ人たちは自己の権利を神に委譲する。神の共同体は実質的に社会契約と変わらない。その神の代理人として、神の声を聞くものとしてモーゼが代理人として、神の声を伝え最高権力を行使する。スピノザは、これを神が統治権を持つ神政国家と呼ぶ。

こう見て来れば、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」と神の隣人愛の命令で言われている他人の権利とは、国家が法に基づいて各人に許す「国民の権利」のことであり、これを守る意志が「正義」であることが分かる。なぜその法が正しいかというと、それは、契約によって最高権力の告げる法が正しいということにしてしまったからである。それは、神政国家であろうと民主的な共和国であろうと変わらない。後は、同じ論理に従って、正当に敬虔と不敬虔を語り得る文法を書き出すだけである。この同じ文法で、スピノザはヘブライ神政国家は神に統治権があったので、当然、宗教的な「神の法」は国家の法であったことになる。したがってオランダ共和国では、聖書が何と言おうと、何が正義で何が不正義か、何が敬虔で何が不敬虔かを決定する権限はまっさらの形で共和国の最高権力にある。だから、宗教的権威を持ち出して市民政府の決定に不敬虔と不服を唱えるのは、統治権を奪おうとすることであり、まさに敬虔の文法によって「反逆的な意見」と言わねばならない。

それでは、契約の論理で行けば、最高権力は最高なので何の拘束もなく、市民の自由などお構いなしに何でも好きなように命令できてしまうことになる。スピノザはそれを否定しないが、現実にはできないという。最高権力の権利は「実際に何ができるかというその力によって決定されている」という。その権利は実際に人に何かをさせることのできるその範囲にまでしか及ばない。それを越えて何でも命令できる絶対権力というのは妄想でしかない。しかし、この範囲は契約の文法では語ることができず、物理的な力の問題となる。統治権は契約の文法によってではなく「群衆の力」によって提起せされる。

最後に、思想言論の自由について、大凡次のように証明を進めていく。まず、その人の信仰が敬虔かどうかは内容の真偽によってではなく、その人の行為の正しさのみによって判定される。そして、その正しさの判定は、専ら最高権力が法に基づいて行う。しかも人間は自分で考えたり感じたりすることを止めることは本性上不可能なので、最高権力の自然権の委譲は考える自由の放棄に及ぶことはあり得ない。とすれば、各人は何を考え何を言おうが行為の上で法に従っている限り、敬虔と平和を損なっていると誰かに責められるいわれは一切ない、ということが帰結する。したがって、思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されうる。

次に、もし最高権力が宗教的勢力の圧力に譲歩して思想言論の自由を抑圧する法律を作るなら、その時から最高権力は不正を犯しているかのように見え始めるだろう。というのも、自分の信条が不敬虔だと言われることほど堪え難いものはなく、断罪された人々は意見を変えるどころかむしろ殉教者の誇りを見せるだろう。真摯さは人を感動させる。当然これは最高権力への人々の畏敬を失わせ、「群衆の力」の法則に従って共和国を危機に陥れることになる。また、たとえ最高権力の規定に従ってではなく一語も発しないように締め上げても、人々は最高権力の欲するようにしか考えないようにすることまではできない。これは物理的自然的にいってできない。人々は毎日自分の思っていることと違うことを語らざるを得なくなり、共和国においてもっとも必要な信義というものが損なわれ、敬虔をまともに受け取る人はいなくなる。従って、思想言論の自由を除去しようとすれば、同時に共和国の平和と敬虔も除去されざれを得ない。

英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠~ジョン・エヴァレット・ミレー展 (1)

このところ美術展の感想を載せていますが、ついでに以前のものを、溯って載せようと思います。

Millaisposta 2008年9月10日 BUNKAMURA ザ・ミュージアム

久しぶりに美術展に行った。当日の午後に、丸の内の三菱UFJ信託銀行の株券電子化説明会を受ける。午後4時に終わったので、迷った末、会社に帰らず、東京駅から山手線で渋谷に行く。駅前交差点の人混みでは、違和感ありあり。

夕方にさしかかった時間であったものの、美術館には、若い女性が多かった。ビジネス・スーツの中年男性は浮きまくっていた。印象派やルネサンスのような若い女性に受けるものなのか?世紀末のラファエル前派なんかはマニアックで暗めの世界というのは古いのか?

さて、その印象はというと。誠実、うまい、優等生、そんな言葉が出てくる。それが、ミレーの作品には出来不出来のムラが少なく、平均的な水準が高いが、突出したものがない、という性格を反映していると思う。19世紀大英帝国のブルジョワの枠、それがぎりぎりの境界に迫ったところまで行ったとしても…。受け取る側では、それが長所となるのだろうけれど。

例えば、ポスターにある有名な「オフィーリア」を見てほしい。ハムレットに裏切られたと誤解し、川の流れに身を投げて溺死した光景。美しい少女が未だ生きているかのように見えながら、目に光はなく、虚ろな表情になっている。力のない手には流れてきた花が絡まっている。周りには、可憐な花が咲き、まるで何かを象徴しているかのよう。画面からは、川のせせらぎか遥かに鳥の囀りが聞こえてきそうな静かさ、それは誰の目にも留まらないようなひっそりした寂しさがあらわれている。描写はリアルで、モデルがそこにいるようだ。イコノロジーでいう象徴的な小物がちりばめられている(具体的に何がどうかは判らない。不勉強のため。)。背景は細部に至るまで写実的で丁寧に描かれている。

実物は、以前に東京都美術館のテイトギャラリー展で見ていたので二回目だったが、そのときの記憶ではもっと小さいものだった。それは、全体の印象が譬えていえば箱庭のよう、スケールを感じなかったから。前にも言ったけれど、枠を跳び出すような突出したところがない。こじんまりしている。

試に、この絵を普通の家のリビングの壁に飾ったらどうだろうか。とくに絵が好きだとか、ラファエル前派のファンというのではなくて、単にリビングを飾りたいというというような、ごく普通の家で、とくに違和感なく、綺麗な絵としてリビングを引き立てるのではないだろうか。これが溺死した少女の死体を描いたものだとは、良く見なければがつかない。それが、ミレーという画家の特徴であり、魅力ではないかと思う。

ミレーが活躍したころのイギリスは、太陽の沈まないといわれた大英帝国の最盛期で、俗にビクトリア期と言われる。この繁栄を支えたのはブルジョワジーの産業資本家で、それ以前のジェントリーといわれる貴族階級にとって代わっていった。それによって、画家の生計の道も変化して行ったと思われる。つまり、画家への主な発注者であった貴族が衰弱していくのに代わって、顧客として重きを置くようになってきたのが、そのブルジョワジーと言える。どちらかという、豪放で自らの力を周囲に誇示することが必要だった貴族階級は、身だしなみや住まいなどのような自分とその周囲を飾り立てなければならず、豪華で派手なことが求められた。画家もそのために動員されたと言える。だから、19世紀までの時点で絵画のヒエラルキーとして歴史画がもっともランクが高いとされたのは、そのようなニーズによるものだったと思う。貴族の豪華な邸宅や城の大きな壁を飾るために、その貴族の事績を美化した大作の絵で飾る、というのが歴史画だから。例えば、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠』のような豪華な絵を描くことで、画家は大きな収入を得ていた。

Millaistaikan このような貴族に対して、ブルジョワジーは資本家が主な人々といえる。資本家は経済的な利潤をあげてのし上がってきたということから、貴族にはないコスト計算が主要な関心事となってくる。あるいは、貴族のような権力の誇示の必要がない。そして、ブルジョワジーの倫理のベースにはプロテスタンティズムの質実で倹約を尊ぶ精神が流れていたため、豪華な邸宅を構え、壁面を大作の絵で飾るという発想はなかったといえる。彼らは、商売上の必要からロンドンのような狭い都会に住み、貴族の館に比べれば狭いアパートに居を構えた。ただし、新興階級としての文化的な劣等感を貴族に対して持っていたことなどもあり、貴族階級の装飾であった絵画や音楽などを芸術として自分たちなりに消化していった。それに応じて、画家の新たな顧客として貴族に取って代わるようになったと思われる。いわゆる小市民とよばれる彼らの日常生活を彩るような、こじんまりした小品のような作品にニーズが移ったのではないかと思う。それと、ミレーもたくさん描いているが、肖像画を描くことが、画家の大きな収入の道だったのではないかと思う。

また、もう一つ、画家にとって大きな転機となったのは、写真の発明だったと思う。後に、写真が普及し、ピンナップというような日常生活の一場面を簡単に写真で残すことができたり、肖像写真が肖像画に代わるものとして現われると、画家のテリトリーを侵食されるわけで、画家は生き残るために、写真ではできない絵画独自のものを追求することで写真に対して差別化を図ならなくてはならなくなる。その点で、人為的な幻想世界をつくるのは写真にはできないことだった。その意味で、ミレーのやっていたことは、当時の時代のニーズを的確に捉えたものだったと言える。

これは、展覧会カタログなどには書かれていないことで、画家の内発的な動機とか、芸術的な影響関係のようなことには触れられている。私には、画家は霞を食べて生きていたわけではなく、絵を描くことで生活の糧を稼いでいたわけで、絵画には商品としての側面があったわけで、そういう面で絵画を見てしまう。つまり、この作品を金を出して買いたいと思うかという視点で。そういう点で、ミレーという画家は、とてもバランスのとれた実績を残した画家だったと思う。ただし、後世から見れば、だからこその物足りなさのようなものも感じる。

それらは、具体的な作品を見ることで考えていきたいと思う。

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(2)

第2章 敬虔の文法

スピノザの『神学・政治論』の主題は、こうだ。考える自由は敬虔も平和も損ねない。いやむしろ、それを抑圧する敬虔と平和まで破壊してしまう。このことを、ほかならぬ聖書そのものを根拠に証明する。そのためには、どのようなことが敬虔とか不敬虔と言われうるかを聖書そのものから明らかにし、次に、誰が敬虔・不敬虔の判定権を持つかを明らかにする(神学ブロック)。後半では、これを国家の最高権力の問題として論じる。公権力によって当然不敬虔として断罪される事柄とは何かという最終結論を与える(政治ブロック)。

不敬虔とは聖書に反することだとすれば、何が不敬虔と言えるかをはっきりとさせるためには、神の言葉とされる聖書を理解しなければならない。つまり、聖書をどう読むかが神学ブロックの中心問題になってくる。

聖書が神の言葉なら虚偽を語っているはずはない、聖書は真理を語っている。しかし、不敬虔とはこの信念を否定する者たちのことではない。対立する、いずれの陣営も「聖書は真なり」という前提を共有しており、それ故に理性の不敬虔という疑惑が絶えず持ち上がる。つまり、「真理は理性に矛盾しない」という公理が双方の側で相手への攻撃理由になっていた。

スピノザは、この最初の前提、聖書全体が真理であるという盲目的な前提がそもそも間違っているのではないかと考えた。聖書が真理を語っていると最初から前提すると、当然、聖書全体が真理の暗号と化す。これを理性で解釈したり、超自然的に文字通りに受け止め、どちらも真理を主張し、不毛な論争を繰り返す。実は、彼らは、自分好みの哲学を勝手に聖書に読み込んでいるだけなのだ。そこで、スピノザは、聖書と理性が対立する論争自体が間違っていると考えた。そこで、スピノザは言う。

聖書解釈で一番大切なのは、性急に「真理」を読み取ろうとしてはならないということだ。聖書が語っている「意味」を真理と混同しないこと、これがスピノザの聖書解釈の基本である。聖書は大きく見れば、歴史物語と啓示とからなる。啓示は預言者たちが語る部分である。預言者が、超自然的な光でしか理解できない不可思議な真理を語っていたとして、それは誰に対して話していたのか。預言者が説教をする必要があるのは、不信心者や冒涜者だったはずだ。そういう人にわざわざ理解できないような深遠な真理を話す必要があるのか。哲学的真理の同様である。預言者の話の聞き手である、普通一般の人々は超自然的な光ににも哲学的素養にも無縁だが、預言者が何を言おうとしたか分っていたはずである。このように、スピノザは、預言が一個の言語行為として成立できた条件を問題にする。預言の真理性ではなく、主張可能条件を問題にしたのである。

では、預言者は何を語り得たか。預言者は神の言葉を一人称で語った。「預言的確実性」と呼ばれる確信、ある発話が、これは神の言葉であると本人にも聴き手にも確信される、が成立する条件として次の三つを指摘する。

一、預言者の生き生きとしたイマジネーション

二、預言者に神から与えられた徴

三、正しいこと・よいことのみに向けられた預言者の心

ここで大事なのは、預言者たちは自分氏自身からでなく、自分の外から確信を得ていたという事だ。預言者が確信できたのは証明可能な事柄の真理ではない。そのように民に告げ、そのように語ることが神から見て正しいはずだという、自分の側に根拠のない、証明不可能で倫理的な確信、これが預言的確実性であるという。以上の主張可能条件から、スピノザは、預言者たちのメッセージが「何にもまして神を愛し、隣人を自分自身に様に愛せ」という神の命令に帰着するという。この神の命令の絶対的な正しさこそ、かれらの確信を支えていた。このような、人間がどうこうできない命令の「根拠づけなき正しさ」に聖書の神聖性を認めていた。

真の基礎はもっぱら神への服従にある。神は正義と愛をなせと命じる。これは有無を言わせぬ絶対命令であって、「事柄の真理」がどうなっていようとその正しさには関係がない。敬虔な者とは、要するにこの命令に心から服する人のことである。「各人の進行は真偽に関してではなく単に服従か不服従かに関してのみ敬虔な信仰あるいは不敬虔な信仰と見なされる」とれが聖書の論理だ。ならば、そのように服従する人なら必ず知っていなければならない事柄、必ずしも真ではないかもしれないけれど、それを知らないと服従そのものがなくなってしまうような事柄を、服従の必要条件として論理的に書き出すことができる。それが信仰の教義である。これは、知っていると言っても、何か根拠があって知っているのではない。もし知らないならば服従できているはずがないという意味で、現に服従している人なら、論理的に、必ず知っている。スピノザは、心理を語っていなければ聖書ではないという同時代の前提を解除してしまったのだ。「普遍的信仰の教義」は、それ自身の無知によって真偽の詮索から守られている。それは、ある種の文法に属する事柄、聖書の神について何か思ったり言ったりするときに万人が知ってか知らずか一致して従っている文法規則のようなものだ。だから真偽とかかわりなく「普遍的」であって、誠実なことなら異論の立てようがないのである。このように、預言者の得た確実性は「言われていること」の真理にではなく、かく「言うこと」の倫理的かつ文法的な正しさにのみ存する。だから、真理を教えることは聖書の目的ではない。したがって、神学と哲学との間には何らの相互関係も何らの親近関係もない、つまり無関係ということになる。聖書の真理か理性の真理かという不毛な論争は、偽問題として消え去る。

では、スピノザ自身は、普遍的信仰の教義を受け入れていたのだろうか。彼は教義を虚偽として否定することはしない。彼が否定するのは、預言的確実性をまるで真実の確実性のように証明できたり反駁できたりすると考えている人々の思い上がりである。「神あるいは自然」の知的認識と最大の自己肯定から生じる「よいことをしたい」という欲望、これを『エチカ』は「敬虔」という言葉で呼ぶ。敬虔な行いは理由が何であろうと敬虔である。スピノザが強調するよう、正しく行う人は、宗教におしえられてそうしようと、理性に教えられてそうしようと、隣人愛の教えに適っているというだけで等しく敬虔なのである。思想的にまったく無縁なものたちが、よき行いに関してなぜか無縁なままで一致する。それが恩寵というものであろう。それ以上に神学、哲学は、経験について何を言うべきであろうか。スピノザは、普遍的信仰の教義を受け入れる。言われている事柄が真だからではなく、その文法的正しさゆえに受け入れるのである。

2012年5月 7日 (月)

上野修「スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか」(1)

第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか

51bzyyeyz9l__ss500_ 『神学・政治論』に対する攻撃は、当初から激しかったが、そのうちでも一番激烈だったのは反動的な神学者からではなくて、当時もっともリベラルな「デカルト主義者」、哲学の自由や言論の自由の論陣を張っていた人々からのものだった。そして、禁書処分を下したオランダ政府はリベラルな市民政府だった。また、スピノザは民衆が迷信から目覚めるなどとは思ってもおらず、警戒すべき存在として捉えていた。だから、『神学・政治論』は啓蒙主義的な著作と単純に言えない。それには、当時の神学・政治論的な状況を抑える必要がある。

当時のオランダは、海に向かって開けた自由と寛容の国で、その理念のもとで、いろいろな宗派や民族がモザイク状態で共存していた。スピノザのようなユダヤ人も、受け入れられていた。一方、新進の思想を引きつけ、その発信拠点でもあった・そこに自由の実験のチャンスと試練があった。他方、過度の自由を敵視する人々も存在していた。政治的には、実利主義的な理由から共和国政府の寛容政策を支持する「共和派」と、強権的な社会の締め付けを望む「総督派」の緊張関係にあった。民衆は、総督派を大方支持していた。

スピノザが『神学・政治論』の対象としていたのは、リベラルな知識人、「デカルト主義者」たちだった。彼らは、総督派支持の神学者たちとの激烈な論争に巻き込まれていた。哲学は神学の婢ではないと論陣を張っていた。

デカルトの科学的合理主義は早くからオランダの大学に浸透していた、これに対して危機感を抱いた神学者たちは当局に働きかけデカルト哲学の締め出しを図る。両者の対立は共和派と総督派の対立でもあって、大学の枠を超えて国中を巻き込んでいき、政府の寛容政策そのものが問われる騒ぎに発展していく。形式的には神学者からの「不敬虔」、つまりデカルト主義は聖書に反するという形をとった。そのため、「理性は聖書に反するか否か」というデカルト自身が慎重に避けていた問題が表面化していた。デカルト主義者たちは、これに対して「神学と哲学の分離」を主張した。哲学は合理的に自然を追求しようとしているだけだ。聖書は神の言葉であり、自然もまた神の言葉によって創られたもので、「真理は真理に矛盾しない」のだから、理性の発見する「自然の真理」が「聖書の真理」を損なうはずがない。という棲み分けをしていた。しかし、それを突き詰めると、聖書の真理と哲学の真理が、両方とも真理であるなら矛盾しないはずで、矛盾しないように聖書をどう読めばよいのか、彼らは、それに答えることを求められるようになって行った。例えば、聖書には預言者の証言という尋常でない現象が出てくる。これを合理的思考で説明するわけだ。比喩的といっても、どこまでが比喩的か線を引くことは恣意的になってしまう。そのため、「神学と哲学の分離」は混迷する一方だった。この中で当局の見解は、哲学の自律は尊重すべきだが、聖書と両立しない場合には神学に譲るべしという、煮え切らない玉虫色のものだった。そのような状況の中で、デカルト主義に急進的な者が現れる。例えば、メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』という著作は、聖書のどこまでが隠喩かをきめるのは哲学であると主張する。これは哲学的真理が全てという結論に至るものだ。本流のデカルト主義者たちは急進化を恐れ、この本の禁書処分を当局に願い出る。しかし、彼等には急進化を抑え込む論理がない。それが神学者たちを気色ばむことになる。

一方、スピノザは、そのような急進化との関係を疑われ始める。デカルトの「良識」が、どういうわけか「不敬虔」に転化してしまう。スピノザは急進主義の隠れた中心人物のように「無神論者スピノザ」の名が囁かれる。『神学・政治論』の執筆動機は、自由に賛成していたはずのデカルト主義者たちが、動揺し危惧を抱き始めている、つまり、理性の自由を恐れ始めている人々に対しての、呼びかけだった。

「不敬虔」という事に対して、何を以て不敬虔と断じることができるのか、びくびくする前に、明確化してしまうことが必要だ。そのための根拠は聖書そのものにある。だから聖書の言葉を吟味する必要がある。

2012年5月 6日 (日)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(9)

(四)これらの命題の主語の代示の問題に対するオッカムの解答(2)

「色は視覚の第一の対象である」の主語「色」の代示に関してオッカムは、述語づけの遂行態を、述語づけの表示態へと転換させることによって命題の意味を解釈しようとする試みを提出している。

ここでオッカムが述べている述語づけの遂行態とは、「である」という動詞によって形成されるものであり、単にあるものが他のものに述語付けられているという事を表示するだけでなく、例えば「人間は動物である」「人間は走る」という事によって、一方を他方に述語づけて、述語づけを遂行している命題の形態である。これに対して、述語付けの表示態とは、「述語づけられる」とか「主語となる」といった動詞を用いて、例えば「動物は人間に述語づけられる」という場合である。この場合には、「動物」という語が実際に、「人間」という語に述語づけられることかせ遂行されていない。なぜなら、この命題において、「動物」は主語であって、述語ではないからである。この命題においては、述語づけが表示されているにすきない。オッカムは、このような述語づけの遂行態と述語づけの表示態との区別を設定することによって、言語のレベルの相違を導入していると考えられる。述語づけの遂行態、例えば「色は視覚の第一の対象である」は外界の事物についての言明である。他方。述語づけの表示態、例えば「色に、視覚の対象であることが、第一に述語づけられる」は外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示する言語、あるいは心の中の言葉である概念そのものについての言明だからである。オッカムは、この区分を導入することによって、これらの命題の主語の代示の対象を、心の外の普遍的形相・共通本性から、心の中の普遍的概念へと転換させることができもオッカム以前の人々やスコトゥスの言う普遍的形相や共通本性を外界の事物の側に措定することを避けることができたのである。

すなわち、「色は視覚の第一の対象である」という命題が文字通りに解され、もし「色」がある個物を代示しているとしたら、この命題は偽となる。なぜなら、先に述べられた如く、個々の色を主語とする、どの単称命題も偽だからである。では、オッカムの以前の人々が主張するように、「色」は外界の普遍的な形相や共通本性を代示すると解すべきであるのか。しかし、「色」が普遍的なものを代示するとしても、この命題は依然として偽である。個別的な色のみが見られるものであり、普遍的なものは感覚によって把捉されることができないからである。さらに何よりも、もし「色」が外界の普遍的な形相や本性を代示するとすれば、オッカムはスコトゥスの言うような共通本性を外界の事物の側に認めなければならなくなる。しかし。オッカムが最も避けたいことである。オッカムによれば、外界の事物の側には、個である物以外には、何も存在しないからである。そこでオッカムは、「色は視覚の第一の対象である」という述語づけの遂行態の命題を意味するものとして解釈し、この命題を、外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示している観念についての言明であるとし、「色」という語の代示の対象を、心の外の普遍的な形相や本性から、心の中の普遍的な観念へと転換させる。この述語づけの表示態「色に、視覚の対象であることが、第一に述語づけられる」においては、「色」という語は、心の中の色という観念を単純代示しているからである。すなわち、色という観念に、視覚の対象であるという観念が第一に述語づけられているということが、この命題によって意味されていることであり、このように解されるならば命題は真である。この観念色は、外界の多くの個々の色(この色、あの色)を表示し、命題の中で外界の個々の色を個体代示する普遍的な観念である。かくしてオッカムによれば、このように命題を、述語付けの遂行態から表示態へと変形して解釈することによって、心の外に普遍的な形相や共通本性の存在を認めることなしに、これらの命題を真であるとすることができる。

(五)偽リカルドゥスの反論

偽リカルドゥスは、オッカムの述語づけの遂行態を表示態に転換することによる解釈を批判し、「色は視覚の第一の対象である」という命題の主語「色」は形相的代示を行い、個々の色が共通に分有している普遍的形相・共通本性を代示すると述べている。

(六)述語づけの遂行態を表示態へと転換させるオッカムの意図

偽リカルドゥスは、スコトゥス学派に属する者であって、「人間は被造物のうちで最も優れたものである」という命題、「色は視覚の第一の対象である」という命題の主語の代示の問題を、‘多くの個物の内に共通に内在し、個物の存在を根拠づけている普遍的な形相的原理である共通本性が心の外に存在する’という立場に基づいて解釈している。すなわち偽リカルドゥスによれば。これらの命題の主語「人間」「色」は形相的代示を行っており、個々の人間が共通に有している、あるいは個々の色が共通に有している普遍的な形相・共通本性を代示している。この点で、偽リカルドゥスの解釈は、(二)で述べた、オッカム以前の伝統的な説を継承している。そして命題の主語「色」の代示に関して提出された、‘この語が共通なものを代示し、形相的代示を行っているとしても、命題は偽である。個別的な色のみが、見られるものだからである’という異論に対しては、(五)で述べた如く偽リカルドゥスは、‘共通本性はそれ自体においては個ではないが、しかし外界の実在の世界において、ある特定の個物の内に存在する限りにおいて、派生的に個である’というスコトゥスの個体化の理論を用いて答えている。

オッカムにとっては(四)でのべたごとく、このような‘多くの個物の内に普遍的原理─共通本性が内在し、個物は普遍的な原理である共通本性によって根拠づけられており、普遍的原理によって存在する’という考えこそがまさに、否定されるべきものだったのである。それゆえ、オッカムはまず最初の命題について、主語の「人間」の代示の問題に対しては、‘普遍が個物の存在を根拠づける’という普遍優位の考えを否定し、むしろ‘個物は普遍的な本性よりも、より完全である’という個体優位の思想に基づいて解答している。すなわち、もし「人間は被造物のうちで最も優れたものである」の主語「人間」が、心の外の普遍的な形相・共通本性を代示するとしたら、普遍的な人間の形相・共通本性の方が、個々の人間より優れていることになる。しかし、これは偽である。ソクラテスやプラトンといった個物の方が、普遍的な人間の形相・共通本性よりも優れているからである。それゆえ、この命題は文字通りに解されるならば偽である。

さらに、次の命題の主語「色」の代示の問題に対しては、オッカムは‘外界の事物の内うちには、個であるもの以外には何も存在しない’という彼の個体主義に基づいて議論している。もし、「色は視覚の第一の対象である」という命題が文字通りに解され、「色」がある個物を個体代示はしているとしたら、その命題は偽である。では、オッカム以前の伝統的な説、あるいは偽リカルドゥスの解釈のように、これらの命題の主語「色」は外界の個々の色が共通している普遍的な形相や共通本性を代示すると考えるべきなのか。しかし、‘心の外に、いかなる普遍的なものの存在を認めない’というのがオッカムの最も基本的な立場である。それゆえオッカムは、心の外に普遍的な形相や共通本性の存在を認めることなしに、これらの命題を述語づけの表示態へと転換して解釈し、これらの命題が外界の事物についての言明ではなく、外界の事物を表示している観念についての言明であるとする。すなわちオッカムによれば、例えば「色は視覚の第一の対象である」は、「色に、視覚の対象であるが第一に述語づけられる」という述語づけの表示態において「色」という語は、心の中の色という観念を単純代示しており、心の中の色という観念に、視覚の対象であるという観念が第一に述語づけられるということが、この命題によって意味されていることなのである。ここにおいてオッカムは、「色」の代示の対象を、心の外の対象を、心の外の普遍的な形相・共通本性から、心の中の普遍的な観念へと移行させている。かくして、オッカムが命題を述語づけの遂行態から表示態へと転換させる意図が、心の外の普遍的な共通本性を否定し、心の内のものと、心の外のものを区別することにあったのは明らかである。

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(8)

第六章 代示に関する、偽リカルドゥスとオッカムの議論

(一)代示に関する問題

偽リカルドゥスは『オッカムを反駁する論理学書』の中で、議論する。

‘単純代示が代示するものを、心の外に存在するものを、心の外に存在する普遍的な本性・形相ではなく、心の中の観念であろう’とオッカムが変更したことに関連して、「人間は被造物のうちで最も優れたものである」という命題について、次のような問題が生じる。この命題の主語「人間」は、いかなる代示を持つのか。「人間は走る」という命題のように個物(この人間、あの人間)を代示する個体代示を行っているのではない。なぜなら命題は、単純命題「この人間(ソクラテス)が被造物のうちで最も優れている」あるいは「あの人間(プラトン)が被造物のうちで最も優れている」という事を意味しているのではないからである。この命題は、‘この人間が他のどの人間よりも優れている’ということを含意してはいない。むしろ、この命題が意味しているのは、‘人間というものは、人間以外のどの被造物よりも優れている’ということである。従って、この命題の主語「人間」は単純代示が心の観念を代示しているとしたら、この命題は偽である。心の観念が被造物のうちで最も優れているとは言えないからである。では、命題の「人間」という語は、一体何を代示しているのか。 

また「色は視覚の第一の対象である」という命題に関しても同様の問題が生ずる。この命題の主語「色」が、この色やあの色といった個々の色を個体代示していると考えることはできない。なぜなら、「この色が視覚の第一の対象である」「あの色が視覚の第一の対象である」という命題はいずれも、偽だからである。さらにまた、「色」が心の観念を代示すると考えることもできない。観念は、目に見えるものではないからである。だとすると、この命題の主語「色」は、それらとは別の何か、すなわち、個々の色に共通な普遍的な形相・共通本性を形相代示していると解すべきなのか。しかし、視覚の第一の対象は個々の色であって、普遍的な色ではない。

(二)これらの命題の主語の代示の問題に関する、オッカム以前の伝統的な説

初期の代示の理論以来、命題「人間は被造物のうちで最も優れたものである」の主語「人間」は、個々の人間(ソクラテス、プラトン等)が共通に分有している普遍的な形相あるいは本性を代示しており、単純代示を持つと考えられてきた。

単純代示は三通りの仕方でありうることが、注意されるべきである。語は三通りの仕方で、その表示するものを代示することが可能だからである。(一)ひとつは、個物とのいかなる関係も示すことなしに、その表示するものを代示する場合である。(二)いまひとつは、個物との関係において、その表示するものを代示する場合である。さらに、このことは二通りの場合がある、(a)ひとつは、表示された普遍的な種の本性が現実に各々個物の内に保持され、個物に述語づけられる限りにおいて、語がその表示するものを代示する場合である。(b)いまひとつは、表示されたものが一般的に、未確定な仕方で度のものとも関わるが、しかし特定のものと同一ではない限りにおいて、語がその表示するものを代示する場合である。

また、「色は視覚の第一の対象である」の主語「色」の代示に関して、「色」は、個々の色に共通な、心の外に存在する普遍なるものを代示すると主張する。

(三)これらの命題の主語の代示の問題に対するオッカムの解答(1)

オッカムは、「人間は被造物のうちで最も優れたものである」の主語「人間」の代示の問題を、‘個物は普遍的な本性よりも、より完全である’という個体優位の思想に基づいて解答しており、このようなオッカムの解答は、12世紀以来の伝統的な考えとは全く異なっている。

オッカムは次のように主張する。もし、先の主張のように、「人間は被造物のうちで最も優れたものである」の「人間」という語が、心の外に存在する普遍的な形相・共通本性を代示するとしたら、この普遍的な人間の形相・本性が被造物のうちで最も優れたものであることになる。しかし、これは偽である。なぜなら、個物(例えばソクラテス)は、人間の形相・本性という完全性を有するだけでなく、さらにまた、個体としても完全性をも有しているのであるから、ソクラテスやプラトンといった個物のほうが、普遍的な人間の形相・本性よりも優れているからである。この個体優位の思想は、彼等自身の考えであり、それゆえ彼らの議論は彼等自身の考えと矛盾する。むしろ、この命題の「人間」という語は個体代示を持つのであり、文字通りに解されるならば命題は偽である。

2012年5月 5日 (土)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(7)

第五章 言語の階層

オッカムは、分離された意味において用いられる様相命題、結合された意味で用いられる様相命題との区分の問題を取り上げる。このような区分を設定することによってオッカムは、心の外の事物について語る言語のレベル1の命題と、外界の事物を表示し、代示するレベル1の命題そのものについて語るレベル2の命題を区別し、言語の階層というアイデアを彼の哲学の中に導入しているからである。

(一)オッカムのテキスト(『大論理学』第Ⅱ部第9、10章)の解釈

オッカムは第1章で様相命題について説明した後で、この第9、10章において様相命題の二つの区分について述べる。一つは命題の言表句あるいは不定法句が様相と共に解される場合、つまり様相命題を結合された意味において解する場合である。もう一つは様相命題の中に様相が、命題の言表句あるいは不定法句なしに置かれている場合である。オッカムは結合された意味における様相命題の心理条件を次のように述べる。すなわち、結合された意味において用いられた命題が真であることを知るためには、或る命題が必然であるために何が必要であるか、或る命題が偶然である、真である、不可能である、知られている、知られていない、信じられているためには何が必要で売るかを知るだけで十分である。

また、分離された意味における様相命題の真理条件としを次のように述べる。分離それた意味において用いられた命題が真であるためには、述語が、主語の代示するところのもの、あるいは主語の大示するところのものを指示している代名詞に適合することが必要である。すなわち、述語が、主語の代示するところのものを指示する代名詞に述語づけられることによって形成される突然命題に、ようひぅが述語づけられる。

すなわち、結合された意味において用いられた様相命題が真であるためには、言表句である命題に、様相が述語づけられることが必要である。他方、分離された意味において用いられた様相命題が真であるためには、主語が代示する外界の事物を指示して「これは~である」と言う事が必然、あるいは可能であることが必要とされる。

(二)オッカムの結合された意味における様相命題と、分離された意味における様相命題を区分した理由(1)

オッカムが、このような区分をしたのは、先ず第一に、両者の論理形式の相違によるものが考えられる。結合された意味において用いられる様相命題では、様相が命題の述語であり、「Dは必然である」という様相命題の中で様相は、言表句D全体に述語づけられる。それ故、結合された意味において用いられる様相命題においては、様相である名辞は、言表句D全体を表示する第二概念の名前であると解される。他方、分離された意味において用いられる様相命題においては、様相命題は言表句なしに解されるのであるから、様相が言表句Dに述語づけられる、様相命題の述語であることはできない。このことから、オッカムが様相命題を結合された意味において用いられる場合と分離された意味において用いられる場合とに区分する理由は次のようなものとなる。様相は第二概念の名前であり、外界の事物を表示する記号である第一概念の名前を表示する。しかるに外界の事物を表示する記号には、非複合的な名辞と、それらの名辞から複合された命題の二通りがある。従っても様相が非複合的な名辞を表示する場合と、様相が命題を表示する場合とを区別する必要がある。前者が様相命題を分離された意味において解する場合であり、後者が様相命題を結合された意味で解する場合である。

(三)オッカムの結合された意味における様相命題と、分離された意味における様相命題を区分した理由(2)

さらにオッカムは、この両者を区別することによって、言語に階層を設ける意味論的区別を主張していると考えられる。結合された意味において解された様相命題の場合には、命題の主語は単純代示あるいは質料代示を持つ。このような様相命題は、言語のレベル1に属する言表句である命題について語る、言語のレベル2の命題である。他方、分離された意味において解される様相命題の主語は個体代示を持つものであり、外貨の事物について語る言語のレベル1の命題である。前者は言表句についての言明であり、後者は外界の事物についての言明である。オッカムは様相命題を、結合された意味において解される場合と分離された意味において解される場合とに区分することによって、両者の言語の階層の相違を主張していると理解できる。

2012年5月 3日 (木)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(6)

第2部 言語と論理について

第4章 オッカムのポルピュリオス註解

オッカムは『大論理学』の中で、類、種、種差といった普遍に関するポルピュリオス『イサゴー』を註解している。彼の註解は極めて特異なものであり、かれの哲学の基本的な立場と密接に関わっている。

ポルピュリオスは、次の五つのテーゼを述べている。

1.類は種よりも本性的により前である。

2.類が除去されると、種も除去される。

3.類も種も、それらが述語づけられるところのものよりも前である。

4.種差は、事物の本質的部分である。

5.類は自らの内に、すべての種差を可能態において持つ。

(一)類は種よりも本性的により前である

オッカムの解釈の特徴は、このポルピュリオスのテーゼの持つ存在論的意味合いを取り去り、このテーゼを論理的観点から解釈し直した点にある。オッカムが第一に主張するのは、類は外界の事物の本質に属するものではないという事である。むしろ類は外界の多くの個物に述語づけられ、それらを表示する心の中の概念なのである。同様に種も心の中の概念であり、何であるかという点に関して外界の多くの個物に述語付けられ、それらを表示するけれども、しかし外界の事物の本質に属するものではない。類と種は、表示の仕方においてのみ異なるのである。

このような考え方のもとで、オッカムはポルピュリオスのテーゼを次のように解釈する。この類と種の間に成立する序列は、これまでしばしば外界の事物の側の秩序、すなわち外界の事物の諸部分の存在論的な序列を意味するものとして誤って解されてきた。しかし、こうした類と種の序列は、外界の事物を表示する記号である概念どうしの関係と理解されるべきなのである。このテーゼが意味しているのは、類である概念は、種である概念よりも本性的により前であるということに他ならない。しかしそれは、心の中の種概念の存在は、類概念の存在を前提にしているという意味で、類が種よりも本性的により前であると言われているのではない。なぜなら、種概念が、類概念の存在なしに、心の中に存在することはあり得ることだからである。そうではなくて、より前にということは、より共通であるが故に、より多くの事物に述語づけられうるという意味に解されるべきである。すなわち、オッカムによれば、「類が種よりも前である」とは、存在論的な意味でより前なのではなく、論理学的な意味でより前なのである。このポルピュリオスのテーゼは、類が種よりもより共通な概念であり、種よりもより多くの事物を表示する記号であることを言わんとしている。

(二)類が除去されると、種も除去される

オッカムの解釈、ポルピュリオスの伝統的な解釈に反している。中世の伝統的な解釈では、種は類に実在的に依存するという意味に解されてきた。しかしオッカムの解釈によれば、このテーゼは、純粋に心の中の概念どうしの間の論理的な関係を意味するものとして解されるべきなのである。さらに、オッカムによれば、「類が除去されると、種も除去される」というポルピュリオスのテーゼは、もし類が消滅するならば必然的に種も消滅するという意味に解されるべきではない。なぜなら、たとえ「動物」という類概念が私の心の中に存在することを止め、消滅するとしても、しかしだからといって必ずしも、「人間」という種概念が私の心の中で存在することを止めるとは限らないからである。むしろ。このポルピュリオスのテーゼは、論理的な除去の意味で、すなわち、類の否定から種の否定への推論は妥当であるという意味に解されるべきである。

(三)類も種も、それらが述語づけられるところのものよりも前である

オッカムは次のような解釈をしている。このテーゼは、存在において類は種よりも本性的により前であり、さらに種は個物よりも本性的により前である、という意味に解されるべきではない。なぜなら、オッカムによれば、類も種もいずれる心の中の概念であり、そして外界の個物はたとえ心が存在していなくても存在することが可能であるが、他方類や種は心が存在してなければ、存在することが不可能なのだから、存在においては個物の方が、類や種よりも前だからである。むしろ、ポルピュリオスの言う「類も種も、それらが述語づけられるところのものよりもより前である」というテーゼは、個物と類と種との間の推論の論理的関係を意味するものとして解されるべきである。すなわち、「類も種も、それらが述語づけられるところのものよりもより前である」と言われているのは、個物から類や種への推論は妥当であるが、その逆の推論は妥当ではないからである。

(四)種差は、事物の本質的部分である

先ず第一に、オッカムは、種差が外界に存在する事物の本質に属する部分であることを否定する。オッカムによれば種差は、①心の中の概念であり、それゆえ、②事物の本質的部分そのものではなく、むしろ事物の本質的部分を表わすものなのであり、③それは、事物の形相的部分そのものではないが、しかし定義の中で、形相と類似の役割を果たす部分であることから、類比的に「事物の本質的部分」と呼ばれるのである。

ここで、「種差が事物の形相的部分である」という命題について、オッカムによれば、種差が外界の事物の内に存在するものであることを意味しているのではない。むしろ、種差は心の中の概念であり、事物の定義の内に置かれるものなのである。もし誰かが、ではなぜ種差は「形相的部分」と呼ばれるのかと問うならば、オッカムは次のように応える。その理由は、種差はすべて、それが定義の内に置かれるならば、形相の如きものとして働くからである。定義の中での種差の役割は、外界の事物における形相の役割に比せられる。なぜなら、事物において形相は、先在する質料を前提とし、それに付け加えられるものであり、それとちょうど同じように、定義において種差は常に類に付け加えられるものだからである。

(五)類は自らの内に、すべての種差を可能態において持つ

ポルピュリオスは「類(動物)は自らの内に、すべての種差(理性的)を可能態において持つが、現実態においてしどれ一つ持たない」という。オッカムの解釈は、ここでの‘可能態において’‘現実態において’という表現は、事物の実在的関係を意味するものではない。むしろ、これらの表現は類と種差の論理的関係を意味しているものとして解されるべきである。それゆえ、ポルピュリオスが「種差は、類のうちに可能態においてある」と述べた時に、このポルピュリオスのテーゼが意味していることは、種差は類に全称命題の形式においてではなく、特称命題の形式において述語づけられるということに他ならない。‘可能態において’という表現は、論理学と実在的学とにおいて同名異議的に用いられているのである。オッカムは両者の相違を明確にする。

これらのポルピュリオス解釈において、オッカムは次のことを意図している。第一は、類や種や種差が外界に実在的に存在する事物の本質に属するものでないことを強調することである。オッカムによれば、類や種や種差はむしろ、外界の多くの事物を表わし、表示する心の中の概念である。ここにおいてオッカムは、類や種や種差を心の外から、心の内へと移行させている。第二に、オッカムは、ポルピュリオスのテーゼから、存在論的な意味合いをできるだけ取り除き、存在についての議論を、言葉の側に属する論理についての議論へと転換させて解釈することを提案している。オッカムはこれらのテーゼを論理的な観点から解釈しようと試みている。オッカムが、このような解釈を提示していることに、心の内の言葉と、心の外のものを明確に区別しようとする彼の哲学的意図を見ることができる。

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(5)

第3章 エギディウス・ロマヌス等‘moderrni’達の量独立説に対するオッカムの批判

(一)エギディウス・ロマヌス達の量独立説

エギディウス・ロマヌスは、『キリストの身体についての諸定理』で「量独立説」を主張した。量独立説は、①量は実体や性質から独立し、それらと実在的に別なものとして存在するものであり、②量は実体を基体としてその内に存在し、更に量は実体と性質との間を媒介して、性質やその他の付帯性の基体となると主張する。すなわち量独立説に基づくならば、拡がりは実体に内属し、物体の性質を担っているものである。それゆえ、実体は拡がりそのものではなく、拡がりの基体なのであり、同様に性質も拡がりそのものではなく、拡がりを基体としてその中に存在するものである。例えば、この木や白さは自らによって分割可能なものなのでも、ある拡がりを持つものでもない。まさに「量」と呼ばれる、それらとは実在的に全く別なものによって、そのようなものなのである。

(二)量独立説に対するオッカムの批判

量独立説に対してオッカムは、外界に他から独立して、他と別なものとして存在するものは実体と性質のみであり、量は実体や性質と実在的に別なものではないと主張し、次の2点で批判している。量独立説によれば、形や色といった性質は量(拡がり)を基体としてその内に存在すると主張する。量が第一に実体に受け入れられ、その他の物体的諸性質は直接には量を基体として、その内に存在する。例えば、形や色といった性質は直接には量の内に存在するのであり、量を媒介にすることによってのみ実体の内に存在するのであり、量を媒介にすることによってのみ実体の内に存在する。このような量独立説の主張に対して、オッカムは次のように批判する。もし量独立説に従うならば、実体以外のものである量が、最初は白く、その後で黒いというように、反対なものを受け入れることになる。しかしこれは、実体のみが反対なものを受け入れると述べたアリストテレスに反する。

第2点目の批判として、オッカムはたとえ実体や性質と実在的に別なものとして量の存在を措定しなくても、実体は相互に隔たりを有する諸部分を持つことができ、それ自体で量的なものである。それゆえ、量は不要であると主張する。

オッカムは、このように量独立説に反対し、実在的には量は実在的に実体や性質から独立し、それらと別なものとして存在するものではないと主張する。実体は自らの実体的諸部分によって量的なものであり、性質も同様だからである。オッカムによれば、この方がアリストテレスの考えに従うものであり、それゆえ、アリストテレスの実体、性質、量という区分は、心の外のものの側の区分ではない。ではなぜ、それらの範疇は互いに異なるのか。その理由は、「量」と「実体」、「量」と「性質」は実在的に異なったものを表示しているのではなく、その表示の対象は同じであるが、その表示の仕方が異なっているからである。オッカムによれば、実体、性質、量の区分は心の外のものの側の区分ではなく、ものを認識する心の概念・言葉の側の区分なのである。

(三)「関係はparva resである」と主張するするmoderniの説に対するオッカムの批判

さらに関係も、実体や性質のように他から独立して存在するものではないが、しかし他から独立して存在する事物とは実在的に別な小さなもの・存在性として心の外に存在するとmoderniは主張する。例えば、彼らの見解に従うならば、実体Aと実体Bとの間に親子関係が成立している場合、これらA、B以外に、何らかの小さな存在性がAとBの内に存在していなければならない。

スコトゥスによれば、関係は、それを基礎づけ、それを構成する項である独立して存在する事物は実体A、Bと実在的に別なものとして、心の外に存在するものである。なぜなら、関係が成立することなしに、実体A、Bのみが存在することが、少なくとも論理的に可能だからである。例えば、この世界が唯一つしか白い事物が存在しないとしたら、この白い事物・実体Aは類似という関係を持つことなしに存在する。しかるに、一方が他方のものなしに存在することが可能ならば、一方のものは他方のものと実在的に同じではない。それゆえ関係的存在は、独立して存在し得るものである実体A、Bと実在的に別なものである。すなわち、スコトゥスによれば、関係(類似性、主人性、奴隷性、父性、子性等)は、実在的な付帯性であり、それらが実体A、Bに付け加わることによって、AとBとの間に関係が成立する。

これに対して、オッカムは①関係は、心の外に存在するものではなく、外界の事物を表示する第二の概念の名前である。心の外には、実体と性質以外のいかなるものも措定されるべきではない。それゆえ、アリストテレスが『範疇論』や『形而上学』で行っている実体、量、性質、関係、能動、受動といった範疇の区分は、心の外のものの側の区分ではなく、語あるいは心の中の概念の側の区分である。②従ってmoderniのように、量は実体や性質と実在的に別なものであり、また関係も実体や性質と実在的に別なものである。それゆえ実体、性質、量、関係、能動、受動といったように多くの、相互に全く別なものが心の外に存在すると考えるべきではない。③さらに、語が多数の範疇に区分される、それゆえ語に対する外界のものも多数に区分されると考えられるべきではない。これらのことから、オッカムは、実体と関係はそれぞれ実在的に別なものなのではなく、両者は実在的に同一なものである。なぜなら、外界に存在するのは実体と性質のみであり、moderniの主張するような関係的な存在というものをオッカムは認めないからである。オッカムによれば、実体の範疇に属する語と、関係の範疇に属する語は同一のものを表示するものであり、ただその表示の仕方が異なる。

2012年5月 2日 (水)

渋谷克美「オッカム哲学の基底」(4)

3.スコトゥスとオッカムの論争(三)─普遍概念に対応する何かが、心の外の実在的事物の側に存在しなければならない

スコトゥスは次のように主張する。もしオッカムのように、<数的な一>以外にいかなる一も認めないとするならば、個物A、B、C、D、…の間の相違は全て、単に数的な相違は全て、単に数的な相違、すなわちこのものとあのものとの相違のみであることになり、ソクラテスもプラトンもロバも図面に引かれた線も、等しく異なっていることになる。しかし我々は、ソクラテスとプラトンを認識し、それから、例えば「人間」という普遍的概念を抽象する。あるいは、「ソクラテス」や「プラトン」といった個々の事物を表示する名辞以外に、我々は「人間」、「動物」…といった普遍的名辞を用いる。だとすると、このような普遍的概念の抽象、普遍的名辞の使用を正当化する根拠である何かが、心の外の実在的事物の側に存在しなければならない。さもなければ、普遍的概念はすべて虚構であることになるであろう。それゆえ、<数的な一>以外に、普遍的な共通本性の持つ<一>の措定が必要とされる。

これらの主張は、‘事物を認識して、正当にある概念を取り出すことができるとすれば、その概念に対応する何らかの存在性が心の外の実在的事物の側になければならない。さもなければ、心の内に形成された概念はすべて虚構であることになる。’と考えるスコトゥスの思考法の特徴をよく表している。知性がソクラテスとプラトンからある共通な概念を抽象することができるのは、ソクラテスとプラトンの間にある類似関係が成立しているからである。では、なぜ、ソクラテスとプラトンの間に、ソクラテスと白色、あるいはソクラテスと線の間には成立しない類似関係が成立しているのか。スコトゥスは次のように応える。その理由は、ソクラテスとプラトンとに、彼等の本質的実体を構成するものとして、人間性という共通本性が存在しているからである。我々の知性は、個々の個物から、この共通本性を抽象し「人間」という普遍概念を持つ。従ってスコトゥスによれば、知性の働きを可能にし、更に普遍的概念や名辞の使用を正当化する根拠として、心の外の事物の側に共通本性が存在していなければならない。「人間」という普遍的な名辞は、この共通本性・普遍的実体を表示する。

このような議論から、スコトゥスの共通本性・個体化の議論はつぎのようなものとなる。例えば、この白さという一つのものの内に、完全性の相違が存在し、複数の存在性が見出される。すなわち我々はこの白さから「色」という類概念を取り出すことができるのであるから、類概念に対応する何らかの存在性がこの白さの内にある。さらに我々はこの白さから、種的差異の概念を取り出すことができるのであるから、種差の概念が対応する何らかの存在性がこの白さの内にある。これらのうち、種差の存在性は類の存在性に対して、現実態が可能態に対するごとき関係にあり、種差の存在性が類の存在性を限定し完成する。スコトゥスによれば、このような完成の究極が個的存在性・個体的差異であり、そこからは、それ以上単純化不可能な概念しか取り出すことができない。こうした個的存在性が、可能態においてある共通本性の存在性を限定し、完成する現実態の位置にある。さらにこうした思考、すなわち‘同一のものから類概念や種差概念といった異なる概念を取り出されることができるのであるから、同一のものの内に、このような複数の概念を成立させる根拠である複数の存在性が存在するのであり、それら一方の存在性は他方の存在性に対して、現実態が可能態に対する如き関係にあり、一方が他方によって限定され完成される’という発想は、個体化の理論だけでなく、スコトゥスの哲学全体に共通に見出される思想である。

このようなスコトゥスの共通本性と個体化の理論に対するオッカムの批判の根底に、序論で述べられた‘心の内の言葉の側のことと、心の外のものを明確に区別しようとする’彼の哲学的意図が見出されることは明らかである。オッカムは、‘事物を認識して、正当にある概念を取り出すことができるとすれば、その概念に対応する何らかの存在性が心の外の実在的事物の側になければならない。さもなければ、心の内に形成された概念はすべて虚構であることになる’と考えるスコトゥスの思考法そのものを批判しているスコトゥスに対するオッカムの批判の意図が、‘多くの個物の内に内在している普遍的原理、共通本性、が心の外に存在すること’の否定であった。ここでのスコトゥスに対するオッカムの反論は、スコトゥスによれば、ソクラテスはその種の本性(人間性)によって個物であるのではなく、その共通本性をこのものへと特定化する個体的差異、ソクラテス性が共通本性に付加されなくてはならぬ。これに対して、オッカムは反論する。「人間」と「人間性」の関係は、「ソクラテス」と「ソクラテス性」の関係と同じである。然るに、ソクラテス自身とソクラテス性は、外界の事物の側において、存在において異なるものではない。それゆえ、「ソクラテス」と「ソクラテス性」は同義語である。従って、「人間」という具象語と、「人間性」という抽象語も同義語である。スコトゥスの主張するような共通本性やこのもの性を認めることはできない。

スコトゥスによれば、我々の世界を根拠づける普遍的原理として、共通本性が個体化の原理によって特定化されることによって個物が存在する。これに対してオッカムは、心の外のいかなるものも、それ自身によって個であり、数的に一であると主張する。我々の周囲には、多くの事物が個として存在している。それらのものを認識する過程の中で、我々人間の知性をそれらは一まとまりに捉え、普遍的な概念を形成し、それを多くの個物に述語づける。オッカムによれば、我々人間の知性が普遍的概念を形成する以前においては、いかなる普遍も存在しないのである。かくして普遍的な原理が、心の外から、認識する者の心の中へと移行する。

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