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2012年5月20日 (日)

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」(4)

「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのか永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する。(定義6)

A実体はA属性に関するすべてのリアリティ(事物性)を尽くしている。同様にB属性についてはB実体というように。これらA属性、B属性、C属性…を全部持っている実体Xを考えてみると、その実体Xはおよそありうるすべてのリアリティを尽くしていることになる。その実体Xが「神」である。つまり、「属性」とは、実体であることを察知できる具体的手がかりのことだ。そして、属性ごとに実体がどのようなものであるか分る。実体はどの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われた。であれば、どの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われるような実体Xを考えればいい。

とすれば、「神」をこのように定義しておけば、我々はすべての事物性を尽くすもの、すなわち「在ることのすべて」について説明する定理を導くことができる。これまで、属性ごとに表現されていた実体のリアリティを無限に反復・重畳し尽くしている究極のXで、実体と分る無限なるすべての顔を持つ唯一者、それが「神」なのである。

そして、「神」の存在の証明もおこなっているが、実にシンプルで、「実体の本性には存在することが属する」(定理7)ということから、実体が存在しないすれば矛盾する。ところで、神は実体である。よって「神、あるいはおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体は必然的に存在する」(定理11)というものだ。現実が間違いなくあるのなら、間違いなく存在するとか考えられないようなものでそれを説明すればよい、というものだ。これなら無神論者も同意するかもしれない。

現実は一つしかない。現実は唯一で、どこまで行ってもこれと別の現実なるものはない。「何かが存在する」と言うことと並んで『エチカ』が説明しようとしているのは、この唯一性である。

「神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない」。実際に神以外に実体が存在するとすれば、それは神の無限にある属性のどれかと同じ属性でなければならない(神は全ての属性を持っているから)。ところが同じ属性の二つの実体は存在し得ない。ゆえに神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない。ここから系として、「神は唯一である」が出てくる。「唯一」というのは、一つ二つとカウントする時の「一つ」ではない。他を絶するという意味での「唯一」である。

これで、何かがあるという時の「ある」の全域が確定されたことになる。「すべて在るものは神の内に在る、そして神なしには何ものも在りえずまた考えられない」つまり、様々な現実は全て、神の「様態」ということになる。

「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態に他ならない。」(定理25の系)様態とは定義によって実体の変状のことだった。だから個々の現実は私を含めて、神の属性ごとに変状したものだ、ということになる。当時の一般的な考え方では、世界は神がつくったということになっていた。しかし、スピノザでは「つくる」という言葉が完全に消えている。神は作らないし、事物に様態化し変状する。

つまり、神とその様態の関係も、このように考えればよい。神を神にしている本質は無限に多くの属性で表現される。つまり、おのおのの属性が「これが実体だ」と告げるまだから、属性が神的実体の実質的な定義にあたる。すると、それらの属性から無限に多くの特性が必然的に出てくるはずだ。それらの特性はみな、もちろん神において在り、神なしには在ることも考えることもできない。定義からしてそれは神の様態のことである。だから、様態は神的実体によって「つくり出される」のではなくて、神的実体の本質から、ちょうど幾何学的に特性が帰結するように「出てくる」。

「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、(言い換えればおよそ無限の知性に入ってきうるすべてのものが)出てこなければならない」(定理16)

これが神の様態化に当たる。神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではなく、神自身が幾何学なのだ。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。

「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身の身によって活動に決定されるものは「自由である」と言われる」(第1部定義7)

こうしてひとり神のみが自己原因であることになる。このようなスピノザの神は制作しないので、外から働く「超越的原因」ではない。あらゆるものの本質と存在そして動きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在的原因」である。いわゆる「汎神論」だ。

神を神であるようにしている本質は永遠で無限である。それを表現する属性から出てくる様態も永遠で無限なものでなければならない。しかし、神の無数にある属性のうち、我々人間に知られているのは「延長」と「思考」の二点である。延長属性ではまず、運動と停止、という根本規則が出てくる。いつでもどこでもおよそ物理的なものすべてに及ぶという意味で、それはたしかに無限な態様である(直接無限様態)。そしてここから物理的な無限宇宙の全体が出てくる。(間接無限様態)ここで、属性は神の本質を表現するものだったから、思考属性でも同じプロセスでなければならない。我々人間の知っている思考属性はすべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。そこでまず出てくるのが物理法則の理解(直接的無限様態)、そしてそこから変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接的無限様態)が必然的に出てくる。スピノザが「無限な知性」と呼んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことである。

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